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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

道南二山山旅日記 ③

2019-06-14 15:29:23 | 道内の旅

美利河集落のところにあった温泉で汗を流し、黒松内まで移動して、早々と今夜の宿所としました。
もう、車の遮光体制も終わり、臨戦態勢(睡眠)が整いました。今朝は早かったですし、少しでも疲れを取るために早々に眠りに入ろうと思います。
黒松内の道の駅は「toit vert II(トワ・ヴェール・ドウー)」などとフランス語の表記をしています。意味はどうゆう意味なんでしょうかね?
それでは、明日の好天を願いおやすみなさい。

写真はその道の駅「toit vert II」の全景です。


道南二山山旅日記 ②

2019-06-14 12:15:30 | 道内の旅

無事に美利河丸山を下山しました。登山口は圏外のために、登山口からしばらく下った美利河という集落で車を停めて投稿しています。
美利河丸山は674mと小さな山ですが、標高差が455mあるため登りごたえのある山でした。
登山ルートは整備されている方でしたが、山頂に近づくにつれて、ササ(根曲がり竹)が覆い被さっていて、やや苦労しました。
体調、年齢を考え無理せずゆっくりと思いながら登ったのですが、やはり歳ですね。時間はかかったのに、しっかりと疲れました。
さあ、明日はどうなるでしょうか?

写真は登山口の様子ですが、山小屋とか、温泉施設があるのですが全て休業中でした。


道南二山山旅日記 ①

2019-06-14 10:04:18 | 道内の旅

今金町の美利河丸山山頂に来ています。
第1信を登山口から発信しようとしたのですが圏外のため断念したのですが、山頂からは大丈夫のようです。
今朝、札幌から約170キロ走って今金町の美利河丸山の登山口に着きました。
体調も膝の調子も万全ではないのですが、6月の空を眺めていると体が疼きだし、車を走らせました。
山頂は雲に覆われて眺望は効きませんが、コンデションはまずまずです。
これから下山して、今日は近くの道の駅で一泊し、明日は長万部岳、明後日は黒松内岳に登ることができたら、と思っています。もっとも体調と天気次第ですが…。天気か下り傾向なのが気がかりです。



映画 239 僕たちは希望という名の列車に乗った

2019-06-13 19:49:18 | 映画観賞・感想

 映画の題名を見ると、やや前時代的にも感じられる。しかし、私は反対に題名に惹かれて映画館に足を運んだ。映画を観終わり「あゝ、良い映画を観たなぁ…」という感慨に浸ることができた映画だった。

                

            ※ ポスターの中で前列右がクルト、左から二人目がテオが主役の二人です。

 映画が旧東ドイツで起こった実話をもとにしたものである、ということを知り興味がわき今日(6月13日)午後、上映館である「シアターキノ」に足を運んだ。

映画のストーリーを広く配布されているフライヤーの文章から拝借すると…、

「1956年、東ドイツの高校に通うテオとクルトは、列車に乗って訪れた西ベルリンの映画館でハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を目の当たりにする。クラスの中心的な存在であるふたりは、級友たちに呼びかけて授業中に2分間の黙祷を実行した。それは自由を求めるハンガリー市民に共感した彼らの純粋な哀悼だったが、ソ連の影響下に置かれた東ドイツでは“社会主義国家への反逆”と見なされる行為だった。やがて調査に乗り出した当局から、一週間以内に首謀者を告げるようにと宣告された生徒たちは、人生そのもの関わる重大な選択を迫られる。大切な仲間を密告してエリートへの階段を上がるのか、それとも労働者として生きる道を選ぶのか……。」 

          

          ※ 映画の一場面。当局からの追求に苦悩する生徒たちの場面です。

 1956年というと、あの悪名高き(?)「ベルリンの壁」が築かれる前である。東ドイツの人たちも検査があったとはいえ、西ベルリンにも行き来することができた時代である。しかし、東ドイツの住む若者たちにとっては社会主義の窮屈さを感じながら日々を送っていたことは想像に難くない。そうした中で、ハンガリーの民衆蜂起に彼らは大きな勇気と希望を抱き、黙祷はそのことに対するちょっとした共感を表す行為だったのだが、これが当局の逆鱗に触れてしまったということだ。

