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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

札幌歴史散歩 5 西区・発寒地区

2017-11-04 21:30:33 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 発寒地区にも屯田兵が入植しているが、それ以前から開拓民が入植していたことなどから、屯田兵の史跡などはあまり目立たなく、散在している印象である。それでもJR発寒中央駅周辺にいつくかの石碑を見ることができた。 

 発寒に屯田兵が入植したのは1876(明治9)年、前年の琴似に続いての入植だった。しかし、1882(明治15)年には琴似村と発寒村が合併したこともあり、琴似ほど屯田兵が後日注目された存在にならなかったのかもしれない。

               

 そんな発寒地区をJR「発寒中央駅」をスタート&ゴールにして石碑巡りをすることにした。
 発寒中央駅の降りると、その先の交差点向かいに地区センターと消防署が併設されている。その建物の裏側に「春日緑地」という小さな公園風の緑地がある。そこに二つの石碑があった。

 ① 發寒開邨紀念碑 

                    

               
 「春日緑地」には次に紹介する「永田久蔵之碑」の碑と並んで建てられている古びた石碑である。傍に説明板が立てられていたが、そこには「安政4年に、山岡主計頭さんが永田休蔵さんらと農家、17~18戸をさそいこの土地に住み荒れた土地をきり開いた。その時、この土地を発寒とよぶようになり、その後多くの人たちがこの土地に住みつくようになった。そこで安政4年を発寒の始まりと決め永く伝えるためにみんながお金を出し合ってこの記念碑をたてた」と説明されていた。
 碑は発寒屯田移住50周年を記念して大正14年に建立されたという。

 ② 永田休蔵之碑 

                    

               
 「發寒開邨紀念碑」と肩を並べるようにして、札幌軟石製の「永田休蔵之碑」が建っている。永田は当時の発寒村を開拓した中心人物だったようで、石碑の傍には次のような説明板が立てられていた。そこには「永田休蔵之碑 1857年4月に同志山岡精次郎さんらと共に、在住の中心として入地した永田休蔵さんは開拓のため、熱心に尽力された。その年の11月に大竹慎十郎さんと二人で石狩からの帰り道冬の海岸で強い風雪にあいなくなられた大正14年発寒屯田移住50年にその功績を追想してたてられる」と記されていた。

 「春日緑地」を後にした私は、地区センターの道路向かい斜め前方に位置する「発寒神社」に向かった。「発寒神社」の境内はけっして広い境内ではなかったが、三つの石碑が建てられていた。それと石碑とは関係ないが、現代らしい面白い施設が興味深かった。

               

 ③ 発寒移住記念碑 

                    
 「発寒移住記念碑」は自然石が積まれた上に安山岩の碑が建てられていた。
 碑文は漢文で表記されていたが、解説書によると
「安政元年幕府ハ目付堀織部正利煕勘定吟味役村垣淡路守範正ニ命ジテ蝦夷地巡視セシム其ノ復命ニヨリ発寒ニ幕府旗本ノ士ヲ移住セシムル事ニ決シ事ニ決シ安政四年与力山岡精次郎小普請組阿部兵庫支配秋山栄太郎其弟鉄三郎大竹鎮十郎永田休蔵輕部傳一郎〇(企の止の部分にエを入れる)豊三郎弓氣多源之丞秋場熊蔵鈴木顕輔酒井和三郎大谷某山田某ガ入地開墾に從事セリ永田休蔵ハ実ニ二十一戸ノ農家ヲ伴ヒ移住シ発寒ハ当時石狩原頭ニ於ケル唯一ノ集団移民地ナリキ 
      皇紀二千六百十九年五月 皇太子殿下御成婚記念 発寒神社宮司 有田久一 謹書」
と記されているそうだ。
 ちなみに皇紀2619年とは、昭和24年にあたるという。

 ④ 発寒屯田兵移住百年記念碑

                     
「発寒移住記念碑」の隣に、これも安山岩の石板に、
「発寒屯田兵移住百年記念碑」が建てられていた。石板の背面には「富国強兵北辺警備北海の大地開拓の国是の退任を荷負い三十二戸その家族による未開の大地開墾は言語を絶する苦難の業であったことが偲ばれ此の地に移住して風雪百年その功績を稱え以って碑となし後世に伝う    昭和五十年五月   発寒屯田兵子孫会」
と記されている。

 ⑤ 「環状石垣之跡」碑

                    

                
 神社境内奥に縦長の自然石に「史蹟 環状石垣之跡」と記された石碑が建っている。
 石碑の横には、横には石碑の由来を説明する石板が置かれていた。それによると、
「史蹟の復元について  先住民族の遺物は発寒地域より数多く出ているがこの環状石垣は昭和七年十一月この地より発掘された当時の二十墳墓の跡と思われる。推定八百~九百年以前のものである調査の記録に基づいて大体復元したが使用した碑石及び石垣は発掘当時のものである開道百年天皇皇后両陛下の本道行啓を記念し有志相謀りこれを建立せり 昭和四十三年戌申九月」
とあり、碑の近くには環状石垣を復元したものが展示されていた。

 以上が、発寒地区のJR発寒中央駅付近の石碑群である。「歴史散歩」としては、これに近くにある発寒小学校内にある「発寒小学校郷土資料室」を訪れてみるのが良いかな?と思われる。
 以上を巡り歩いて回っても距離的にはまったく問題ないと思える。

               

 ところで、発寒神社の興味深い施設のことだが、神社には拝殿に進む前に「手水舎」というのがあるが、発寒神社の「手水舎」が興味深かった。
 発寒神社の「手水舎」には「水」が見えないのだ。不思議に思い、そばに寄ってみると「近づくとセンサーが働いて水が出ます」という趣旨の掲示があった。試しに近づいてみると、なるほど岩の上の方から水が流れ出してきた。現代らしく、貴重な水を大切に使おうという神社からのメッセージだろうか??

  


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