まいぱん日記

身近なあれこれ、植物のことなど

思い出すこと5 三鷹のおじい(小林昇)

2020年05月27日 | 「くるくるしんぶん」から

ある日の昼休みに木挽町から通っていた二、三人が同じ町内の炭屋の子で落第生だった子のお弁当箱に午飯が半分しか入っていないとからかって、先生から叱られたと放課後になって聞きました。わたしはからかった子が憎らしく、何とかやっつけてやろうと思いましたが、その機会はないまま過ぎてしまいました。その頃昼休みには、わたしは家まで二、三分で戻れるので家で食事をするのが常でしたから、炭屋の子がからかわれているのを見なかったのでした。家が貧しくてお弁当を充分にもたせられなかったという話は聞いたこともなかったので、今でも半信半疑です。

昼の休み時間には鬼ごっこなどして元気に駆けずり廻ったのでしょうが、よく相撲や馬跳びもしました。ある時、砂場に設けられていた竹のぼりで頂上まで上ると竹の棒をはずされたので飛び降りて、皆をびっくりさせました。わたしの家の並びにある柏原洋紙店の倉庫がわたし達の遊び場になっていて、そこに馬車で洋紙を運ぶ時に用(つか)った藁を何枚も重ねてしいた處があって、そこへ飛び降りてあそんでいたので、高い處からとびおりるのは慣れていて平気でした。

 アメリカの連続映画「名金」(西部劇)をまねた、隠したものを探すのが、校内で流行ったことがあったと思いますが、これは暫くの間でした。なかには投げ縄を校庭で練習する生徒が出て来ましたが、ほとんど興味を持たれませんでした。

 六年生の頃には組の中に詰襟(つめえり)の洋服を着て来る生徒が数名いたようでしたが、わたしは洋服に特別惹かれることもありませんでした。蓮ちゃんが小学校時代の思い出話をした時に、わたしの羽織の裏に物入れ(ポケット)が附いていたのがうらやましかったといわれ、その物入れは姉が附けてくれたのを思い出しました。羽織にポケットを附けるのはその頃から起こったのかもしれません。蓮ちゃんは初めて洋服を着て学校に来た時の気持を話してくれましたが、中川尚君と洋服屋の鈴木君とがきていたのを覚えていました。洋服屋の子どもはともあれ、洋服は良家の坊ちゃんの着るもののようでした。蓮ちゃんは箪笥屋さんの息子でその家は京橋に近い金六町にあって、箪笥などの陳列場がある立派な三階建でした。蓮ちゃんの家の女中さんがわたしを金太郎さんのようだといっていました。

(第45号1980年9月29日)

 

中川君の家に組の二、三人と呼ばれて行ったことがありました。銀座裏の静かな町並みにある洋風の建物で、表札に東京弁護士会会長中川儀大夫(?)とあったと思います。中川君の部屋に通され、その玩具にびっくりしました。部屋一杯に円く敷かれたレールの上で機関車を走らせたのでした。この機関車がゼンマイ仕掛であったかどうか覚えていませんが、その玩具に圧倒されたことは確かでした。しかしわたしにはこうした玩具より、この家で自分の周辺にない世界を感じたようでした。わたしの友達は商家が多かったので、そうした家では感じられない違ったものがあったのでした。中川君は震災後には銀座裏には戻らないまま消息が分からずに過ぎました。

 いつも組の中を明るくする人気者に、そば屋の貞(さだ)ちゃんがいました。体操の時間に紅白に分かれた帽子取りの競技で、負けたのに勝った組をやじってやめないので、わたしは負けたのだからおとなしくしたらといいかえすと、ハイ勝ちました、ハイ負けましたでは面白くないよ、いわれてなるほどと感心して何もいえなくなりました。わたしは後になってもこのことを思い出して、遊び―競技を含めて―の面白さがわからないことのないように気をつけました。

