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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

春よ来い♪早く来い♪ 花の種蒔き講習会

2025-03-20 10:40:54 | 講演・講義・フォーラム等
 マリーゴール、インパチェンス、ペチュニアとけっして珍しい花種ではありませんでしたが、初めてお会いする参加者たちと楽しく交流しながら種蒔きを行い、それを我が家に持ち帰りました。

     

 昨日午前、「さっぽろ花と緑のネットワーク」が主催する「花の種まき講習会」カナモトホールで開催され参加しました。
 参加者は50名限定で募集されたのですが、会場へ行ってみると意外に男性の姿が多かったのが意外でした。もちろん全体の参加者は女性の方が多かったと思いますが、私が指定されたグループは、5名の内4名が男性の方でした。
 私を含め4名の男性は全て現役をリタイアされた方々で、それぞれが仕事を離れたことにより、花に癒しを求められる方が増えているのかもしれません。

    
    ※ 種まき講習会の会場の様子です。まだ講習の始まる前でした。

 種蒔きの要領は別に難しくありません。
 セルトレイを用いて、その中に用土を入れて、まずマリーゴールドとインパチェンスの小さな種を注意深く均等に撒いていきました。その後、薄く覆土し霧吹きで用土を湿らせました。
 一方、ペチュニアの方は、主催者の方で予め育てておいて苗をポット上げして、同じくセルトレイに移植する体験をしました。

 講習会は和気藹々、花への関心が深い人、浅い人、それぞれでその体験談などを交流しながら進められました。グループには、「さっぽろタウンガーデナー」といわれる方が、講習会のために予め事前講習を受けていて、その方が親切丁寧にアドバイスしてくれながら種蒔きを進めてくれたので、とてもスムーズに進行することが出来ました。

    
    ※ 種蒔きを終えた私のセルトレイです。左からインパチェンス、マリーゴールド、ペチュニアを2列ずつ種(苗)を植えました。


 実は私は昨年度まで14年間も「さっぽろタウンガーデナー」に名前だけ登録させていただいていましたが、昨年度かぎりで近代美術館前の花壇整備の活動を止めたことで、タウンガーデナーの方も辞退させていただきました。その関係もあり、主催者の方が私のことをご存じだったことから、会場内で「長い間ご苦労さまでした!」と労いの言葉をいただきました。
 
 今後は、今回の「種まき講習会」でいただいた花などをベランダで楽しみたいと思っているところです。春の到来が待ち遠しいですね~。

迷宮のごとし、短歌の世界

2025-03-19 15:43:20 | 講演・講義・フォーラム等
 私にとって、短歌の世界などは遠い世界の話に聞こえてしまう。そんな短歌のお話を聞いた昨夜は迷宮を彷徨ったかのような90分間だった…。

 昨夜(3月18日)、北海道自治労会館において、連続受講している「労文協リレー講座」の第6回目(最終講座)がありました。
 今回のテーマは「斎藤茂吉歌集『つゆもみじ』短歌写生の説について、現代の写実とは」と、テーマ自体が私にとっては???のテーマでした。
 講師は北海道歌人会の会長の任にある内田弘さんという方でした。

    
    ※ 講演をする北海道歌人会々長の内田弘さんです。

 もの知らずの私でも、「斎藤茂吉」の名は近代短歌の第一人者であることは知ってはいましたが、斎藤がどのような歌を詠っていたかについては全く知らないというレベルです。

 講座はまず現代短歌の旗手(?)「俵万智」さんを取り上げました。俵さんのデビュー作(?)の
  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日  
は、もの知らずの私でもさすがにこの歌は知っていましたが、内田氏は俵さんのことを「短歌を革新した歌人」と評しました。彼女の短歌はこれまで文語調だった短歌の言葉遣いを、口語調に変えたことで世の多くの関心を呼び、短歌の世界ではそれまで考えられもしなかった230万部もの歌集の売り上げを誇ったそうです。
 講座で内田さん作の短歌は紹介されませんでしたが、おそらく当年80歳の内田さん自身は文語調の短歌を作歌されているものと思われますが、短歌を世に広く知らしめたということで俵さんを高く評価されていました。

 講座はここからガラっと変わり、近代短歌の変遷に移っていきました。
 つまり近代短歌が誕生したのは明治年間に入ってからで、それまで短歌は古今和歌集に代表されるように雅の世界の歌として長らく受け継がれてきたものが、正岡子規によって
これまでの形式を打ち破り「写実歌風」を主張し始めたということです。つまり「見たまま、感じたまま」を歌にし始めたのが近代短歌の始まりであると話されました。そしてその系譜は正岡子規⇒伊藤佐千夫⇒斎藤茂吉へと受け継がれていったということです。

   
   ※ この日の講演で紹介していただいた歌人の一覧です。(紹介順)

