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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北の歴史が動いた瞬間 1

2012-10-07 21:05:42 | 札幌学 & ほっかいどう学
 北海道がまだ蝦夷地と呼ばれていたころ、土着の民族であるアイヌと蝦夷地を侵略する和人との間で大きな抗争が3度あったとされる。その3度の抗争の最後にあたる「国後・目梨の戦い」について詳しく聴いた。 

 ノンフィクション作家として活躍する合田一道氏の講座が札幌学院大学のコミュニティカレッジで開催されると聞いて受講することにした。(3回シリーズで開催)
 その第一回講座が10月4日(木)夜、札幌学院大学社会連携センターで行われた。
 テーマは「国後目梨の戦い」だった。

 アイヌと和人の抗争史として有名なのは、1457(長禄元)年の「コシャマインの蜂起」、1669(寛文9)の「シャクシャインの蜂起」などがあるが、そうした大きな抗争の最後の戦いとなったのが1789(寛政元)年に勃発した「国後・目梨の戦い」だった。

 当時アイヌは和人との交易を盛んに行っていたが、和人のあくどいやり方に不満を抱いた国後・目梨のアイヌが蜂起したものである。
 この戦いで和人71人が殺害されたと記録されているが、アイヌの首長のとりなしにより蜂起したアイヌたちは矛を収め投降した。しかし、当時の松前藩はとりなしをした首長たちの命を保護する一方、蜂起の中心となったアイヌたちを処刑した。
 そしてこの戦いを境にしてアイヌ民族にとっては長く和人に隷属する暗黒の時代に入っていったのだった。

          
          ※ 「夷酋列像」の絵を背に講義する合田一道氏です。

 ここで講師の合田氏は極彩色に彩られた十数枚の絵を提示した。蠣崎波響(かきざき はきょう)作の「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」である。蠣崎波響作の「夷酋列像」については、以前に道民カレッジの放送大学講座で取り上げられていたことからよく知っていた絵だった。
 アイヌたちに蝦夷錦やロシアの軍服をまとわせた絵は、細密な表現と色鮮やかな色彩でリアリティのある絵として評判が全国に広がり、大名や公家たちがこぞって閲覧したと放送は伝えていた。
 それもそのはず、蠣崎波響は10代のころに江戸に出て10年もの間絵を勉強したということだから本格的な絵師だったのである。

               
               ※ アッケシ酋長 イトコイの図です。

 そんな蠣崎波響は絵師としてだけではなく、松前藩の家老として「国後・目梨の戦い」の討伐隊の指揮官の一人として現地に赴いているのである。
 そして「夷酋列像」に描かれているアイヌは、「国後・目梨の戦い」で蜂起したアイヌたちをとりなし、命を保護されたアイヌの首長たちということが分かった。

               
               ※ アッケシバラサン酋長 イニンカリの図です。

 そうなると、以前は単に美術作品として見た「夷酋列像」が、絵師としての才能の素晴らしさに感嘆した蠣崎波響が、また違って見えてきた。
 美術作品もそうした背景を知ることで、違ったものに見えてくるということを教えてもらった思いである。

               
               ※ クナシリ総酋長 ツキノエの図です。

 一方、主題に関することだが1789年に鎮圧された「国後・目梨の戦い」以降、1997(平成9)年に通称「アイヌ文化振興法(アイヌ新法)」が成立するまで、アイヌ民族にとって長い暗黒の時代がこの国で続いたことを私たちは忘れてはいけないと思う。


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1 コメント

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絵師 (ちゃんこま)
2012-10-08 07:41:04
 絵師にもそのような歴史があるということに気づかされました。アイヌにも歴史があるけれども、そのアイヌを描いた絵師にも歴史があるということにびっくりです。
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