 小学校を卒業するときに、担任の先生が組の二十名ほどを特別に指導してくださったので、圀ちゃんの家で感謝の会が開かれました。父兄の代表の医師が「孝経」の首章を書き、それを表装したのを持ってこられ、その條幅にわたし達がそれぞれ筆で姓名を書き入れて先生に差し上げました。自分の名を上手に書けなかったので覚えているのですが、あの頃の父兄がたてまえとして抱いた教育思想がこのことによって分かると思います。(第47号1980年10月8日)

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思い出すこと 4 三鷹のおじい (小林昇)

2020年05月27日 | 「くるくるしんぶん」から

わたしが八丁堀の貸本屋を利用するようになったのも健ちゃんにいわれたからに違いありません。馬琴の「八犬伝」を借りて、発端の部分を読んだのをぼんやり覚えていますが、その文章について行けず途中で止めてしまいました。立川文庫などもかなり読んだはずです。小学校を卒業してからは、家にわたしを惹きつける書物がなかったので、京橋図書館を利用して読書に励む方向に進みました。京橋図書館は小学校の雨天体操場を用って、学校の授業が終わってから開かれましたが、やがて小学校の正面に独立した建物ができ、震災で焼失して現在の場所に建てられました。

健ちゃんが子ども向けの、ガリ版刷で半紙四分の一の形の雑誌を発行したのは、いつのことか忘れましたが、読者がふえて百部以上刷ったと思います。ところがそれを止(や)めることになり、わたしは健ちゃんに勧められて、中学一年の終り頃に「青い塔」という題名で雑誌を発行することになりました。神田駅近くの堀井という店から謄写版の道具一式を買ってきて、一回に三十~四十部ぐらい刷ったと思います。一冊の頁数は忘れましたが、徳ちゃんが表紙の絵を画いてくれ、わたしはディッケンズの「クリスマス・カロル」を翻訳して載せた思い出が残っています。しかし三号雑誌の名のとおり、じきに止めました。わたしの手におえないしごとであったのでした。大正七年の「赤い鳥」に始まり、つづいて「金の船」(改題して「金の星」)「童話」と新しい児童文学の運動が進展してきた頃にあたり、この運動の余波がわたし達にも及んだものと思います。

(第29号1980年7月29日)

 

 健ちゃんにつながる糸をもう一つ辿ると、京橋図書館のホールで秋岡梧郎館長の求めに応じて小学校時代の仲間の協力で子供会を開きましたが、それは大学時代のことでした。しかしこの子供会は永く続きませんでした。

 今から考えると、健ちゃんの周辺に子どもが大勢集まったのは、健ちゃんが子どもを大人に成るものとして教えこむというより、子どもには子どもの世界があるとみとめていたので、そこにわたし達は惹かれたのでしょう。忘れてしまっていることが多いなかで、そのいくらかが記憶に残っているわけです。

 人間の気質について多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質の四つがあると説明されたことがありました。この話は十分にわからなかったのですが、わたしが胆汁質だといわれたことは、いつまでも頭にこびりつきました。もっともこの気質説は現在の心理学では誤りとされていますが、子どもにとって指導的な人からいわれたことは強い影響力を持つものと思わずにいられません。

戦後に健ちゃんが玩具(おもちゃ)屋さんになったと徳ちゃんから聞いた時は、ほんとうに嬉しく感じました。(第30号1980年8月5日)

 

わたしが小学校に入学した頃は第一次世界大戦が始まっており、パリで講和条約が締結されたのは四年生の時でした。大戦については先生方から絶えず話を聞いたでしょうが、わたし達の間では特別に関心はなかったと思います。ただドイツが潜水艇で各国の商戦を無差別に撃ち沈めたので、アメリカが連合国側について参戦したということが図画の平岡先生の熱のこもった話で印象に残り、大戦後のアメリかを視察旅行した笹野校長先生の報告を聞いたりして、大統領ウィルソンの名をはっきり覚えました。戦争の惨(むご)さについては、直接に感ずることが少なく、戦争は勇ましいものと思っていたでしょう。しかし尼港事件は暗澹とした衝撃を受けました。