 映画の見どころは、当局から追及される中で、自分の思いに忠実に生きるのか、それとも当局の言いなりとなって自らの身を守るのか、苦悩し葛藤する彼らの姿である。結論は映画の題名からも想像されると思う。彼らのほとんどは、当局の意向に逆らい西ベルリンに向かう列車にのって故郷を後にしたのである。

             

             ※ ポスターを背にしたドイツ人監督のラース・クラウメさんです。

 映画の最後に、「彼らクラスメイト19人のうち4人を除き、西ベルリンで高等学校の卒業資格を得た」というエンドロールが流れた。

 こうした動きが東ドイツ当局を刺激し、1961年8月に突然東西ベルリンの間に“壁”を築き人民の往来を禁止した。

 私事ではあるが、私は1968年10月に西ベルリンを訪れる機会があった。そこには「ベルリンの壁」が厳然としてあった。私はその際、東ベルリンにも入ることができたが、壁近くの東ベルリンの街は住宅(アパート)が建っているものの人の気配を感ずることのない寒々とした風景だったことを記憶している。あるいは、壁に近いところには住民が住むことが制限されていたのだろうか?

 その後、東ドイツを含む社会主義国家だった東欧の国々はご承知のように次々と民社化されたことは周知のとおりである。東ドイツだけではなく、東欧の国々の中では映画のような苦悩や葛藤があらゆるところで繰り広げられていたことが想像される。

 自分の思いや願いを抑圧される苦悩を体験することのなかった自分には彼らの苦悩にどれだけ寄り添えたか疑問であるが、権力が個人を縛るということだけはこの世から消え去ってほしいと願いたい。

                

               ※ 原作の日本語訳も刊行されているようです。

 なお、僕たちは希望という名の列車に乗った」という題名は日本で付けられた題名であり、ドイツでの原題は「沈黙する教室」という題名だそうである。

 


「さっぽろの古を訪ねて Ⅱ」 ~ 小樽市を訪ねて 後編

2019-06-12 14:06:35 | 「めだかの学校」関連

 小樽市の中心部に戻ってきた私たちは「おたる案内人ボランティアガイドの会」の三人のガイドに案内され、小樽市が栄華を誇った時代を今に伝える歴史的建造物の数々を巡って歩いた。     

 私たちは小樽市総合博物館が建つ手宮から市中心部に遺された「手宮線跡」を約2キロを散策して、午後の見学のスタート地点の「運河プラザ」に着き、昼食の時間とした。

          

          ※ 「旧手宮線跡地」というプレートが線路跡に立てられていました。

 昼食はそれぞれお好みの形で摂ることにしたが、私は小樽名物の一つ「あんかけ焼きそば」を食することにした。地元の人に聞いたところ近くの中国料理店「好(ハオ)」を紹介してくれた。この「好(ハオ)」が入っているビル自体が小樽市の歴史的建造物に指定されているビルだった。

          

          ※ 「好(ハオ)」の入口の所には「歴史的建造物」指定のプレートが掲げられていました。

          

 私たちは6人で入店したのだが、6人が全員「五目あんかけ焼きそば」(800円)を注文した。ボリューム満点の「五目あんかけ焼きそば」は私の舌にはやや甘くも感じたが、具も豊富で美味しくいただくことができた。

          

          ※ ボリューム満点の「五目あんかけ焼きそば」です。

 14時、それぞれ昼食を終えた受講者はスタート地点の「運河プラザ」に集まり、三つの班に分かれ、それぞれの班を担当するガイドに導かれて歴史的建造物見学ツアーに出発した。案内していただいた建造物は次のとおりである。

             

             ※ ウェブ上から拝借した「好(ハオ)」が入居しているビルです。

①旧安田銀行➪②旧四十七銀行➪③旧梅屋商店➪④旧塚本商店➪⑤旧川田商店➪⑥旧小樽商工会議所➪⑦旧越中屋ホテル➪⑧旧三井銀行➪⑨北海道拓殖銀行➪⑩旧三菱銀行➪⑪旧第一銀行➪⑫旧日本銀行小樽支店➪⑬旧手宮線➪⑭旧三井物産➪⑮旧北海道銀行本店➪⑯小樽郵便局➪⑰浅草橋街園➪⑱小樽運河散策➪小樽運河プラザ

