ダーチャの庭のナナカマドの実はうっすらと色づいていました。
黒っぽい葉があるのは、今年の猛暑のせいかもしれません。
ロシアだったら、もう真っ赤な実が鈴なりになっていることでしょう。
ナナカマドにしても、今は思い出す前に、ロシアといったらまずプーチンの顔が浮かんできてしまいます。
だからロシアの植物のことも考えないようにしてきました。それが会誌の原稿のためにタガンログのチェーホフ家を追っているうち19世紀に生きたタガンログのチェーホフ家のことが頭からはなれなっていました。今しばらくタガンログにこだわってみようと思うようになりました。
つい数日前、タガンログへの攻撃があり、報道に国境から40キロってありました。国境だけあって、軍事施設もありますから、これからもロシアの侵攻が終わらない限りはあることでしょう。
"рябина в таганроге" (タガンログのナナカマド)と検索してみました。
写真では ★
記事で最初に出てきたのは、
左から1番目は、チョールナヤ・リャビーナ(黒いナナカマド)」 これは、呼び名はナナカマドですが、アロニアです。英語名 チョークベリー、和名 セイヨウカマツカ
2番目は、セイヨウナナカマド(赤いリャビーナ)これが中央ロシアでふつうに生えているナナカマドです。
ロシア名も「ふつうのナナカマド」
3番目は、ナナカマド(黒い)これも最初のと品種はちがうかもしれませんが、ナナカマドではなくてアロニアです。
4番目は、オレンジのナナカマド これは実(み)がオレンジ色のナナカマド。
5番目は、オーク状の葉のナナカマド 私は初めて見ました。それでこんな葉のナナカマドはないだろう、これは何だろう?と思いました。でも読んでみたらナナカマドでした。葉は黒っぽい緑色だそうです。新しい品種でしょう。今は分かりませんが、ソ連時代は品種改良がさかんでした。
タガンログの町中のナナカマドの写真が少ないのは街路樹で使われていないからでしょうか。セイヨウナナカマドは中部ロシアを代表する樹木ですから、南部ロシアのタガンログにはあまりないのかもしれません。「南部」とはいうものの、冬にはタガンログ湾が凍結する(しない年もある)そうですから、日本より寒いです。緯度は北海道より北でしたっけ?
そういえば、アロニアこと「黒い(黒実の)ナナカマド」、チョークベリーを北杜市の庭に20年くらい前に植えた記憶があります。大木になる木ではないので、きっとつる性の雑草にまきつかれて目にはいらなくなっているのかもしれません。今度行ったら、探してみます。
こちらの商品★はナナカマド柄ですね。いっぱい! ナナカマドはロシアの伝統的な模様で、おみやげの塗り物の食器やお盆によく使われます。私もロシアで旅の途中で買ってしまって、持ち歩くのに苦労したナナカマド柄の大きなお盆をもっています。
こちらは「タガンログのナナカマドの実」★ロシアではナナカマドの実をいろんなものに使います。ジャムとか、ジュースとか、薬屋にも売ってます。ナナカマドの実は、ふつう苦いのですが、なかに苦くないのがあるそうです。「ネヴェージノのナナカマド」は昔からにがくなく、一級品と評判のナナカマドでした。今はもっとちがう品種が人気かもしれません。
今日のブログの写真のナナカマドは「北海ナナカマド」です。きっと北大のナナカマドと同じでしょう。以前ナナカマドに憧れて、カタログで探して、買いました。鉢植えにして、北杜市に家をつくるまでは八王子の家のベランダで育てていました。今は家の屋根より高いかもしれません。
ひさしぶりのロシアの植物の話題は楽しいので果てがないです。夕飯の支度をするとしましょう。
19世紀はじめにつくられた海辺に下りていく立派な「石の階段」は今も観光名所です。つまり泳ぐのも、魚をとるのも崖下です。そういえば、チェーホフは子供の頃海で何時間でも泳いでいて、水泳が大得意、そして釣り好きです。タガンログの公園に冬にはスケートリンクがつくられましたが、スケートも大得意でした。チェーホフは運動神経抜群だったにちがいありません。猟銃も乗馬もすぐに身につけました。
チェーホフの時代、タガンログでは魚の漁獲量がけっこうありました。漁師村はどこにあったのかが疑問でした。