 ここで内田氏は、茂吉が主張した「写生の説」について説明しました。内田氏はプリントで次のように紹介してくれました。
 写生とは実相観入に縁って生を写す。「生を写す」の義で「生命直写」の義である。「生」とは「いのち」の義である。「写」とは「表現」の義。実相に編入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌の写生である。として「写生は生を写す」として現実的な生命主義を目指したのです。
と。(※ 縁って=よって  義=意味)

 そして歌集「つゆじも」の中で詠われた短歌が数首紹介されました。その中で、私がかろうじてその様子を理解できる3首を挙げてみます。
  「わが家の石垣に生ふる虎耳草(ゆきのした)その葉かげより蚊は出でにけり」
  「対岸の造船所より聞こえくる鉄の響きは遠あらしのごとし」
  「わが病やうやく癒えて心に染む朝の経よむ穉(おさな)等のこゑ」

 内田氏のお話はここで終わらず、俵万智さんに続く現代歌人の短歌を紹介してくれました。現代の歌人会の代表者としては、現代の若者たちが創る短歌にも目を配らねばならないということでしょうか?
 紹介された現代歌人は「穂村弘」、「斉藤斎藤」(誤字ではありません)、「萩原慎一郎」といった方々の短歌を紹介してくれました。

 前述したように私にとっては、迷宮に迷い込んだような90分間でしたが、たまあにはこうした迷宮に迷い込むこともいいかな?と思いながら帰路に就いた私だった…。

地域運営組織って何のこと?

2025-03-18 14:30:24 | 講演・講義・フォーラム等
 我が国の地方の人口減少、高齢化は私たちが思っている以上に深刻なようです。そうした状況の中で語られる「地域運営組織」という言葉を初めて耳にしました。いったい「地域運営組織」って何のこと?

     

 昨日(3月18日)午後、北海道立道民活動センター「かでるホール」において第9回目となる「道総研オープンフォーラム」が開催され、参加してきました。
 今回のテーマは「北海道で暮らし続けるために、これからの地域運営をどう支援するか」というものでした。「地域運営を支援する…」と言ったような文言がテーマに表現されるのは初めてのことではないでしょうか?

 フォーラムの構成は次のようになっていました。
 ◆基調講演 「地域づくりと地域運営組織のあり方」 明治大教授 小田切徳美氏
 ◆成果発表 道総研の各部局の方6名が、テーマの沿った研究成果、または研究経過を発表された。
 ◆パネルディスカッション 「実践ガイドを、現場でどう役立てるか」
   4人のパネリストによるディスカッション

 となっていました。私は基調講演と成果発表には耳を傾けることが出来ましたが、パネルディスカッションは所用があったために退席し聴くことが出来ませんでした。
 その中、私が注目したのは小田切氏の基調講演でした。小田切氏は、「我が国の人口減少、高齢化は地方へ行くほど推計を上回るスピードで進展している」とし、特にその傾向が西日本において顕著であるとも指摘されました。そうした地域では、住民の足、食料の確保、等々、いわゆる地域のインフラを護ることが課題となっているそうです。そこで今、総務省が提唱している住民主体による「地域運営」の組織づくりを進めることが喫緊の課題となっていると指摘しました。

      
      ※ 講演をされる小田切明治大教授です。

 その「地域運営組織」とは、小田切氏が説明されたことがネット上でも要約されたものが見られたのでそれを転写すると…、
 「地域運営組織とは、地域の暮らしを守るために、地域住民が中心となって 
 形成され、地域課題の解決に向けた取り組みを持続的に実践する組織です。
 これらの組織は、協議機能と実行機能を持つ一体型や、協議機能を持つ組織
 から実行機能を切り離した分離型など、地域の実情に応じた様々な形態があ
 ります。地域運営組織は、人口減少や高齢化が進む地域においても、必要な
 生活サービス機能を維持し、地域 住民自らが主体的に地域の将来プランを
 策定することを目指しています。」
となっています。

 この説明を読むかぎり、これまでこうした住民のためのインフラ整備や住民の命を守ることは地方自治体の役割だったのですが、今や自治体も職員減の状況の中で十分にその役割を果たすことが難しくなっている状況から「自分たちのことは自分たちで…」ということを国から求められていることなのでは?と解釈しなくてはならないす状況を迎えていることなのか、理解せざるを得ませんでした。

 小田切氏は面白い言葉を使われました。それは「天気と人口、農業は西から変わる」と述べられました。そしてまた、こうした地域課題解決に向けての動きも西日本各地ではいち早く動き始めているとのことでした。
 2023年度現在で、日本各地、特に西日本を中心にしてこうした地域運営組織がすでに7,710組織(それは全国の50.2%の市町村にあたります)が起ち上がっているそうです。一方、北海道はというと、疎の組織率はまだ20.7%に止まっているとのことでした。(組織数については不明)

 その後、小田切氏は既存の地域運営組織の具体例をいくつか紹介してくれましたが、そのことは割愛させていただきますが、その特徴はこれまでの住民活動が助成金などをもとに動いていたものが、この地域運営組織では「利益」も生み出そうとする組織だということなのです。つまり自立した組織を求めているということが大きな特徴のようです。
 