            

            ※ こちらもウェブ上から拝借した旧日本銀行小樽支店です。

と多岐にわたる建物を見せていただいた。見学した界隈は、当時「北のウォール街」とも称されていたということだが、当時に日本の主たる銀行が集中し、小樽の栄華を偲ばせるものだった。

           

           ※ 私たちの班を担当されたガイドの方です。

 特筆すべきは「おたる案内人ボランティアガイドの会」のガイドぶりである。ガイドをすることに誇りをもって建造物を、小樽の歴史を紹介してくれたことである。個人差は多少あったようにも思えたが…。

 私たちは毎回受講者にアンケートに答えてもらっているが、今回のアンケートの自由記述欄には「たくさんの歴史を教えていただき、小樽の素晴らしさを知ることができました」、「ガイドさんの説明が分かりやすく良かったです」、「観光地ガイドの本領ここにありと実感する」などの声が寄せられた。

          

          ※ ガイドツアーの最後は小樽名物の「小樽運河」を浅草街園から写しました。

 私たちの年代で、一日中戸外で学習をすることは体力的にも大変なことだが、アンケートからうかがえるのは、大半の方が満足していただいたとの回答を寄せられたことで、企画運営した一人としてホッとしているところである。

          

          ※ 楽しく交歓した懇親交流会の様子です。

 私たちはこの後、希望者を募って小樽市内で懇親交流会を開催した。参加者は全体の半数ほどだったが、楽しく歓談する中で新たな人も知ることができ、有益なひと時を過ごすことができた。


「さっぽろの古を訪ねて Ⅱ」 ~ 小樽市を訪ねて 前編

2019-06-11 20:14:02 | 「めだかの学校」関連

 明治開拓期、お雇い外国人の一人で幌内鉄道を敷設指揮したジョセフ・U・クロフォードの事績を尋ねて小樽市総合博物館を訪れた。博物館では依頼していた学芸員、そして博物館ガイドボランティアの方の力に依ることが大きく、受講者から好評をいただいた。

           

          ※ まずは小樽市総合博物館前に立つ「ジョセフ・U・クロフォード」像前で全員写真をパチリと。

 「めだかの学校」が企画運営する講座「さっぽろの古を訪ねて Ⅱ」の第3回講座を昨日10日(月)、小樽市を会場にして開催した。

 今回の目的は開拓期に幌内鉄道の敷設のために大きな力を発揮したジョセフ・U・クロフォードの事績を展示し、当時の機関車なども展示されている小樽市総合博物館を訪ねることだった。

          

          ※ 博物館に入ると、まず目に飛び込んでくるのが当時の機関車の一つ「しずか」号です。

 同時に、小樽市まで遠征したことを機会に明治から大正にかけて繁栄を誇った小樽市に遺されている数々の歴史的な建造物を訪ね歩くことも目的の一つとした。前編では小樽市総合博物館の見学についてレポすることにする。

 私たちはまず小樽市総合博物館を訪れた。依頼してあったとおり、鉄道史を専門とされている学芸員の方から説明いただいた。学芸員の方は大変丁寧に展示物などについて説明してくれた。ただ、担当の私としては学芸員の方にはクロフォードの事績についてレクチャーいただき、その後は博物館内の展示物について博物館ガイドボランティアに説明していただくことを期待し、その旨博物館には依頼していたのだが、私の願いが十分伝わっていなかったとみえ、その後のガイドボランティアの方と説明がかぶってしまったのが少し残念なところだった。そのガイドボランティアの方もベテランの方で、ユーモアを交えながらの説明が受講者たちから好評だった。

          

          ※ 当時アメリカから輸入された機関車の独特の形をした煙突です。

 その説明の中で、私の記憶に残っていることは当時のアメリカから輸入した機関車の煙突の形である。私が記憶にある機関車の煙突は真っすぐな円筒形であるが、当時の機関車の煙突の形は写真のような独特の形をしている。その理由について学芸員の方は「燃料の不完全燃焼などで煙突から火花が飛ぶことを避けるために、石炭燃焼後の煙を煙突内を循環させるために太くても特異な形となった」という話に納得した私だった。

          