偶然、私の報告もロストフ州の州都のロストフ・ナ・ドヌー(新聞はつづけてロストフナドヌーと表記してますね)ではないのですが、タガンログという都市のことでした。ウクライナとの国境まで50キロ、国境に一番近い都市です。
タガンログはアゾフ海の上(北)の方のタガンログ湾の沿岸にあります。
ロストフ・ナ・ドヌーはそれより東、タガンログ湾に流れ込むドン川の数十キロ遡った所にあります。タガンログからは6,70キロです。
もっとも報告は19世紀の話でした。生まれてから19歳でモスクワ大学医学部に入るまでタガンログで過ごした作家チェ―ホフの一家についてでした。当時が19歳で大学入学というわけではありません。チェーホフはギムナジウムに通う前7歳のときギリシャ人学校に1年間通い、そのあと8歳でギムナジウムの予備級、9歳で一年生。8年生で卒業なのですが、チェーホフは2度落第したので、卒業がおくれました。落第は勉強がきらいとかできなかったというわけではありません。毎日の店番(チェーホフの父の店は、輸入製品中心の雑貨食料品でした)と父親が入れ込んでいた教会での聖歌隊の活動に酷使されていたためでした。
やがてタガンログはロストフ・ナ・ドヌーに貿易港と国内外の商業地としてのお株をうばわれ、衰退してゆきます。
チェーホフの父も自宅建設資金の借入金が返済できず、ひとりでモスクワに夜逃げして、そのごチェーホフひとりタガンログで家庭教師をいくつか掛け持ちし自力で、いえ、自力どころかモスクワの家族に送金までしながら、ギムナジウムの最後の3年間を送ります。貧しく厳しい暮らしではありましたが、精神的には自由でした。チェーホフは肺結核をわずらっていたため、よわよわしいイメージがありますが、水泳はアゾフ海で鍛えただけあって大得意、冬には公園で野外スケート、また家庭教師の教え子の家に遊びに行ったとき、射撃、乗馬などをものにしました。運動は大得意だったと思いますが、そう見られないところがチェーホフの魅力でもあります。家庭教師で町を駆け回る必要はありましたが、自由を獲得したチェーホフは図書館で様々な本を読破し、劇場で演じられるシェークスピアやロシアの作家たちの戯曲から通俗的なオペレッタまで見逃さなかったそうです。劇場で演じられる出し物が大好きだったのです。もちろん切符代金などもっていませんから、うまく立見席に潜り込む方法をつかっていたのでした。成績も伸び、落第することはありませんでした。卒業時の成績は23人中11番でした。
俗っぽいイメージのつよいタガンログですが、高台のこじんまりした西洋館の建物の目立つ外人の行き交う街でした。前方に青いアゾフ海、後方にはどこまでもつづく広大なステップ。
よくもわるくもタガンログは私の好きな作家チェーホフのおおもとをつくった街でした。
タガンログに一度行っておけばよかったって、今になって思っています。
昨年の2月24日、ロシアのウクライナ侵攻を知ったときの衝撃は今でも忘れがたいものがあります。あれから一年以上たった今も休みなくつづく理不尽なウクライナへの侵略は、プーチンが権力の座にいるかぎり、つづくのでしょうか。
ちょうど一年前ウクライナの美しい港湾都市マウリポリが激戦の末、ロシアの支配下に置かれました。アゾフスターリ製鉄所に籠城して最後まで戦ったウクライナ兵たちは全員降伏し、捕虜になりました。捕虜の兵たち、また連れ去りにあった子供や市民たちの移動先のひとつにロシア領のタガンローグ市があります。
タガンローグはウクライナとの国境からおよそ50キロ、マウリポリからは100キロと近く、鉄道が通っているのでロシア各地へウクライナの人々を運ぶことができるのです。例えば、「ロシアに強制移送されたマリウポリ市民、帰国を切望」 彼女はマウリポリからとりあえずタガンローグへ運ばれ、列車に乗せられ1000キロ離れた町に運ばれたのでした。彼女はたまたまロシアを出国できたわけですが、できなかった人たちは今どうしているのでしょうか。
ロシア侵攻による捕虜や連れ去りの町として出会うことになったアゾフ海のタガンローグ湾に面した港湾都市タガンローグ。タガンローグといったら、戯曲『桜の園』などで知られるロシアの作家チェーホフが生まれた町です。タガンローグとの不幸な出会いではありましたが、これをきっかけに私の中でチェーホフ熱が再燃しました。