 う~ん。人口減少という問題は、これまで「困った時には行政頼み」的な気持ちが私たちの中にはありましたが、これからはそうした意識を変えていかねばならないということなのでしょうかねぇ~。
 それにしても、北海道総合研究機構(略称:道総研)は、これまでは地域が抱える科学的な諸問題を解決するための研究機関だったものが、地域そのものを維持するために支援する機関へと変貌を迫られているということなのでしょうか???
 時代の変遷を肌で感じさせられた今回のフォーラムでした…。

札幌の昭和史の「もし」を空想する

2025-03-16 15:56:33 | 講演・講義・フォーラム等
 「もしある人が長生きしていれば…」、「もし1972年の札幌オリンピックが開催されなかったら…」、「もしあの山の風が強かったら…」そうしたことがもし現実と違っていたとしていたら、札幌の現在は大きく変わっていたかもしれない?そんな興味深いお話を聴いた。

      
 昨日午後、札幌市公文書館において「公文書館のさっぽろ閑話」が開催され参加しました。今回のテーマは「札幌昭和史のたられば」という演題でした。
 私はこの日、あるコンサートを聴く予定にしていてチケットも入手していました。しかし、この講座があると知って俄然この講座に興味を抱き、コンサートをキャンセルしてこの講座の受講を決めました。
 私と同じ思いを抱いた人は多かったようです。私は開場時間の20分前(つまり講座開始時間の50分前)に会場に着いたのですが、すでに入場を待つ人たちの長蛇の列ができていました。結局、入場できずに受講を諦めた方がたくさんいたようです。

 さて、講座の方ですが講師は高井俊哉氏という管理係長職の方でした。(高井氏は元の同公文書館々長をされていらしたのですが、管理職定年となり、その後同じ公文書館で管理係長として本年3月に札幌市役所を退職される方と伺いました)
 ですから高井氏は専門職として昭和史を研究したわけではなく、事務方の職員として公文書館に所蔵されている文書類を繰っていて興味ある事象と出会ったことが今回のテーマとなったと強調されました。

       
       ※ 講師をされた元札幌市公文書館長の高井俊哉氏です。

 最初の話題は「もしある人が長生きしていれば…」ですが、そのある人とは、東急電鉄の会長に就任していた五島慶太氏です。当時の東急電鉄は強引な手法も手伝い急激に業績を伸ばし、北海道にもその手を伸ばし始めていました。
 五島氏はまず当時の定山渓鉄道を傘下に収め、札幌と江別を結ぶ「札幌急行」という路線を新設することを計画します。(1955年)
 当時のJR(現在も同じですが)は札幌⇔江別間を大きく東に迂回するルートでした。この間を五島氏は最短距離で通すことで時間短縮を目論みました。そして、江別まで路線が延びていた夕張鉄道と結んで、当時炭鉱で潤っていた夕張の住民を夕張鉄道⇔札幌急行⇔定山渓鉄道と結び、夕張の炭鉱関係者を定山渓温泉に導こうと計画したようです。
 しかし、志半ばで五島慶太氏は1959年逝去してしまいます。すると、もともと経営的には社内において疑問視する声があったこともあり、慶太氏の死去によって計画は止み沙汰となってしまったという経過です。
 そのことが公文書館所蔵の「東急100年史」や「えべつ昭和史」などから伺えると高石氏はお話されました。
 なお、高井氏は当時の東急は単に鉄道を敷設するだけではなく、鉄道周辺の街づくりにも積極的に関与していたことから、もし「札幌急行」が実現していたとしたら、沿線の風景が今とは大きく変わっていたかもしれない、と話されました。それもあり得たかもしれない話ですね。

 続いて「もし1972年の札幌オリンピックが開催されなかったら…」という話題ですが、こちらは札幌市内の交通体系、つまり「札幌地下鉄」誕生の物語ともいえます。
 1960年代に入り膨張する札幌の市内交通はバスと電車でしたが、それら交通機関の込み具合は限界に近づいていました。市では当時、市内交通機関としてモノレール構想や、高架鉄道構想などが議論されたそうですが決めてに欠けていたということです。といって、地下鉄を敷設するには当時の人口50万人余ではとても敷設費用を負担することは困難で、人口的にもその規模ではなかったそうです。当時地下鉄が営業している都市は軒並み100万人余の人口を抱える大都市のみでした。
 しかし、そこに降って涌いたのが札幌オリンピックの招致が実現したことでした。
 札幌オリンピック招致が決定し、地下鉄の敷設が決まった時には札幌の人口は100万人を突破していたということですから、関係部局の了承も得やすかったものと想像されます。
 地下鉄のみならず、札幌オリンピックの実現は札幌の街を大きく変える契機となったことは皆さまもよくご存じのことと思います。また、高井氏のお話では、札幌の地下鉄がゴムタイヤ方式を採用したことについてのお話もありましたか、そのことはここでは割愛させていただきます。
 公文書館では、このことに関して「札幌交通事業小史」、「私のなかの歴史3」などの書籍を所蔵しているとのことでした。

        
※ 現在の大倉山ジャンプ競技場です、今や札幌観光の目玉です。別のところが競技場となっていたら、そちらが観光名所になっていたのでしょうか?