 わたしには戦争の嫌な思い出に「成金」という言葉があります。あの頃には小学校に剣道の道具がかなりあって、それを用(つか)って放課後に稽古していましたが、六年生になった時、同じ組の圀(くに)ちゃんが剣道の道具を買い揃えたと聞いて、わたしは先生のいる処で、圀ちゃんの家は成金だからといったのでした。すると先生が笑ったので、わたしはハッとしました。家でも成金という言葉は聞いていたので、それが口に出たのでしょうが、圀ちゃんのお父さんは銀座の老舗の番頭さんで、戦争中に急に金持ちになったわけではないのです。先生から日本でつくられてセンチに送られた食料品の罐詰に石がつまっていて、それでもうけた者がいる、というような話を聞かされましたが、こんな事は実際にはなかったにしても、成金というのは戦争でにわかにお金持ちになったという嫌な語感を持った言葉でした。その言葉を不用意に口にしたので先生に笑われたと思うと、自分が軽はずみに感じられ、ひどく恥ずかしくなりました。わたし達は大人ぶったわけではないのですが、同盟とか談判とかいう言葉も無暗に用(つか)ったようでしたが、これも戦争中の世相を語るものかもしれません。(第42号1980年9月16日)

 

 ところで先生方が倹約ということをいうのに敗れたドイツの現状の苦しさをよく引合に出しました。一本の鉛筆でも短くなったのも用(つか)うように奨めたのでしたが、その鉛筆についてわたし達の間ではドイツ製が一番良いと信じられていました。手近な鉛筆一本にも何となく舶来品が良いと思っていたようでした。

 今と違って小学生の英語塾があるわけでなく、英語を勉強しなさいと奨められることなど聞きもしませんでしたが、組の半数近くはローマ字綴りを知っていて、それで文章も書きました。学校で教わらなくても、どこの町内にも餓鬼大将に当たるのがいて、新知識を得るとそれを弘めるのに勤めたので、新知識はすぐに広がったと思います。健ちゃんだって餓鬼大将といえないことはありません。暫くまえ久しぶりに健ちゃんのお誕生祝いとお見舞いを兼ねて、徳ちゃんと一緒にお目にかかりました。「くるくる新聞」のことを話しているうちに、エスペラント語はどうしたといわれて、この言語を健ちゃんに教えられたのを思い出しましたが、一瞬、先生に不勉強を指摘された生徒の気持ちに似たものを感じました。この造作(つく)られた国際補助語の意味などの議論はともあれ、その文法は規則的で例外がなく、品詞を示す語尾のつけかえが一定していることなど、思い出しました。わが国にもエスペラント運動が起こって来た頃に健ちゃんのような運動家がいたのかと改めて思い出しました。このエスペラント運動が国家思想に反する危険な思想として扱われるようになったのは、昭和に入ってからでしょうか。

 学校では子供会がよく開かれ、わたし達の唱歌や劇がすむと、お伽話の口演がありました。有名な巌谷小波、久留島武彦、岸辺福雄の諸先生のも開かれました。しかしこの諸先生より、わたしは図画の平岡先生の絵話が好きでした。それは今の紙芝居の前身と思います。絵話は模造紙に絵が画かれ、その一枚一枚をめくっていき、人や動物を画面に嵌(は)めたり外したりして、話を進めることもあって、終わりになるのが惜しいくらいでした。イソップの物語なども絵話のおかげで知ったのがありました。

 どの先生でしたか、僂(せむし)の子が皆の笑いものになる話をしたことがありましたが、二、三日後に相木先生という女の先生が、生徒の中に瘻の子がひとりいたので、その子がかわいそうだったと話されたのにわたしはつよい感動をうけました。

 子供会といえば四年生の頃と思いますが、わたしの組がきゅうり、なす、かぼちゃ、人参などの野菜の一つ一つを実物を持って説明する番組を出すことになり、わたしは白瓜をすることになりました。家に帰ってから母に話して、白瓜を一個(ひとつ)子供会の日に準備してほしいと頼みました。すると母に牛蒡(ごぼう)にすればよいのにといわれました。このことがあった少しまえに先生が授業中にわたしが学校中で一番黒いが、しかし白い部分がある、どこだかわかるかと皆にきかれましたが、誰も応える者はなかったので、先生は足の裏の土踏まずだといって組中の笑いをまき起こしたことがありました。しかしこのことがわたしには白瓜と別に結ばれなかったのでしたが、母からいわれたことでは、うけた感じがあまりに違うので変に思ったことがありました。今でも自分のうけた気持ちの違いをうまく説明つきかねています。

