インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

不協和音

2011-07-12 06:18:53 | 考えるインディオ
5時過ぎから起きているが、既に蝉がじりじり鳴き始め、海辺のアパートはじわじわ温度が上がりつつある。昨夜も寝るときだけ冷房をチョットしたが、「もう勘弁してくれ」という感じである。早朝が一番快適で、何か書こうと思うが、カスタネダの読み込み過ぎで頭がおかしくなっているため、何か普通の文章が書けない。「呪術とは普通では掴めない何かを掴もうとする行為である」、とか上手い具合に表現されているが、砕いて言えば、「呪術とは頭をおかしくする行為である」、に違いない。

 呪術の道を行くということは、自分をおかしくする戦略を練ることであり、「いかに普通とは違った状態に自分を導くか」である。朝っぱらからこんなことを考えていると、毎日の生活の中で、「まさかこんなことになるとは…」と思わされるシーンが少しぐらい現れる。

 論じるなら、「奇妙な音」である。

 現代文明があるリズムを持った明るい音楽であるとするなら、我々はそれに耳を傾け、溶け込もうとしているし、楽しくそれで生活している人も多い。

 しかし、天邪鬼というか、偶然入ってきた不協和音に注意を奪われ、そっちに引き込まれていくケースもある。そうなるなら、現代文明の音楽は耳障りで、消してしまいたい衝動に襲われるかもしれない。しかしそれは無理なので、自分から遠ざかるわけか。羅漢寺のような山奥で、不協和音の芸術に浸り、ひっそりと生きていく…。

 カスタネダの書物がどこまで真実なのかは不明であるが、世界観としては完ぺきに近い呪術の体系で、「本当にエネルギーが見えるのではないか?」と思わされる。見るといっても目で見るのではなく(第三の目か?)、見ること自体はそんなに難しくないらしく(思うように集合点の移動や固定させるのが難しい?)、とにかくエネルギーを蓄えること、こうやってグダグダと考えないこと、である。

 エネルギーを蓄えるということについては、余計なことに神経を使わないだけでなく、仙道にある練丹法のようなことを実践しなければならないのかもしれない。

 不協和音の泥沼に足を突っ込み、ずぶずぶと嵌まり込んで行っているのかもしれないが、本人は楽しくて楽しくて仕方がなかったりするのだから、そういう世界にたくさん人が集まるのだろう。

 そんな楽園を異垣間見せてくれるナワールは存在しないが、そういう世界にただ気づいていないだけなのかもしれない。

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