 3番目のエピソード「もしあの山の風が強かったら…」ですが、私は「あの山とはどの山なのだろうか?」と興味津々でした。
 その山とはジャンプ競技場が設置されている「大倉山」のことでした。
 この話題もオリンピック関連となるのですが、札幌オリンピック招致が決定し、ジャンプ競技場をどこにしようか、という問題になったそうです。当然そこに「大倉山ジャンプ競技場」は存在していたのですが、大倉山は風の吹き方が不規則でオリンピックの競技には向いていないという声があったそうです。
 しかし、オリンピック関係者からは「大丈夫」とお墨付きをいただき、既存のジャンプ台を大改修して、大倉山ジャンプ競技場で90m級を実施し、近くの宮の森ジャンプ競技場で70m級を実施することを決定したそうです。
 あの札幌オリンピックでは宮の森の70m級で笠谷選手を初めてとして金・銀・銅を独占するという快挙を演じ、90m級も多いに期待されました。一本目に笠谷選手は第2位に付けて期待されたのですが、2本目は大倉山の横風(?)に災いされ、第5位と失速してしまいました。後年、笠谷選手はその風のことを決して口にしなかったそうです。
 このエピソードに関連する書籍は「第11回オリンピック冬季大会公式報告書」、「昭和37年事務概況報告書」として公文書館が所蔵しているそうです。

 「たられば」ということですから、これはもう仮の話、空想の話ですから、どうにでも話を膨らませることが出来ます。私はそうしたことをどこかで期待していたところがあったようです。
 しかし、高井氏はあくまで文献・資料をもとに関係者間で語られたり、資料として残されたものの範囲内でお話されたということでした。
 私が期待するような「たられば」は、あるいは噺家とか、エンターテイナーなどが面白可笑しく話を膨らませることによって、あるいは市民から受け入れられる娯楽の一つになるかもしれない、などという思いに駆られてしまいました……。

日本の農業が危ない!? Part Ⅱ

2025-03-09 15:08:00 | 講演・講義・フォーラム等
 一月末にお聞きした東京大学大学院特任教授の鈴木宣弘氏のお話を再び聴いた。鈴木氏のお話はけっしてプロパガンダではなく、日本の農業、そして農業政策の事実を紹介してくれていると私は信じているのだが…。

 一月末にお聴きした鈴木氏のお話は非常に刺激的でした。
 その鈴木氏が再び札幌で講演すると知り、「もう一度氏の話を聴いてみたい」と思い、昨日(3月8日)午後、会場の北海道クリスチャンセンターに向かいました。
 開場前にクリスチャンセンターに着いたのですが、すでに長蛇の列ができていて、鈴木氏の高名がかなり浸透していることが窺えました。

 ところで会場に着いて、私は初めて主催が政治政党の「れいわ新選組」だということを知りました。チェック力の甘さです。それでこの催しは、「れいわ新選組」が「ごはん会議」と題して全国的に開催する一環であることも、この時知りました。

     
     ※ 北海道クリスチャンセンターで講演をする鈴木宣弘氏です。

 さて、鈴木氏のお話は基本的に1月末にお聴きした時と変わりはありませんでした。用意されていたパワーポイントも凡そは1月の時のようだったようです。演題は「残された時間は多くない~農と食といのちを守るために~」と題されての講演でした。
 鈴木氏の主張は、今回の講演に際して配布された「鈴木宣弘氏のメッセージ」に端的に表されていますので、それを紹介します。

 日本の食糧自給率は種や肥料の自給率の低さも考慮すると、38%どころか最悪10%あるかないか。海外からの物流が停止したら世界で最も餓死者が出るのが日本との試算もある。国際情勢は、お金を出せばいつでも食料が輸入できる時代の終わりを告げている。かたや、日本の農家の平均年齢は68.7歳。あと10年で日本の農業・農村の多くが崩壊しかねない。しかも農家は生産コスト高による赤字に苦しみ、廃業が加速している。これでは不測の事態に子ども達の命は守れない。私たちに残された時間は多くない。
 (中略)
 私達が子ども達の未来を守るには、消費者の行動が重要である。安いものにはわけがある。リスクのある輸入品ではなく、今こそ身近な地元の安全・安心な農産物を支えよう。
 地域の種を守り、生産から消費まで「運命共同体」として地域循環的に農と食を支える「ローカル自給圏」の構築を全国各地で急がねばならない。一つの核は学校給食の安全・安心な地場産農産物の公共調達を進めることである。農家と市民が一体化して耕筰放棄地を皆で分担して耕そう。
 それと同時に、国政では、①食料安全保障のベースになる農地10haあたりの基礎支払いを行い、それを、②コスト上昇や価格下落による経営の悪化を是正する支払いで補完し、さらに、③増産したコメや乳製品の政府買い上げを行い、備蓄積み况子区内外の援助に回す、といった政策実現に向けて国民の総力を結集するときである。