(第43号1980年9月22日)

 

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思い出すこと 3 三鷹のおじい (小林昇) 

2020年05月27日 | 「くるくるしんぶん」から

いつの頃か、わたしには商売のことなどよくわからない時でしたが、家の船で荒川堤の花見や両国の川開きに行ったことがありました。幕を張って飾りをつけた船にわたしも近所のたくさんの人と乗り込みました。船が隅田川に出ると、蒸気船で網をかけて引っ張っていくのでしたが、大人たちが船の中で酒を飲んで騒ぐのを見たり、荒川堤で酔っ払いを見たりして、すっかり嫌になって、二度と花見の船に乗らなくなりました。川開きの時は船が隅田川にぎっしりつまって、船頭がお互いにわめき、帰りはひどく遅くなってこりごりして、花火見物も二度と行きませんでした。潮干狩りに船が出たかどうか覚えていません。

小学校の三年生になった頃、わたしの生活に変化がおこりました。家から少し離れたところにある習字の塾へ姉に連れられて通うようになり、裏通りの珠算塾にもかよいはじめたのでした。下町の教養ですが、この珠算塾がわたしの子ども時代の懐かしい思い出の泉です。

習字の塾は五年生になってやめましたが、姉はつづけていました。この塾には思い出もあまりありませんが、手習いの効果があったのは確かなようです。今の天皇陛下のご婚約成立の記念であったと思いますが、小学校の習字や絵や手工などの作品展があって、わたしの習字が出品されました。その褒美に菊の紋を型どった菓子をいただいたのですが、その時も姉が附添って小学校に来て、先生にいわれた通り、わたしを写真屋につれてゆき、記念の写真をとるようにしました。家では皇室をありがたいとか、おそれおおいとかいうことを教え込む雰囲気はなかったのですが、先生の言葉を忠実に守ったようでした。新年や紀元節、天長節などの祝祭日(はたび)には国旗を掲げることが行われていましたが、お巡査(まわり)さんに叱られるから国旗を出しなさい、と家でいわれていました。

珠算塾の先生は老年に近い人でしたが、ある日、漢文を教えていたのを見ました。漢文というのをはじめて知り、その教え方を不思議に感じましたが、ここではそのことを除(はぶ)きます。大正の頃に珠算と漢文を教える先生が町の塾にいたわけで、今はこんな塾はないでしょう。この先生の印象は少ししか残っていませんが、わたしの珠算はここで暗算と一緒に磨かれました。実はこの塾の家主の親戚が鮎沢健ちゃんという立教大学の学生でした。塾がはじまる前に行くと、健ちゃんがわたし達にいろいろなことを教えてくれたのでした。トランプ遊び、催眠術、手相を見ることなど、わたしたちの知らないものばかりでした。そしてまたわたしたち数人をひきつれて浅草の繁華街(さかりば)へ行く冒険を味わわせてくれたりしました。

健ちゃんはわたしの手相を見てくれたことがあります。わたしの生命線は途中で切れているから二十才(はたち)ぐらいで死ぬかもしれない、切れないでつづいていれば長(なが)生(い)きするし、それに手相は変わるから、切れているところが自然につながることがあるというのでした。わたしはびっくりしてしまって、二十才ぐらいで死にたくないと真剣に思い、家に帰ると生命線の切れているところを縫針でささったとげをとり出すやり方で皮膚を刺して細い線をつくって、生命線がつながるようにしました。一センチほどでしたが、血が滲んで痛かったものでした。このことは健ちゃんには内緒にしておきました。健ちゃんのいったように二十才ぐらいで死なずに、いまも元気にいきているのはあの時痛さを我慢して溝のような線をつくったからかもしれません。(第21号1980年6月7日)