チェーホフは1860年農奴解放の一年前にタガンローフで生まれました。ギムナジウムに通い、教会のお勤め好きの父親に幼いときから兄たちとともに教会で歌わされ、家業の食料雑貨店の店番をさせられ、専制主義的な父親の意に染まなければ鞭打たれて育ちました。その父親は破産して、モスクワに夜逃げしてしまいます。16歳のチェーホフはギムナジウム6年生でしたが、父親はそのチェーホフに店の後始末を押しつけたばかりか、「金送れ」といってくる。母は「お前以外に頼るひとはいない、お金を送っておくれ」と涙ながらに懇願してくる。苦労してやっとひねりだした12ルーブリを送金すると、返事には「20ルーブリ必要だったのに」とある。もちろん自分の学費、生活費は町中駆け回って何軒も家庭教師をして自分で稼がなければなりませんでした。
チェーホフがタガンローグをあとにしたのは、ギムナジウムを終え、モスクワ大学医学部にヒ入学した19歳のときでした。自分ばかりか遠く離れたモスクワの家族の生活の援助までしなければならなかった日々は苦しかったにちがいないのですが、父親から精神的に自由になって、学校にかくれて劇場に通ったり、自分でも戯曲を書いてみたり、図書館で読書したりと、貧しさにおしつぶされず、のちの何事にも屈せず、とらわれない精神の強靭さをはぐくんだ貴重な時間だったといえます。
モスクワでは極貧の家族が待ち受けていました。チェーホフがユーモア雑誌に投稿したのは生活のためでした。モスクワでもチェーホフは兄たちが顧みない家族の生活を支えたのでした。医者になってからも、ユーモア雑誌に書いて書いて書きまくりました。チェーホフというひとは、自分は金をかせぐ機械とで思っていたようなところがあって、それがいくらお金を稼いでも特別な贅沢をしてるわけでないのになくなってしまい、金欠、金欠といいつづけ、それでも慈善のためとお金を乞われるたびに払うのでした。
タガンローグをきっかけにインターネットでチェーホフのことを読むようになると、チェーホフのじつにさまざまな情報がいっぱいあるのでした。ウクライナの人がいうようにたしかにチェーホフはウクライナに近しいところがあります。実際、父方の祖母はウクライナ人の農奴でした。
1週間前偶然にチェーホフが生きた、さまざまのシーンと作品論を組み合わせた伝記にいきあいました。ひきこまれて、熱中してました。ますますチェーホフが好きになりました。
いろいろ興味深いことを新たに見つけました。こんど、紹介しますね。
日本で活躍するロシア人女性のYou Tuberはたくさんいるのだそうです。以前はまったくといっていいほど見なかったのですが、私も最近はときどき見るようになりました。知らなかったロシアやロシア人のことを教えてくれます。
登録者30万に迫ろうとしているあしやさんはウクライナ情勢やロシアの状況を独立メディアの報道を中心にまとめてくれているので、ときどきのぞきます。
最近印象に残ったというか、教えられ共感したものでは、安涼奈(alyona)さんの「ロシアに住めない本当の理由 今だから言える」(3か月前)★
1、政治体制 2,DV 3,民族差別 4,わいろ社会 5,警察は国家のために仕事し、人々のためにはしない 6,貧困(貧富の差)7,軍事大国(力を誇示し、金を使ってのパレード)
DVはひどい状態だけど、警察にいっても相手にしてもらえない、死体がでたら取り扱うといわれるのだとか。
プーチンの強権体制が男社会を一般的にし、DV以外でも治安をわるくし、社会の女性蔑視を助長してきたであろうことがわかるのは、あしやさんの3か月前の「日本在住3年目、友達に聞いたロシアに住みたくない理由」★
シベリアのノヴォシビルスク出身のトーニャ(アントニーナ)さんの語る「治安がわるい(特に女の人に)、タクシーに乗るのが危険、何かあったら女性が責められる、女は台所にいればいい」といった話などなどには実感があります。
(ちなみにあしやさんとアントニーナさんはウクライナ侵攻反対デモで知り合ったんだそうです。私は自称「愚痴と悪口の専門家」トーニャさんが大好き!)