        
         ※ 数多い鈴木氏の著書の中の近著です。

 鈴木氏のお話を2度聴いて、鈴木氏の日本の食糧に対する危機感が相当に強いものであることを実感しました。
 鈴木氏の論には「根拠が希薄である」とか「データの読み方に誤りがある」という反論もあるようですが、少なくとも鈴木氏が前半で述べている日本の農業の現状に対する指摘には納得できるところが多いように感じます。
 今や我が国の食糧の大半は外国産に頼っている現状だということが良く分かます。その外国産の食糧、またはその種、肥料までも大半が外国産だという現状に対して鈴木氏が危機感を露にすることももっともだと思われます。

 ‟日本の農業の危機” このことは単に農業者だけの問題ではなく、消費者も含めて日本全体の食糧危機でもあるという鈴木氏の指摘を重く受け止め考えねばならないと思いました。 

介護施設の現役介護職員に聴く

2025-03-08 12:15:56 | 講演・講義・フォーラム等
 介護施設の介護職員はどのような業務を担当し、どのような思いで勤務しているのか?また、仕事に対するやりがいや大変さはどのようなことなのか?高齢者介護施設で7年間勤務している講師から本音を伺いたいと思ったのだが…。

 昨日(3月7日) 午後、さっぽろ自由学校「遊」において、講座「老いと向き合う」の第6回講座があり、テーマが「高齢者施設に6年間勤務して」と題する講座が開講されると知って、この回だけのスポット参加をすることにしました。
 というのも、これまでさまざまなタイプの介護施設を見学したり、施設の代表者のような方からお話を伺ったことはありましたが、現場で介護にあたっている方のお話を直接に聴いたことがなかったため興味を抱いたからです。

   

  講師が務める会社は、同一敷地内で「サービス付き高齢者向け住宅(サ・高・住)」と「小規模多機能型居宅介護」を運営していますが、講師の方はそのうちの「小規模多機能型居宅介護」に勤務する30代(と思われる)の若い方でした。
 
 「小規模多機能型居宅介護」とは、「通い」、「泊まり」、「訪問」の3つを提供している地域密着方のサービスで、利用者の家族の状況・要望によって柔軟にサービスを提供する施設である。とパンフレットでは謳っています。
 その施設で講師のA氏は、管理者やケアマネージャーなどの指導を受けながら、入所者に対する実際の介護を担当する職を6年間勤めているとのことでした。

   

 ところがA氏は人前で講義することに慣れていなく、自信がなかったからだろうか?自然に用意したペーパーを読むことに終始されました。それもご自分で用意したものではなく、施設が用意した「小規模多機能型居宅介護とは」とか「小規模多機能型居宅介護でのレクの仕事内容」
、あるいは上部機関かの通達文書、「コロナ陽性者感染対策マニュアル」といった文書を読み上げるだけだったのです。

 残念ながら、私が期待していた介護現場で入所者に実際に接し、介護をされている方々の生の声を聴きたいと思いは叶いませんでした。
 それでも介護職員が入所者に対し、食事・入浴・排泄などの補助、介助、あるいは夜間帯の見守り、体位変換など、絶えず入所者の方々のお世話、安否確認などで、気持ちの休まる間がないほど過酷な現場であることはよく理解ができました。

   

 我が国は今後ますます高齢化が進展し、介護を必要とする高齢者の増加が見込まれています。私もその一人かもしれません。そうするとA氏のような介護職の方々の必要数が増すことが当然必要となってきます。
 今回お聴きしたように過酷な介護現場を担当される方々がはたして必要数を確保できるのか?とても心配となってくるなぁ、との思いを拭えませんでした。

講座 札幌の映画と演劇

2025-03-04 16:02:41 | 講演・講義・フォーラム等
 札幌市内には映画館が最盛期(1980年代末)には20館もあったという。さらには同じ1980年代、中央の影響を受け小劇場によるアングラ演劇も盛んに上演されたそうだ。その象徴が「駅裏8号倉庫」だったという。

     
 少し時間を置いてしまいましたが、2月27日(木)午後、北海道立文学館「札幌の映画と演劇 展示解説講座」なるものが開講され、受講してきました。
 北海道立文学館では現在、「札幌の映画と演劇~80年代を中心に~」という展示会が開催されているのですが、その展示解説を同館の浦島七那学芸員が解説するという講座でした。

 札幌の映画館に関する推移は、1952(昭和52)年にGHQの映画検閲が廃止されたことで映画産業が勢いを増したことに伴い、札幌においても映画館が急激にその数を増しました。多い時では1955(昭和30)年には一年間で10館の映画館が開館したそうです。
     