健ちゃんが催眠術をかけるのを見たことがありました。健ちゃんの弟の鋭(とし)ちゃん(同級生)が簡単にかかってしまって、健ちゃんがハンケチを丸めたものを鼠といったり、いまボートに乗っているといったりすると、そのとおりに思ったようでした。どうしてだかわたしがかけられることになりました。健ちゃんは人差指を上向きに立て、これをよく見なさいといって、その指をわたしの顔に近づけたり遠ざけたり繰返して、やがて眼をつぶらせ、123の数を低い声でいいつづけたようでした。健ちゃんはわたしが催眠にかかったと思って、さっきとおなじようにハンケチを鼠と思わせようとしましたが、わたしは実はかかっていないのでした。健ちゃんはおかしいといって、わたしの両手を横に挙(あ)げさせました。わたしはだんだん手がくたびれて来ましたが、じっと我慢していました。そのうちに健ちゃんは催眠を戻そうといって、わたしの両手を下げさせ、眼を開けるようにいいました。わたしは催眠にかからないと悪いと思って、かかったふりをしたのですが、ハンケチを鼠といわれては、どうしてもそう思えなかったのでした。健ちゃんはそれに気がついて、催眠を解くことにしたのでしょう。このことも健ちゃんには黙ったままにしてしまいました。

健ちゃんがわたし達を連れて浅草に行った時は、まず永代橋まで歩き、橋際でポンポン蒸気船に乗り、隅田川を遡(さかのぼ)って吾妻(あずま)橋際で降りました。観音様にお詣りしたが、花屋敷か活動写真館に入ったか、何も覚えてなく、ただ蒸気船に乗って往復したことだけが記憶に残っています。

健ちゃんに連れられた浅草行は往復歩くこともありました。茅場町に出て鎧橋を渡り、人形町、久松町を通り、浅草橋に出ました。浅草橋までは人形町、小伝馬町を通って行ったこともありました。浅草橋を渡るともうすぐなので元気になり、厩(うまや)橋の停留所を過ぎて駒形に来ると、道路が広くなって雷門が望めたようでした。帰りには小伝馬町から本石町(ほんごくちょう)、日本橋、京橋と遠廻りをしたこともあったと思います。とにかく途中で店屋の前を通ると、きまってその店屋の奥に掛かっている柱時計をのぞきこんだものでした。あの頃は柱時計が大抵の店屋に掛かっていましたが、それも震災後には少なくなりました。わたしにとって浅草行はその往復のことばかり覚えているので、活動写真の方はまだ興味がわくほどではなかったのかもしれません。そして一緒に行ったのはだれかもはっきり覚えていないのです。

(第24号1980年6月22日)

 

健ちゃんは招魂社(靖国神社)にもつれていってくれました。馬場先門に出て、堀端に沿って行くのでしたから、わかり易く、それほど遠くありませんでした。招魂社のお祭りの時は賑やかで、ここだけでしか見たことがないおおきな小屋掛の見世物がありましたが、今は見世物がたちません。鉄砲洲神社などと違う気持で参拝したと思っていますが、境内の銅像は大村益次郎で陸軍の基礎を置いた人と教えられても私の知らなかった人なので、どうしてここに銅像が建てられたのか、わからないままでした。今の宝物遺品館の前身の遊就館を見学しましたが、その時の感銘が浮かび上がりません。

健ちゃんはわたし達に下瀬(しもせ)火薬といって、硝石、硫黄、木炭を材料として火薬を作ることも教えてくれました。わたし達はそれを用(つか)って遊ぶというより、この火薬が上手く作れるかどうかに興味があったようでした。確かカ―バイトを硝子瓶に入れて水を加え、それによって生じたアセチレン瓦斯を操作して、走る船を作ることも教えてくれましたが、これは徳ちゃん(同級生)が作ってくれました。

