天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

黒澤明監督談『七人の侍』は西部劇と違い33人の野武士を一人一人殺すがそれをちゃんと人数分描く必要有り

2010-10-06 22:33:15 | 日記
今日の日記は、今私が読んでいるエッセイ集『対話 山田洋次 2映画は面白いか』(1999年旬報社刊)での山田洋次と黒澤明・井上ひさしの鼎談のことです。添付した写真は、その著書の挿絵的に掲載された映画『七人の侍』で走る勘兵衛(志村喬)です。
この著書の2章「七人の侍」ふたたび(『文藝春秋』1991年12月号初出稿)で、山田洋次・黒澤明監督と作家・井上ひさしがお互いに含蓄ある鼎談をしています。以下に、私が強く印象に残った三人の言葉を、引用し一部掲載します。
・山田『あの話は本当ですか。「七人の侍」の前の作品の「生きる」でスタッフはすごく苦労して、もう黒澤組は懲りたと思っていたら、黒澤さんが「今度は楽しいのをやるよ、西部劇みたいな痛快大娯楽映画だから簡単だ」とおっしゃた。』
・黒澤『いや、簡単だとはいわなかったね。』
・山田『「生きる」のような、主人公がガンで死ぬなんて陰気な話じゃない、今度は痛快なんだといわれて、よーし、それならラクそうだと思って、みんな摑まっちゃった(笑)。』
・黒澤『そんなような気持ちで始めたのは事実ですよね。ところがやり始めてみるとやっぱりラクじゃなかった(笑)。あれはね、西部劇と違ってどこが大変かというと、<きめ>が細かいんですよ。たとえば野武士の数が33人いるでしょう。その一人一人を殺していくんですが、それをちゃんと人数分やらなきゃいけないわけ。』
・山田『勘兵衛(志村喬)が、地図の上に33のマルを書いて、倒した分だけバツ印をつけていく、あれですね。』
・黒澤『ええ。その<きめ>が細かくて、西部劇みたいに大ざっぱにはいかないんですよね。』
井上『つまり大きなところはすごく単純なんです。でも細かいところが豊富なんですよね。これは大切なことだと思います。大きなところが複雑で、細かいところが貧弱ではただのメッセージ映画ですし、お客さんが離れていきますものね。だから、単純さのなかの豊富さというのは、また一つの僕らの体験だったと思うんです。』
・黒澤『全体の構成は、すごい線の太いのでぐっと作っておいてね。それじゃなきゃ細かいところに力を入れられないでしょう。ディテールだけにあまり力を入れると、全体がひん曲がってくるんですよ。』
・山田『幹がしっかりしていれば、枝葉を相当伸ばしても大丈夫なはずなんです。』
さすがに、鼎談している三人は、映画の本質をよく理解しています。リメイク版『十三人の刺客』を作った三池崇史監督には、この三人の会談を読んでから、私は自身の映画製作を開始してほしかったです。読んでいれば、安易に明石藩の警護武士を200人に水増ししなかったと私は思っています。
「『七人の侍』を30回見た、でもあと20回は見て死にたい(1991年時点)」とこの著書で語っている井上ひさしが、この映画を熟知しているは当然ですが、山田洋次監督までもこの映画の一シーンを即座に詳しく黒澤明監督に答えています。
このエッセイ2章を読んで、やはり、映画人や文化人にとって、映画『七人の侍』は「永遠のバイブル」であると、私は得心しました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 映画『日本侠客伝・花と龍』... | トップ | 好きな男名を肌に掘り込むプ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事