          ※ 当時の機関車庫の一つ3号車庫です。

 また、クロフォードが札幌~小樽間の急峻な崖の開削のためにアメリカの技術を導入してわずか1週間で大きな鉄橋を架けたというお話には驚いた。機械力もあまりない時代にどのような技を駆使したのか、現場に立ち会いたい思いをしたものだった。

          

          ※ やはり当時の一等客車の内部です。明治初期ですが贅沢な造りです。

 そのほか様々な展示や機関車、車庫など2時間にわたって説明を受け、博物館を後にし、私たちは博物館のある手宮から小樽市の中心部にある「運河プラザ」まで約2キロの手宮線跡(幌内線の引き込み線)を散策しつつ向かった。

          

          ※ 手宮線跡の散策路を往く受講者たちです。

 天候は快晴で、6月の北海道の爽やかさを感じながらの心地良いウォーキングとなった。

 

 (小樽市歴史的建造物の見学についてレポは後編で)


スポーツ!北海道 お話と歌の集い

2019-06-10 20:13:58 | 講演・講義・フォーラム等

 渡辺守成氏が国際オリンピック委員会(IOC)の委員であり、国際体操連盟の会長という要職に就いていることを初めて知った。その渡辺氏のお話と、トワ・エ・モアのミニコンサートを楽しんだ9日(日)の午後だった。 

 6月9日(日)午後、北海道新聞社が主催する「スポーツ!北海道 お話と歌の集い」が道新ホールで開催され、入場券を入手できたので参加した。

 イベントのメインは国際オリンピック委員会(IOC)の委員であり、国際体操連盟の会長という要職にある渡辺守成氏「オリンピックの現状と改革の行方 2030年札幌招致を視野に入れて~」と題する講演にあった。

             

             ※ ウェブ上から拝借した渡辺守成氏です。

 私はスポーツ界のことについてはかなりチェックしているつもりだが、渡辺守成氏が国際体操連盟の会長であり、かつIOCの委員という要職に就いているということは全く知らなかった。というのも、渡辺氏が体操選手として現役時代に特別実績を残した選手ではなかったこと、さらには日本体操協会の役員人事などには特に関心を持たなかったからだ。(調べてみると、渡辺氏は2000年に日本協会の常務理事、2009年からは専務理事に選出された経歴があった)

 渡辺氏も自身の知名度が低いことは自覚されていたのか、講演のはじめはご自身の来し方を紹介するものだった。渡辺氏は学生時代(東海大学)に2年間ブルガリアに体操に関して留学を体験している。このときブルガリアの新体操と出合い、帰国して新体操の普及に努めたそうだ。当時のジャスコ(現在のイオン)に入社し、新体操チームを作り指導者として活躍するとともに、日本体操協会の運営にも携わってこられたようだ。

          

          ※ IOCにおいて発言するご自身の写真を背に講演する渡辺氏(右端)です。

 しかし、数ある国際競技連盟の会長に就任している日本人は渡辺氏只一人であるし、IOC委員ももう一人の竹田恒和氏の辞任が決定的といわれているからこちらも只一人の日本人ということになるVIPである。世界的にはIOC委員というと貴族や王族たちが多い中、渡辺氏はサラリーマン(現在もイオンの社員だという)という異色の存在だそうだ。

 渡辺氏はIOC委員就任とともに、東京オリンピックの組織委員会理事にも就任されたそうだが、その立場からお話された。それによると、東京オリンピック・パラリンピックはけっしてバラ色の見通しとはいえない現状のようで、数々の課題を抱えながら準備が進められているようである。渡辺氏はその状況を第二次世界大戦の「ダンケルクの戦い」になぞらえた。つまり課題に対して正面からばかり解決を図るのではなく、別な角度からの発想も取り入れながら課題解決を図っていくことが大事であり、日本人は必ず課題を克服できると渡辺氏は語ったと、私は受け止めた。

 渡辺氏のお話で興味深かったことは、東京オリンピックで初めて採用される「スケートボード」、「サーフィン」、「スポーツクライミング」などアーバンスポーツが隆盛であると表現されたことだ。これらアーバンスポーツと称されるスポーツに取り組む人たちは、競技を“楽しんでいる”ことが特徴だとした。そして今後ますますアーバンスポーツがオリンピックに進出してくるだろうと予想された。