火薬や船とは別に飛行機作りが流行しました。染物屋の倉ちゃんが複葉の飛行機を作ってくれることになったので、玩具屋(おもちゃや)で飛行機の材料の籤(ひご)や翼に張る薄紙、二つのプロペラや何メートルかのゴムなどを買って来ました。機体と翼ができ、プロペラがついた時に少兄が部屋の中で飛ばしてプロペラを折ってしまい、倉ちゃんはせっかく作ったものを大事にしないといい出して、飛行機作りを止めてしまいました。わたしはこわれた部品を取り替えたりしてみたのですが、結局上手く出来ず、代々木の原で催された子どもの飛行機大会で失敗し、飛行機作りから遠のきました。

あの頃は大人達も飛行機の爆音がすると、家から外へ飛び出して、空を見上げたものでした。アメリカ人のナイルス・スミスが来たり、東京の空で宙返りが見られたりして、わたし達も宙返りという言葉に馴染(なじ)んだようでした。

健ちゃんがわたし達を浅草の繁華街(さかりば)へ連れていった気持はわかりませんが、浅草行はわたしにいろいろのものを残しました。東京の地理にいくらか明るくなりましたし、繁華街(さかりば)はよくない場所とは思わず、ひとりでも行ける處となりました。しかし映画に興味を持ったのは健ちゃんに直接関係はなかったでしょう。あの頃は映画館によっては十五才未満の子どもの入場お断りという禁止令がありましたが、小学校時代の少兄の同級生であった中学生(岡村さん)がその禁止にかまわず、わたしを外国物専門の金春館(新橋よりの銀座裏)に連れて行ってくれました。それまでに見た活劇(アクション映画)とは違う、アメリカ映画に心の惹かれるものを感じました。次兄が帝劇で上映された「イントランス」を見て来て、よかった、よかったとうのを聞いたような気がします。そしてこれまでわたしも活動(活動写真館の略)といっていたのに映画という新語を用(つか)うようになったかと思います。

(第26号1980年7月10日)

 

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思い出すこと 2 三鷹のおじい(小林昇)

2020年05月27日 | 「くるくるしんぶん」から

 子どもの頃を思い出そうとすると、小学校の何年生の頃というのが手がかりになりますけれど、はっきりしないことが多いのです。

 京橋小学校の一年生の終りに、六年生の兄が修学旅行、その当時のきまりになっていた江の島・鎌倉に行くのに、すぐ上の姉(時田)と附添(つきそい)に加わったのを覚えています。姉はわたしを何かというと連れだしたようです。長兄、次兄は家のしごとをして、わたしと年も離れており、長姉は川口の出張所(大地震のあと過ごしたところ)をきりまわしていたので、子どもの頃のわたしは余り関心を持たず、すぐ上の兄は中学校に入ると、わたしを相手にしなくなりました。家族は大ぜいでしたので、女中のおしもが下働きをしたものの、わたしは姉に面倒を見てもらうことが多かったようです。

 家の裏通りに小さな駄菓子屋(だがしや)があって、そこに連れていかれもしました。その店屋の入口にすどおしの硝子(がらす)戸(ど)がはめてあって、外から中が見えました。土間に大きな台がおかれ、その上に駄菓子を入れた硝子のふたのついた浅い箱が並んで、その上のほうにあてものくじなどがぶらさがり、ラムネなどもあったようでした。今でも町はずれで見られる子ども相手の店屋のようでしたが、今のと違うのは、その土間の隣りに狭い部屋があり、どんどん焼ができるようになっていたことです。このことだけはっきり覚えています。どんどん焼の火鉢や鉄板などの道具が片付いていた時は、おはじきやお手だま、あやとりをする遊び場にもなりました。しかしわたしが小学校に入った頃には、この店屋は改築されて、駄菓子だけを売るようになってしまいました。あのどんどん焼の部屋でどんな子と遊んだのか思い出せません。

いまでもあやとりは少しできますが、七段梯子(ばしご)や月にむら雲などは名前だけしか覚えていません。あやとりは姉や三人の妹が遊んでいたのを見て、自然に覚えたのでしょう。お手だまで「旅順開城 約なりて」「さいりょう山は霧深し」の歌、手毬(てまり)歌で「向う横町のお稲荷さんへ」が心に残っています。