それにしてもみなさん、日本語が上手です
今朝の雪は前回より少ないです。いえ、ちょっと多いかも。いずれにしてもたいした雪ではありません。
(落ちているみかんは姉が鳥にやっているものです。)
ロシアの雪のなぞなぞで私が本を見ないでいえるのは、ひとつだけ。
「テーブルかけを世界中にかけるもの」
今朝の雪だと、ぼろぼろのテーブルかけってことになってしまいますね。
今度時間のあるとき、本を見てほかの雪のなぞなぞも紹介します。
ロシアのフォークロアに興味をもった最初はなぞなぞでした。もう何十年も前のことです。
手も足もないのに 戸を開ける
これは風のなぞなぞ。前にも書きましたが、ロシアのなぞなぞは「なんだ?」がないのがほとんどです。
戸(ドア)のなぞなぞは
玄関を行ったり来たり だけどうちには入らない
もう一つ、ドアのなぞなぞで私のお気に入りは
へそひっぱられるばあさん
お気に入りはいっぱいあります。
一枚のヴェールをかぶる四人姉妹 (テーブル)
冬でも夏でも同じ色
松のなぞなぞです。私はこれをずーっと「冬でも夏でも同じ服」って覚えていました。
それは、多分、私は若い頃、気に入ると同じ服をずっと着ていることがよくあったからではないかと思います。学生時代緑色のタータンチェックのプリーツスカートに黒いセーターはどれくらい着ていたでしょう。勤めてからは黒色の厚手の木綿のスカートに黒い上着でした。冬も夏も長い間お出かけにはこれですませました。そんなことから、「冬でも夏でも同じ服」って覚えてしまったようです。
それが最近ロシア語のなぞなぞの本を見直したら、同じ服ではなくて、同じ色でした。
ずいぶん長い間、まちがっておぼえていたことになりますね。
最後に、これもお気に入りのひとつ
地面から持ち上がらないもの (かげ)
生命(いのち)の水 N. オメリシュク
森は雪に埋もれていた。つい最近吹き荒れた雪嵐がマツとトウヒの枝の上にもしゃもしゃの帽子をかぶせていった。スキーで進んでいくと雪にめりこみ、うしろに深い跡がのこった。
樹間に洩れる陽の中に空地が見えた。空地にはすらりとした白樺が集まり、雪だまりの中で凍てついていた。そこには小川が流れている。水は黒ずんでいる。水からは湯気がかすかに立ちのぼっているのに、川岸では草が凍りつき、突き出ている。零下10度以下! 小川は白い大国からくっきり際立って、ゆっくりと流れている。この流れはじつは生命(いのち)の水、飲むと力を得るというあの水ではないか。
魅せられて立ちつくしていると、子供時代に、あるいは夢の中で見た不思議な情景が浮かんできた。
……夜。雪に埋もれた森に青く降り注ぐ月光の下、物音ひとつない静寂。森の空き地に美しいオオジカが姿を見せる。立ち止まり、用心深く耳を澄ます。どこかで不気味なミミズクの声がする。オオジカは落ち着いている。これは聞きなれた音だから。それから白い処女地を小川に向かって、足を運ぶ。ここでまた一瞬立ち止まったあと、貪るように水にかがみこむ。存分に飲んで、またちょっと立ちつくす。口から滴るしずくに月明りが光る。ゆっくり大股に森の巨人はしげみの中に遠ざかってゆく。
……ワタリガラスの音高くかあかあと鳴く声に、一瞬にしてまぼろしは消え、われに返った。でもあたりはやっぱりおとぎ話の世界。
新たな力をスキーにこめて、小川にそって道をつけながら、滑ってゆくと、この疾走に驚いたマガモの群れが水面から飛び立った。厳寒の空気の中でかれらの羽音が鋭くひゅうひゅう鳴った。(まいぱん訳)
(N. オメリシュク『窓辺のナナカマド』より)
昔話から出てきた夕べ
ニコライ・オメリシュク
半月、厳寒(マロース)がつづいた。
雪のない裸の地面は凍結し、窪地や溝や水たまりは氷でおおわれ、通れなかった秋の泥濘(ぬかるみ)は窪地で凍りついた。
原っぱの草は霜で一面真っ白になって下を向いている。
顔と手が凍てつく。
今日は朝から空気がやわらかでやさしい。一日中靄がかかっていた。
ところが、夕方ちかく、遠い森のうえで夕日が顔をくもらせたと思ったら、黄昏どき、はじめはおずおずとひとひらづつ、それからどんどん雪片が舞いはじめた。
なんて大きな六角模様!