 そして最後に、21世紀の産業革命はスポーツから」と力説された。スポーツ界に身を置く方の発言としてその理念は理解できるが、産業革命となると「果たして?」という思いも私の中には残ったのだが…。いずれにしても、IOC委員として、国際体操連盟会長として、世界100数十ヵ国を飛び回り、日本にいることが少ないという日常を過ごす渡辺氏の今後の世界的な活躍に期待したいと思う。

          

          ※ ご存じ、いつまでも爽やかな歌声を届けてくれるトア・エ・モアの二人です。

 イベントの最後は、トワ・エ・モアの二人のミニコンサートだった。彼らはコンビ結成50年を迎えたという。変わらぬ爽やかな歌声はいつ聴いても素晴らしい!ご存知「虹と雪のバラード」、「地球は回るよ」、「誰もいない海」、「翼をください」、「空よ」の5曲を歌い上げた。また、最近札幌では「虹と雪のバラード」のアレンジコンテストが開催されたそうだが、そこでグランプリを獲得した「パレット×岩佐亜由美」のトリオがオリジナル曲とは違うティストの「虹と雪のバラード」を披露してくれたのも新鮮だった。

          

          ※ 北海道の若い感性「パレット×岩佐亜由美」のトリオです。


映画 238 あん & ドリアン助川講演

2019-06-09 19:52:02 | 映画観賞・感想

 ハンセン病患者がおかれていた厳しい現実を映す映画であるが、名優樹木希林が主演した映画という意味でも記念碑的映画である。映画上映の後、原作者のドリアン助川氏が著書「あん」誕生の背景を語った。

                

 今日(6月9日)午前、札幌プラザ2・5において『あん』の上映と、原作者であるドリアン助川氏の講演があると知って駆け付けた。

 映画『あん』の内容については、ウイキペディアの掲載内容を拝借する。 

「季節は春。桜の咲き乱れる公園に面したどら焼き屋、『どら春』で、辛い過去を背負う千太郎(永瀬正敏)は雇われ店長を続け、日々どら焼きを焼いていた。ある日この店を徳江(樹木希林)という手の不自由な老婆が訪れ、バイトに雇ってくれと千太郎に懇願する。彼女をいい加減にあしらい帰らせた千太郎だったが、手渡された手作りのあんを舐めた彼はその味の佳さに驚く。徳江は50年あんを愛情をこめて煮込み続けた女だったのだ。店の常連である中学生ワカナ(内田伽羅 樹木希林の孫娘)の薦めもあり、千太郎は徳江を雇うことにした。徳江のあんを使ったどら焼きのうまさは評判になり、やがて大勢の客が店に詰めかけるようになる。だが、店のオーナー(浅田美代子)は徳江がかつてハンセン病であったとの噂を聞きつけ、千太郎に解雇しろと詰め寄る。そしてその噂が広まったためか客足はピタリと途絶え、それを察した徳江は店を辞めた。素材を愛した尊敬すべき料理人である徳江を追い込んだ自分に憤り、酒に溺れる千太郎。ワカナは彼を誘い、ハンセン病感染者を隔離する施設に向かう。そこにいた徳江は、淡々と自分も自由に生きたかった、との思いを語るのだった。」

           

          ※ 出演者を囲んで左端がドリアン助川氏、右端が監督・脚本の河瀬直美氏です。 

 上記内容でもお分かりのように、我が国がハンセン病患者に対して行ってきた隔離対策によって自由を奪われて人生を過ごしてきた主人公(徳江)を通して、人として生まれてきたことの意味を問う映画である。原作(ドリアン助川)の良さ、監督・脚本の河瀬直美のプロデュース力、徳江役の樹木希林、雇われ店長役の永瀬正敏の好演が相まって非常に上質な作品に仕上がり、考えさせられる映画だった。

            

            ※ 札幌プラザ2・5のステージ上で講演するドリアン助川氏です。

 映画上映の後、原作者のドリアン助川氏がステージに登場し、作品誕生の内側を語った。それによると、彼自身が非常に波乱に富んだ人生を送ってきたようだが、そうした中で絶えず“生きることの意味”を問い続けていたという。ある時、ラジオ番組で若者の人生相談をしていた際に、「社会のために役立たねば生きている意味がない」的な若者の声を聞いたことが、ハンセン病に目を向けるキッカケになったという。