 わたしの家は大川(おおかわ)(隅田川)に流れこむ川筋に沿って、上流に銀座通りに架かる京橋があり、下流に稲荷橋があって、橋のそばに鉄砲洲稲荷(湊(みなと)神社)がありました。「江戸名所図会」にも湊神社のことや、その地に諸国の船が出入りした様子が記されています。家の前が道路で、後ろが川なのでしたが、船は稲荷橋近くに泊めてあって、修理する船だけ家の裏につながれていました。母屋のわきの通用口から入ると、裏の家の階下の土間に行くことができて、そこから船に歩板(あゆみいた)(あゆび といってました)が架けてあったのでした。

わたしは船の上を駆けずり廻り、船から落ちて溺れそうになったそうですが、いつのことか覚えていません。震災後の区劃整理で、地名が新富町に変わったのですが、それまでは南八丁堀とよばれていました。

(第15号1980年5月1日)

 

父は夕食後に船を泊めてあった本八丁堀の川岸へ行くことがありました。八丁堀の夜店をよくぶらぶらしたらしく、わたしも父につれられてというか、ついていったというか、夜店を見て歩きました。ある時に八丁堀で寄席(よせ)に立ち寄り、なんだか場内がうす暗いので気味わるく、それっきり寄席にはいったことはありません。ちょうど寄席がさびれた頃のことと後で知ったのですが、有名な京橋ぎわの金沢亭も震災後は復興しなかったのです。

近くの清正公様の縁(えん)日に父について行き、足をのばして高島屋横のすし屋の伯父(おじ)さんの家へ寄ったことがありました。夕食後なのに並べられた寿司を残さずに食べたら、おせいおばさんにほめられたので、恥ずかしくなりました。子どもの時に父と二人きりで歩いたのをはっきり覚えているのは、この時だけです。

父に連れられて活動写真を見たことがありましたが、見終わって明るくなると、見物人が拍手していたので、わたしも拍手したら、姉から真似して拍手などするのはおかしいといわれたことを覚えています。父と一緒に出かけたことはいくらか思い出してきますが、母に連れられて出かけた記憶はひとつもないです。

父におなおさんという妹がおりました。この叔母の安孫子(あびこ)の家に泊まったのは夏の頃でしたが、叔母には子どもがなく、早く逝(な)くなりました。時田の姉が十年ほど前に安孫子に引越したので訪ねましたが、叔母の家はどこにあったのかもわからず、ただ周りに沼があった安孫子という土地を懐かしむだけでした。

わたしの家は廻漕(かいそう)店で屋号を阿波(あわ)家といいました。よく阿波家ののぶちゃんとよばれました。今の徳島県つまり昔の阿波の国から江戸に出てきたので阿波を屋号にしたわけで、お墓に阿波久の名と百八十年ほど前の享和(きょうわ)の年号が刻(きざ)まれているのを、ずっと後に知りました。祖父は滝五郎といって、明治の半ばに逝(な)くなるまで、丁髷(ちょんまげ)を結(ゆ)っていたそうです。江戸時代の気風は明治二十年頃を境としてなくなっていったといわれますが、祖父は江戸人の気風をくずさずにいたのかもしれません。祖父が若かった頃の阿波家は船宿でなかったかと思いますが、わたしの子どもの頃は家に三十屯(とん)以下の艀(船)とぽんぽん蒸気船があって、艀で荷物を運ぶのが商売でした。主に東京湾に入って来る大きな貨物船(本船(ほんせん)とよびました)から銑鉄(せんてつ)(ずくとよんでいました)を芝浦の埠頭(ふとう)で艀に移し、蒸気船で引っ張って隅田川を遡って、荒川の支流の芝川沿いにある川口の出張所に運ぶのでした。コークスも江東区の東京瓦斯(がす)会社から艀に積んで運んだのでした。出張所は長姉夫婦が管理していて、川岸に広い地所があり、そこが艀の積荷の銑鉄やコークスを荷揚げして置く場所になり、そこから鋳物工場に馬力やトラックで運ぶのでした。震災後には商売の様子は変わり、今は一層変わって、川口市の鋳物工場の数は盛んな時の三分の一より少なくなっているそうです。