 しかし、映画のブームはテレビの登場によって長くは続かなかったようで、今回の講座で焦点をあてた1980年代がそのピークだったとのことです。
 ただ、大スクリーンでの映画が斜陽となる中、インディーズ系やアート系の作品を上映するミニシアターが一種のブームとなっていったそうです。
 札幌市内20館の中の一つ須貝ビル(最近まで存続していました)には、大スクリーンの他に10館ものミニシアターが集中していた時代もあったそうです。
 そうした流れを引き継いでいるのが、現在の「シアターキノ」のようです。事実、館主である中島洋氏は、その頃からミニシアターに携わってきた方だということです。
   

 現在の札幌市内の映画館はシアターキノを含めても全5館ですから、昔日の感があります。もっともシアターキノ以外はシネコン方式ですから、一概に比較はできませんが…。

 一方で、演劇シーンも1980年代は活発に活動を展開した時代だったようです。中央において通称「アングラ演劇」という実験的で前衛的な劇団が続々と誕生したそうです。
 「駅裏8号倉庫」、「スペース・アルテノ」、「札幌本多小劇場」、「琴似日食倉庫コンカリーニョ」、江別の「ドラマシアター・ども」等々…。(「琴似コンカリーニョ」、「ドラマシアター・ども」は、現在もその名を継いで現存していますね)
 その象徴的な場所となったのが「駅裏8号倉庫」だと言われています。

 「駅裏8号倉庫」は、劇団53荘が公演場所兼稽古場を探していたところ、拓殖倉庫所有の札幌軟石造り、45坪の倉庫が見つかり、そこを「駅裏8号倉庫」と命名して1981(昭和56)年にオープンしたそうです。しかし、その倉庫は翌年鉄道の高架化工事で撤去が決まっていたため、わずか一年で閉館の憂き目に遭ったそうです。しかし、メンバーは諦めずに近くにあった倉庫を借り「第2次駅裏8号倉庫」を1983年にオープンし、1986年まで活動したということです。
 「駅裏8号倉庫」は、演劇に限らず、映画上映、音楽ライブ、さらには詩の朗読、フリーマーケット、政治討論会などジャンルを超えて幅広い用途で使用され、80年代におけるサブカルチャーの中心的存在だったそうです。

 こうして聴いてみると、札幌の1980年代というのは、ミニシアターや小劇場が乱立し、混然一体となった状況だったのかもしれません。いわば資本のある大手ではない、誰もが手の届くところに映画や演劇というものがあって、そこに関わろうとする人たちのエネルギーに満ち満ちていた時代だったようです。
 
 ミニシアターの方は残念ながら「シアターキノ」が存在するだけですが、演劇の方は現在も「札幌演劇シーズン」という形で、その空気が脈々と受け継がれているようにも思います。
 いや~、札幌にも熱い時代があったのですねぇ~。
 なお、北海道立文学館で開催中の、「札幌の映画と演劇~80年代を中心に~」という展示会は3月23日まで常設展示室で展示されているそうです。興味のある方はぜひどうぞ!



認知症 それでいいのだ!

2025-03-03 15:27:42 | 講演・講義・フォーラム等
 近親者の中からもし‟認知症” と診断される方が出たら、多くの人はうろたえ、どう接してよいのか慌てふためくのではないだろうか?しかし、精神科医である講師の先生は、敢えて ‟それでいいのだ!” と言うのだが・・・。
      
 3月1日(土)午後、札幌市社会福祉総合センターにおいて「札幌西円山病院地域医療公開講座」が開講されので受講しました。
 西円山病院はコロナ前には、毎月のようにかでる2・7を会場に市民公開講座を開催していて、私はその都度受講していた講座でした。

 西円山病院の公開講座の特色は、病院の医師も講師を担当しますが、それ以上に看護婦とか、理学療法士、作業療法士といった医療スタッフの方々を積極的に講師として登用させている点にあります。
 私は西円山病院では、市民公開講座を良い意味で職員の研修の場として活用されていると見ていました。

 今回の講座内容は「認知症 それでいいのだ!」と題して、精神科医の山田幸恵医師と、認知症看護認定看護師の白川由美さんが講師を務めました。
 山田医師は、医師らしく認知症の種類や症状、あるいは薬などについて説明されましたが、私はこれまでも何度かこの種の講座を受講しているので、この部分のレポは割愛します。