三十分たったら、庭は白くなり、窓はすっかり青色になった。
雪片を通して見える村の灯りは、まるで忘れてしまった古い昔話の挿絵のようだ。
18日朝、札幌のSくんから庭の写真付きのラインで雪が前日から降りっぱなしで66センチつもっているとのこと。テレビで観測史上最深っていってたって教えてあげました。ちょっとうれしいけれど、最近とみに雪かきがつらくなったとのこと。
最初に積もった雪というと私の中にはオメリシュクのこの「昔話からでてきた夕べ」が浮かんできます。雪は見慣れた風景を違ったものに変えます。短い文と写真の『窓辺のナナカマド』という1989年にベラルーシのミンスクで出た本に入ってます。ずっと前に訳しました。ブログにものせたことがあるかもしれませんね。
(リャビンカ-カリンカ 第19号 2005年11月27日発行)より
ロシアのジャイアント・ホグウィード(ボルシチェヴィーク)
八月末から八日間、友人とふたりでロシアへ行った。ペテルブルグからプスコフへ向かうバスの窓から外を眺めていると、防雪(風)林として植えられたトーポリの手前の道路脇に人間より背の高い逞しい植物が密に生えている。葉も一メートルもあるかと思えるくらいに大きく、濃緑で縁がぎざぎざしている。葉の間からは枯れて茶色くなった太い花茎がまっすぐに伸び、その頂きにこれまた大きな半円形の散形花序がドライフラワーになって何本か傘型に広がっている。なんだろう?と気になりながら、プスコフ市内やミハイロフスコエ周辺では見かけなかったので、名前をきく機会がなかった。
プスコフに二泊して、ペテルブルグにもどってから、また週末でダーチャに向かう車で混みあう同じキエフ街道を七〇キロほど走り、レニングラード州ガッチナ地区を訪ねた。プーシキンの曽祖父ガンニバルの田舎屋敷『スイダ』は当時の石造りの小さな屋敷が博物館になっている。二〇歳前に見える、愛らしく感じのよい館員がはにかみながら一生懸命に説明してくれ、古い並木道や石の腰かけのある庭も案内してくれた。大きな池のほとりにくると、彼女はプーシキンの『ルスランとリュドミーラ』の「入江のほとり、緑のオークの木あり、黄金の鎖、その幹にかかりて……」の「入江」はここだといって、詩を朗読してくれた。(ちなみに、この詩はチェーホフの『三人姉妹』でマーシャが何度となく口にする。)詩でうたわれたオークは枯れてしまい、小片にして受付で売っていたので、記念に買い求めてきた。
レニングラード州ガッチナ地区プーシキンの曽祖父ガンニバルの田舎屋敷『スイダ』
小さな博物館の庭の横に群生するボルシチェヴィーク
池に沿った道の片側には、あの逞しい草が見事に群生していた。さっそく彼女に名をたずねてみると、「ボルシチェヴィークです」との答。触ると皮膚が火傷したように腫れあがり、危険な草だけれど、白い花をたくさんつけた大きな散形花序はきれいで傘に見立てて遊んだこと、枯れてしまえば触っても大丈夫なことなどを話してくれた。