(第16号1980年5月8日)

 

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思い出すこと 1 三鷹のおじい(小林昇)

2020年05月27日 | 「くるくるしんぶん」から

思い出すこと   三鷹のおじい(小林昇)

『くるくるしんぶん』(第9号~第30号1980年3月~8月)より転載

ーー 「 くるくるしんぶん」は、以前私(まいぱんまま)が出していた手作り新聞です。

小林昇さんは、夫の父親です。子供たちにおじいちゃんの子供時代のことを知ってほしくて、お願いして、書いてもらいました。書き始めたら、思い出すことがどんどん湧き出てきて、分厚い封筒になって、次々と送られてきました。それからそう月日がたたないうちに亡くなってしまったのですが、今でもお義父さんのことを思い出すとなつかしくて、胸があつくなります。

                               

                                   

 

 今から六十年ほどまえ、大きな地震が関東地方にあって、東京ではたくさんの家がこわれ、火事がおこって、何万という人が死にました。その時、わたしの生まれた京橋の家も焼けましたが、みんな宮城前の広場へ逃げたのでした。

東京の北の川口という町にいて、やけあとにバラックが建てられるのをまち、東京にもどってきましたが、となりの家も、なかのよかった友達の家もよそへうつったりして、やけあとにはだんだん知らないひとが住むようになり、店屋のつくりも違ったように感じました。東京は変わっていったのです。

 東京が変わっていったことで、身近によく覚えているのは、お彼岸の時などおはぎや五目(ごもく)ごはんをつくって、いつも往来(ゆきき)する家へ配って歩かなくなったことです。近所づきあいというものが知らないうちにとりやめになっていったのです。そればかりでなく親戚のひとが来るのが少なくなったことです。

 お正月や春休みに子どもたちを集めて、子供会をひらくお医者さん、お料理屋さんの家があって、わたしも呼ばれて行ったものでした。ところが大地震のあとには、そうしたことも聞かなくなりました。

 大地震は怖かったばかりでなく、わたしたちの世界を変えていったのでした。

(第9号1980年3月10日)

 

大地震のとき

 子どもの頃を書くつもりで始めたのですが、地震のことを素通りできなくなりました。九月一日の大地震のとき、ちょうど母と末の妹と三人で食事をしていました。突然に下から持ちあげられた感じがすると、台所の棚や茶箪笥(ちゃだんす)のものがばらばら落ちてきて、母が妹を抱きかかえるように玄関の方へ行きました。わたしは食卓の前に座ったままで、母たちが戸口でうずくまっていたのを見ました。はげしい揺れがおさまって外へ出ると、大騒ぎであったのはいうまでもありません。

 わたしはあの地震のときに食卓の前をどうして動かなかったかというと、安政大地震に藤田東湖は母を抱いて庭に出ようとして、倒れた家の下敷きになって死んだのをとっさに思い出したからでした。夏休みに読んだ東湖の伝記の印象が強く残っていたからと思っています。あとあとも母は妹を抱きかかえ揺れるので歩けなかった、と皆にいうばかりで、わたしがじっとしていたのに気がつかなかったらしく、それが私にはひどく不満でした。わたしは座ったままだった、と兄や姉にいっても、腰が抜けたからといわれたりしたものでした。父は三浦三崎に、長兄は関西に出かけた留守中のことでした。

 中学二年生十五歳のわたしはあのはげしい揺れのなかで、座ったまま動かなかったことにいくぶん得意でもありました。しかし考えてみると、家から外へ逃げ出して無事なこともあり、動かぬことで助かるとはかぎりません。東湖のことをおぼえていたばかりにじっとしていただけなので、もし動かずにいて、かえって圧しつぶされたらばどうでしょう。

 いまは地震が起こったら、教えられているように机の下に潜るつもりです。しかしこの頃は小さな地震にも恐がるようになったので、果たして何がおこっても驚かないと心に決めているとおりに、大地震の折にも落ち着いていられるか、怪しいものです。

(第11号1980年3月31日)

 

 

 

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