       
       ※ 講義をされる山田医師です。

 山田医師は認知症の患者の特徴を次のように説明しました。
  ◇病院に行きたがらない。
  ◇薬を飲みたがらない。
  ◇デイサービスに行きたがらない。
  ◇ショートステイに行きたがらない。
  ◇施設に入りたがらない。
 こうした肉親の患者に対して、どう対処するのが良いかというと、「本人の意向に逆らっても、医療者の助言を受け入れて処置しても「それでいいのだ!」と強調された。
 もし、患者がどうしても肉親の助言を受け入れず、施設などへの入所を拒み、例え孤独死という事態になっても、それはそれで「それでいいのだ!」とした。
 介護の場面は人間関係の総決算であり、葛藤の全くない関係はないという。認めたくない、見たくない、情けない、不安だ、悲しい、寂しい、腹が立つ、疲れる…、そうした感情があっていいと自分に言ってあげる「それでいいのだ!」と…。
 ともかく、介護するあなたの気持ちを優先せること、「それでいいのだ!」と強調された。
 山田医師は、「老いや死の不安は誰もが通る道。少しでもご機嫌な今日一日をおくることだ」と述べ「それでいいのだ!」と結んだ。
 山田医師のお話は、なんだか目から鱗の思いでした。

       
       ※ 講義をされる白川看護師です。

 一方、白川看護師からは認知症患者への接し方のポイントについてアドバイスいただいた。
 そのポイントとは…
 ① まず見守る。
 ② 余裕をもって対応する。
 ③ 声をかけるときは一人で。
 ④ 後ろから声をかけない。
 ⑤ 相手に目線を合わせてやさしい口調で
 ⑥ おだやかに、はっきりした活舌で
 ⑦ 相手の言葉に耳を傾けてゆっくり対応する。
 以上のようなアドバイスをいただいた。

 受講した私は、今や介護する立場ではなく、将来もし自分自身が認知症を患った時に、どう介護されたいのか、そのことを我が子などに知ってもらいたいという思いの方が強い。
 そうしたことも白川看護師は意識されたのでしょうか?最後に家族向けのアドバイスをいただいた。それは「認知症になる前にできること」と題してパワーポイントで示されたので、その場面を添付することにします。

    

 西円山病院の公開講座は、数ある医療関係の公開講座の中でも市民目線に立った内容が多いように感じています。これからもできるかぎり受講していきたいと思っています。

DVDフォーラム「こころの名山 日本霊山紀行」

2025-02-27 20:44:14 | 講演・講義・フォーラム等
 名山紀行ではない。‟霊山紀行” である。つまり神聖な山であり、霊域の山々を巡るDVDなのです。 今回取り上げられた5つの山は名山でもあるのですが、その山々の霊的側面を取り上げたDVDだったのですが…。

 一昨日(2月25日・火)、私が所属する「めだかの学校」は、2月の2度目の学習会を実施しました。内容は会員が保有するDVD「こころの名山 日本霊山紀行」というDVDを視聴し、会員同士で感想を語り合うというものでした。
 今回は10巻のシリーズの中の1巻を視聴するものでした。DVDは全10巻で日本の霊山50山を取り上げています。今回はその中の5山を取り上げたものでした。その57山とは…、
 ◇利尻山
 ◇岩木山
 ◇恐山
 ◇鳥海山
 ◇早池峰山
 このうち恐山を除き、4山は全て「日本百名山」に含まれている名山でもあります。

 恐山は、活火山の一つとして「山」と形容されていますが、カルデラ湖の周辺には樹木などは生育せず灰色の世界に包まれた異様な光景が広がっています。そうした特異な光景から霊場の一つとして名高いのですが、他の4山と同様に「山」と形容するには無理があるような気がします。

 DVDは、その恐山も含めて5つの山の霊的部分を取り上げています。
 我が国では古来から「山の神」などと称して、地域のおける高い山、登るのが困難な山などを信仰の対象としています。
 ですから、日本百名山にも選出されているような4つの山は、それぞれが地域を代表するような山ですから、いずれも麓に神社が祀られ、山頂には奥宮と称する小さな祠が建立されていました。
 そしてそれぞれ山では、地域の人々の安全や豊漁、豊作祈願が行われています。
 DVDの包装箱には、収録された内容を短く次のように説明しています。
 ◇利尻山 ~ 航海の安全、豊漁祈願、…海から信仰する山
 ◇岩木山 ~ 津軽農民の信仰の山、豊作祈願祭「お山参詣」
 ◇恐山   ~ 秋の大祭に見る信仰と世俗
 ◇鳥海山 ~ 威厳と美しさをあわせ持つ出羽の秀峰
 ◇早池峰山~ 山麓に残る早池峰伝説。神楽が響く神の山

 こうした地元に古くから言い伝わり、引き継がれてきた信仰に関わる言い伝えや行事は、単にDVDを視聴するだけで、地元の住民の方々の山を信仰する気持ちを理解することが難しいのかもしれません。特に道産子である私たちはそうした伝統的な言い伝えや習わしには関心が薄いという傾向もあります。
 視聴後の感想、話し合いは、残念ながら山岳信仰に関わる感想などはほぼ皆無でした。
 感想の多くは、自らの登山体験を語られる方、あるいは恐山を観光的に訪れた感想を語る方など、DVDの趣旨に沿うような感想は語られませんでした。