 ドリアン氏は普遍的な意味で「この世に生まれてきた意味」を考え続けたという。そして次の言葉が生まれたそうだ。「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちには、生きる意味がある」と…。

 ハンセン病ばかりでなく、残念ながら我が国には過去、現在を問わず数々の“差別”の問題が存在している。私たちは社会的弱者と言われる人たちに対してもっともっとセンシティブ(敏感)にならなければならない、ということをこの映画は訴えていると受け止め、私自身もそうありたいと自省させられた映画だった。


ワンコインランチ紀行 60 北海道スープスタンド 札幌エスタ店

2019-06-08 19:47:35 | ワンコインランチ紀行 

 フードコート内での食事、紙製のカップとプラスチックのスプーンとくると、ちょっとチープ感を感じさせるシチュエーションである。その先入観が最後まで解けなかったのが少々残念だった…。

           

        ※ 「北海道スープスタンド」のカウンターの前です。ここで会計、料理の受け渡しが行われます。

 「北海道スープスタンド」はたくさんのお客さんで賑わう札幌エスタの地下食品街の一角のフードコートに出店していた一店だった。フードコート内の一店とは意外な展開だった。システムは、お店のカウンターのようなところで先に会計を済ませて、そこから料理を受け取り、フードコート内のテーブルで食するという仕組みである。

                

                ※ 「北海道スープスタンド」の他のメニューです。

 このお店のランパスメニューは「北海道ひき肉と大地の豆のチリコンカンセット」(通常価格820円)である。セットのご飯は白米か発芽玄米をチョイスすることになっていたが、私はふだん食することのない発芽玄米をオーダーした。

 カウンターで料理を受け取るのだが、なんとその器は紙製であり、チリコンカンのスープをすくうのはプラスチック製のスプーンだった。そして食する場所が混み合っていたフードコート内のテーブル席ときてはチープ感満載である。

          

          ※ フードコート内のテーブル席の様子です。

 肝心のチリコンカンはそれなりに旨味のある一品であり、発芽玄米も思っていたより食べやすい味だった。

          

          ※ これが噂(?)の「北海道ひき肉と大地の豆のチリコンカンセット」です。

 料理には満足だったが、何せシチュエーションがシチュエーションである。満足感はイマイチの「北海道スープスタンド」だった。でもワンコインなのだから贅沢は言えないかもしれませんね…。

 

【北海道スープスタンド 札幌エスタ店 データー】 

札幌市中央区北5条西2丁目 エスタB1

電  話  011-233-6666

営業時間  10:00~21:00

      (ランチパスポート可能時間11:00~14:00)

定休日   エスタに準ずる 

座席数   190席(エスタフードコートの共有スペース)

駐車場   有(施設駐車場 2,000円以上で2時間無料)

入店日  ‘19/06/01

 


北大スラブ研公開講座№7 ポーランドを巡る「方言文学」について

2019-06-07 16:49:30 | 大学公開講座

 ポーランドの辺地、または国境を接する地域においては、いわゆる「方言」を使った作品を「方言文学」として確立しようとしたスラブ系の少数民族がいたという。二つの民族が「方言文学」を確立しようとした葛藤を聴いた。 

 5月31日(金)夜、北大スラブ・ユーラシア研究センターの公開講座(統一テーマ再読・再発見:スラブ・ユーラシア地域の古典文学と現代」)の最終講座(第7講)が開講された。

 最終講座は「『方言文学』から『古典文学』へ:スラブ系少数民族文学再考」と題して東スラブ・ユーラシア研究センター長を務める野町素己教授が講義を担当された。

 野町氏は「方言」と「言語」について次のように説明された。「『言語』とは、政治的(そのもっとも広い意味において)権限を与えられた言葉の変種、その変種を話す(そして書く)(民族)集団である話者コミュニティが置かれている政治状況を直接的に反映したもの」と規定したが、私流に言い換えると「政治的権力を握った者たちの集団が駆使する言語がその地域の“標準語”となり、そうでない者たちが使う言語は“方言”とみなされた」と解釈するのだが、大きく間違ってはいないだろう。

