偶然、私の報告もロストフ州の州都のロストフ・ナ・ドヌー(新聞はつづけてロストフナドヌーと表記してますね)ではないのですが、タガンログという都市のことでした。ウクライナとの国境まで50キロ、国境に一番近い都市です。
タガンログはアゾフ海の上(北)の方のタガンログ湾の沿岸にあります。
ロストフ・ナ・ドヌーはそれより東、タガンログ湾に流れ込むドン川の数十キロ遡った所にあります。タガンログからは6,70キロです。
もっとも報告は19世紀の話でした。生まれてから19歳でモスクワ大学医学部に入るまでタガンログで過ごした作家チェ―ホフの一家についてでした。当時が19歳で大学入学というわけではありません。チェーホフはギムナジウムに通う前7歳のときギリシャ人学校に1年間通い、そのあと8歳でギムナジウムの予備級、9歳で一年生。8年生で卒業なのですが、チェーホフは2度落第したので、卒業がおくれました。落第は勉強がきらいとかできなかったというわけではありません。毎日の店番(チェーホフの父の店は、輸入製品中心の雑貨食料品でした)と父親が入れ込んでいた教会での聖歌隊の活動に酷使されていたためでした。
やがてタガンログはロストフ・ナ・ドヌーに貿易港と国内外の商業地としてのお株をうばわれ、衰退してゆきます。
チェーホフの父も自宅建設資金の借入金が返済できず、ひとりでモスクワに夜逃げして、そのごチェーホフひとりタガンログで家庭教師をいくつか掛け持ちし自力で、いえ、自力どころかモスクワの家族に送金までしながら、ギムナジウムの最後の3年間を送ります。貧しく厳しい暮らしではありましたが、精神的には自由でした。チェーホフは肺結核をわずらっていたため、よわよわしいイメージがありますが、水泳はアゾフ海で鍛えただけあって大得意、冬には公園で野外スケート、また家庭教師の教え子の家に遊びに行ったとき、射撃、乗馬などをものにしました。運動は大得意だったと思いますが、そう見られないところがチェーホフの魅力でもあります。家庭教師で町を駆け回る必要はありましたが、自由を獲得したチェーホフは図書館で様々な本を読破し、劇場で演じられるシェークスピアやロシアの作家たちの戯曲から通俗的なオペレッタまで見逃さなかったそうです。劇場で演じられる出し物が大好きだったのです。もちろん切符代金などもっていませんから、うまく立見席に潜り込む方法をつかっていたのでした。成績も伸び、落第することはありませんでした。卒業時の成績は23人中11番でした。
俗っぽいイメージのつよいタガンログですが、高台のこじんまりした西洋館の建物の目立つ外人の行き交う街でした。前方に青いアゾフ海、後方にはどこまでもつづく広大なステップ。
よくもわるくもタガンログは私の好きな作家チェーホフのおおもとをつくった街でした。
タガンログに一度行っておけばよかったって、今になって思っています。