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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北区歴史と文化の八十八選巡り №17

2022-10-25 16:59:04 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 北区歴史と文化の八十八選巡り№17はJR篠路駅周辺で選定された施設や史跡を巡り歩いた。JR(当時は国鉄)篠路駅は昭和10(1935)年に札沼線開業とともに開設され、当時は周辺で収穫される燕麦、たまねぎなどが貨物として輸送され、それに伴い周辺が発達したという。

70〉篠路コミュニティセンターの藍と篠路歌舞伎の展示

   

   ※ 篠路コミュニティセンターの外観です。

 篠路コミュニティセンターは、篠路駅からも歩いて行ける距離の篠路の街の中心街にある。昭和60(1985)年10月に地域の公民館的施設として建設され、地域の方々の文化的活動の中心施設となっているが、その一階ロビーの一角に「藍と篠路歌舞伎の展示」コーナーが設置されている。その昔地域の特産物だった藍と、地域を代表する芸能である篠路歌舞伎を伝承する展示としてはやや寂しいかな?という印象は否めないが、長く後世に伝えていってほしいと思う。その展示について説明している文章を紹介します。

   

   ※ コミセン内1階にある藍染と篠路歌舞伎に関する展示コーナーの様子です。

   

   ※ 篠路歌舞伎の衣装や幟、写真などが展示されていました。

        

        ※ 展示されていた歌舞伎のワンシーンです。

   

   ※ こちらは藍染の展示コーナーです。

   

   ※ 藍染の作品が展示されていました。

   

   ※ こちらは歌舞伎と藍染のコラボ製品でしょうか?

 篠路コミュニティセンターは札幌市北区篠路3条8丁目に立地するコミュニティセンター1階の一角では篠路の特産だった藍染めの歴史や作品、篠路歌舞伎に関する資料を展示している。
篠路地区では明治15年頃から藍の栽培が始まり、藍染めが盛んに行われたが、外国産の化学染料などの輸入によって、明治末期に消滅した。しかし、1984年には藍染めが復活している。
また、篠路歌舞伎は1902年から1934年まで続いた後に廃れたが、1985年に復活した。                      

     〔住 所〕北区篠路3条8丁目

     〔訪問日〕10月7日

71〉篠路駅周辺の倉庫群

 篠路駅周辺には、以前はよくJRの駅周辺で見られた石造りやレンガ造りの倉庫が現存している。道内各地のJR駅近くの倉庫は役割を終えるとともに消えていったのがほとんどであるが、篠路駅周辺の倉庫はどのような経緯なのかは不明であるが現存しているところで価値が出てきたようだ。そのことを説明する北区の説明は次のとおりである。

   

   ※ JR篠路駅の外観です。

   

   ※ 篠路駅のすぐ傍に立つレンガ造りの倉庫です。

   

   ※ 倉庫は現役の倉庫として活用されているようです。

 昭和10(1935)年、国鉄札沼線の全面開通により、篠路駅は野菜出荷の基地となり、周辺には石造りやレンガ造りの倉庫が数多く立ち並び、全国へ向けて玉ねぎなどが発送されていた。現在も駅周辺には数棟の倉庫が一群をなしており、市内のほかの地区には見られない独特の雰囲気を残しています。

   〔住 所〕北区篠路3条7丁目

   〔訪問日〕10月7日

〈72〉篠路獅子舞

 篠路獅子舞についてはシリーズ№16でも触れたが、もともとは「烈々布獅子舞」と呼ばれ、篠路烈々布地区で栄えた芸能である。烈々布の守護神である天満宮が篠路神社に合祀されるのに伴い、烈々布獅子舞も篠路獅子舞とその名を変えたようである。

   

   ※ 篠路神社の鳥居です。

   

   ※ 格式のありそうな篠路神社本殿です。

   

   ※ 境内には翌日の祭典に備えて出店が出店の準備をしていました。

         

         ※ 翌日に行われる獅子舞奉納を知らせるポスターです。

   

   ※ 篠路獅子舞の奉納の様子の写真をウェブ上から拝借しました。

 ところで私はこの日(10月7日)篠路神社を訪れ、翌日8日が篠路神社の祭典で白の獅子舞が奉納されることを知った。翌日に再訪するというのは我が家から遠い篠路地区では現実的ではなく、獅子舞の奉納の様子を実際に見ることが出来なかったことは残念である。

 ここに篠路獅子舞を説明する北区制作の説明を紹介します。

 富山県から篠路烈々布に入植してきた若者が中心となり、明治34(1901)年にふるさとと同じ獅子舞を望郷の思いを込めて演じたのが始まりと伝えられている。胴が太く優雅な女性的な舞が特徴。昭和37(1962)年に「篠路獅子舞保存会」が結成され、明治後期から青年たちによって、毎年篠路神社の秋祭りに奉納され続けてきたこの舞を、絶やすことなく今に伝えています。

 なお、先に獅子舞のことについて教えていただいた百合が原在住の中西俊一氏は長く「篠路獅子舞保存会」の会長を務められていたそうであるが、今年の奉納をもってその座を後進に継承したと後に電話で伝えていただいた。

   〔住 所〕 北区篠路4条7丁目篠路神社境内

   〔訪問日〕 10月7日

〈73〉力士・小松山之碑

 この〈73〉の力士・小松山の碑と、〈74〉の篠路神社の馬魂碑を見つけるのにかなり苦労した。二つ共に篠路神社境内にあるとなっていたので、境内をあちこちの探したのだが一向に見つからなかった。周りに聞く人も見当たらず諦めかけた時に、なんと神社境内の角隅に静かに鎮座していたのを見つけることができた。

        

        ※ 力士・小松山碑です。

 二つの碑について、北区制作の説明板には次のように記されていた。

 明治中期の篠路村で、数少ない素人相撲の力士として活躍した小松山(本名下山松太郎)。例年、篠路神社の祭礼で大関相撲を奉納し、また、後進の指導にも尽力していたことから、郷土の誇りとしてたたえるため、本村青年会が中心となり明治42(1909)年にこの碑を建立した。

   〔住 所〕 北区篠路4条7丁目篠路神社境内

   〔訪問日〕 10月7日

〈74〉篠路神社の馬魂碑

        

           ※ 力士・小松山碑の隣に建っていた「馬魂碑」です。

 篠路村の馬の歴史は。明治15(1882)年に、滝本五郎が興産社を組織して「大農式農業経営」を計画し、15頭の馬を導入したのが始まりです。大正15(1926)年にはフランスから「ペルシュロン種」の種牝馬アニー号を輸入するなど、馬産改良に大きな成果をあげました。この碑は、昭和44(1969)年に農業経営の動力として、また貴重な収入源としての農業の担い手であった篠路名馬をたたえるため建立されたもので、アニー号など、名馬5頭を合祀しています。

   〔住 所〕 北区篠路4条7丁目篠路神社境内

   〔訪問日〕 10月7日

〈75〉早山家のアカマツ

     ※ 現在アカマツは撤去されたため訪れることができませんでした。



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