 そうしたことを前提にしてポーランドの北方にスラブ系のカシュブ語を話すカシュブ人がいる。そのカシュブ語圏において、現代カシュブ文学の父とも称されるフロリアン・ツェイノヴァ(1817-1891)が、カシュブ語は独自の言語であると考え、北部方言に基き標準語形成を試み、精力的な執筆活動を展開したが、急進的過ぎたこともあり普及はできなかった。続いて現れたのがヒエロニム・デルドフスキ(1852-1902)だった。彼は「ポーランドなきカシュブなき、カシュブなきポーランドなき」と語って、方言で執筆しつつもポーランド人にも分かるようにポーランド語と同じ文字で執筆するなど、カシュブ文学はポーランド文学の一部であることを意識した活動をしたという。

               

               ※ アレクサンブル・マイコフスキ

 さらに時代は下って現れたのがアレクサンブル・マイコフスキ(1876-1938)である。彼は「カシュブ的、すなわちポーランド的」と語り、カシュブ地方が文化的にドイツ化することに抵抗し、親ポーランド的立場に立ちながら、カシュブ語での執筆活動に取り組んだ。そうした姿勢がポーランド人からも受け入れられたのだろう。彼の代表作「レムスの生涯と冒険」はカシュブ地方ではもちろんのこと、ポーランド国内においても翻訳され広く国民の支持を得て、今やポーランドにおいて古典の地位を得ているそうだ。

 一方、チェコの東部モラビア地方はポーランドと国境を接する地域にあり、やはりスラブ系の民族が住んでいる地域だそうだ。この地域の住民は「ラフ方言」を話していたというが「ラフ方言」の位置づけは①チェコ語である。②ポーランド語である。③チェコ語でもポーランド語でもない。④チェコ語でもポーランド語でもある。というように非常にあいまいな位置づけにある(あった)ようだ。

               

               ※ オンドラ・ウィソホルスキ

 「ラフ方言」における重要人物は、この地域に生まれた詩人オンドラ・ウィソホルスキ(1905-1989)である。彼の生涯は波乱に富んでいる。詳しくは記すことができないが、1905-1939は生まれ故郷のシレジア(モラビア地方)やチェコの首都プラハ、あるいはフランス、イタリアなどに留学しながらラフ後での執筆活動も開始する。ところがナチスとの関係を嫌いイギリスに亡命を企てるが失敗してソ連に連行され、1939-1946までソ連で生活している。このソ連時代がウィソホルスキにとっては重要である。彼はソ連滞在時に精力的に詩集を刊行している。ということは彼の詩がソ連で受け入れられたことの何よりの証である。その理由は文学的に優れていたことはもちろんだが、彼が社会主義、労働者階級を礼賛し、民族自決、民族言語の創造を唱えたことがその理由とされている。彼はソ連においてラフ語の確立、ラフ民族独立を夢見たようである。しかし、その主張が危険視もされ、1946年にはソ連を追放されチェコ(当時のチェコスロバキア)に帰国することにもなった。彼は帰国後「独自のラフ語・ラフ民族」を放棄することになったという。彼にとっては夢破れたという言うべきか?ただし、文通や執筆は最後までラフ語で行われたという。

 

 この二つの事例を通して、野町教授は次のようにまとめられた。

 ①「方言」のレッテルを張られた二つのスラブ系マイノリティ文学の優れた作品を世に出す過程は容易ではなかった。

 ②しかし、結果的には双方とも、いわゆる「言語」による文学と遜色ない作品を生み出している。

 ③どちらの事例も「○○語・○○文学」という、ややもすれば「自明」にも思われる分類は、実際には恣意的かつ流動的な要素も含んでおり、規定しがたい場合があることを示している。

 

 全7回の講座を通して、スラブ・ユーラシア地域における文学とは、その時々の権力と向き合うことを余儀なくされる中で、苦悩し葛藤を繰り返しながら、自らの思いを発信していくという困難さと対峙していたことを私なりに少しは理解できたかな?と振り返っている。

 このシリーズの第1回目の時にも記したが、「文学」+「古典」となると私の最も関心外のことであり、その理解力にはまったく自信が持てなかったが、その稚拙さも顧みず、こうして7回の講座のレポを一応にも書き続けられたことをヨシとしたい。