 さて、私はどう話したかというと、私もやはり話の中心は登山体験のことでした。私は現役をリタイア後、一時熱心に登山に取り組んだことがあり、低山を中心に道内の山100座登頂を目標にして、それをなんとか2020年に達成しました。その中で感じたことを山岳信仰と絡めてお話させてもらいました。
 つまり、多くの山を登っているうちに「山は、権力が在ろうとなかろうと、あるいはお金持ちであろうとなかろうと、山は誰に対しても平等である」ということを私は体験上感じたのです。山は誰もが辛い思いをし、それに耐えて登頂の喜びを味わう。
 そうした行為、思いが、あるいは人々が山を信仰の対象としたのではないだろうか?と…。
 上手くは話せませんでしたが、そうした思いを皆さんの前で話させてもらいました。
 その山からも体力の衰えに伴い、遠く離れてしまったなぁ…、というちょっと寂しい気持ちが今の私を覆っています…。



JICA海外協力隊 「帰国報告会」

2025-02-26 16:52:12 | 講演・講義・フォーラム等
 道内から世界各地の開発途上国に派遣され、活躍してきた5人の道産子が各国での活動した様子を報告するのを聴きました。それぞれの地で事情は違うものの現地でやりがいを感じながらの2年間だったようです。
      

 一昨日(2月24日・月)午後、札幌国際プラザで開催されたJICA海外協力隊 「帰国報告会」に参加し、協力隊員たちの活動報告を聴きました。

 JICA…、というと私などは直ぐに「青年海外協力隊」を頭に描くのですが、今回報告会に参加してみると、JICA海外協力隊というのは、「青年海外協力隊」、「海外協力隊」、「日系社会青年海外協力隊」、「日系社会海外協力隊」、「シニア海外協力隊」、「日系社会シニア海外協力隊」と実に多岐にわたる協力隊の総称として、JICA海外協力隊と称していることが分かりました。
 その応募条件はさまざまですが、対象年齢は20歳から69歳と幅広く、、今回報告された方々の顔ぶれも拝見すると、60代2人、40代2人、20代1人、という年代と思われた顔ぶれで、それぞれ現地で2年間の活動を終え帰国された方々でした。
 
 それぞれの派遣国と現地での職種について記すと、
 ◇Aさん女性)   パラオ/小学校教育
 ◇Bさん男性)  カンボジア/土木
 ◇Cさん(男性)    エジプト/青少年活動
 ◇Dさん(男性)  ブラジル/ソフトボール
 ◇Eさん((男性)    チリ/作業療法士
という方々でした。
 お話を伺いながら、それぞれどのような形で応募されたかというと、Aさんは小学校教員として勤務される中で現職のまま協力隊に派遣され、帰国後再び道内の小学校に勤務されているようでした。
 Bさん、Cさんは、日本で定年退職された後、協力隊に応募された方のようでした。
 Dさんは、某市役所に勤務されていて、職場の制度を利用して協力隊に参加され、現在は元の職場に勤務されている方です。
 Eさんは、某病院で作業療法士として勤務されていましたが、そこを退職されて参加した方のようで、帰国後はまた別な職場で作業療法士をされているようでした。

      
      ※ カンボジアでの体験を報告するBさんです。

 報告を聴いていて特徴的だったのはBさんでした。
 Bさんは、今回が初めてではなく、これまでブータン、コロンビア、そして今回のカンボジアと実に3度も協力隊として派遣されている方だということでした。また、現地での任務もかなり専門的な技術等の指導援助でした。(但し、JICAの規則を見ると、海外協力隊としては派遣は2度までということですから、あるいは現職時代にも別な形で派遣経験のある方かもしれません)
 私は現地での任務がかなり専門的に聞こえたので、報告後の質問タイムの際に「差支えない範囲で現職時代のことを教えてほしい」とお願いしました。すると、Bさんは道庁に勤務され農業土木の技師をされていた方だということが分かりました。きっとBさんの技術は現地で重宝されたものと想像されます。

 反対にCさんは、元理科教員だった方のようでしたが、理科教員としての派遣枠がなかったために、専門ではない青少年活動(社会教育)で派遣されたそうですが、専門ではなかったこともあり、いろいろとご苦労されたようでした。ただ帰国前には任務にも慣れ、最後の半年はやりがいを感じながら任務を終えることができた、と語っていました。

     
     ※ 派遣された現地チリの民族衣装を纏い報告するEさんです。

 その他の方々も、それぞれの任地で、現地の人々と関わり合いながら、喜怒哀楽を共にしながら2年間の有意義な派遣生活をされたことを聴くことができました。
 私も現職時代には海外日本人学校への派遣を希望していました。かなり実現に近づいたのですが、結局踏み切ることができずに自ら希望を取り下げた経緯があります。
 ですから、海外で活躍された方々のお話を聴くことにとても興味があります。

 報告された方々のような体験は今からは望むべくもありませんが、そうした方々のお話はこれからも機会があれば聴いてみたいと思っています。