日本に帰ってから、調べてみると、「ボルシチェヴィーク」はセリ科ハナウド属、属名のHeracleumは草の逞しさからヘラクレスに由来する。またボルシチェヴィークは古くよりロシアで食材、および薬草として用いられ、ボルシチの語源となったのだそうだ。だがそれは「ボルシチェヴィーク・シビールスキイ(ロシアのシベリアのハナウド)」で、ロシアに自生する背丈一・五から二メートルの草で、汁がついても炎症を起こすことはない。危険なのは「ボルシチェヴィーク・ソスノヴスコボ」で、こちらはより逞しく、草丈高さ三、五メートルにもなる。直径一〇センチにもなる中空の茎、上方で分岐し、その茎ごとに散形花序になっている。波状の切れ込みのある葉の長さ五〇~六〇センチ。根は直径三〇センチで非常にしっかり張っている。天気のよい日 不用意に触ると草に含まれる精油成分が反応し、皮膚に火傷のようなひどい水疱状の炎症を起こし、体がだるくなり、頭は割れるように痛み、高熱を出す。子どもはしばしば茎を折り取ってちゃんばらごっこをして皮膚に炎症を起こしたり、中空の茎を笛にして遊んで唇が水ぶくれになってはれ上がって苦しむ。子どもだけでなく、成人の被害者も毎年数千人におよんで、病院に運ばれるという。
この植物は一〇〇年前家畜の飼料としてカフカスから持ちこまれた。これをロシア中に広めたのはスターリンで、アメリカでこの植物が価値ある飼料にされていると知り、畜産業の能率を上げるべく飼料として栽培するように命じ、その方針はフルシチョーフ、ブレジネフへと受け継がれた。ボルシチェヴィークは簡単に野生化し、マロース(厳寒)も酷暑も恐れず、ロシア中の日のあたる湿った森辺、川岸、道端、野原へと進出していった。
一九七〇年代ソ連の指導者は東側諸国でも栽培を奨励した。ポーランドの畜産家はこれを食べた雌牛の乳には苦味が出るとし、毒草だと判明したため栽培は止められたが、畜産家たちはその後も長い間この草を「スターリンの復讐」と呼んだそうだ。ロシアでもこの草をめぐっては環境汚染のため特殊任務の研究所にひそかに持ちこまれたとか、アメリカのスパイが持ちこんだとの噂があった。
この草を絶やすには、種が飛び散る前、天気の悪い日を選んで、皮膚に触れないよう防護服で武装し、根こそぎ掘り起こす。種子が飛んだあとの場合、根の周囲には種子が残っているので土を掘り起こして焼き払う。多くの株が地面を蔽いつくしているような最悪の場合は除草剤を使うなどの方法を用いる。
スターリンの御代が終ったとも知らず、ボルシチェヴィークは何ものも恐れず進撃をつづけ、今では都市の公園や中庭にまで姿を見せているという。
*2018年以降モスクワ地方では個人の、また法人の所有地にボルシチェヴィークを繁殖させていたら、罰金を科せられるそうだ。2021年の今はその分布をさらに広げて、極地のムルマンスクなどにまで進出しているそうだ。
ボルシチェヴィークの画像一覧 ★
実際に見たことないのに懐かしい(私だけかも)特集です。
https://jp.rbth.com/cuisine/83951-soren-de-nomareteita-tansan-inryou
ソ連風イラストがなんともいえません。
それにコカ・コーラやペプシの真似をしてなんとか似せようとする健気さがいいです。500種!!!
1のバイカル オトギリソウも使っているんですって。
「「バイカル」は「ペプシ」の代用品として考案されたが、色以外の共通点はなにもなかった。この「バイカル」は1973年にモスクワで、オトギリソウ、スペインカンゾウの根、モミ精油をベースに作られたが、その味は類を見ないものであった。しかし、製造工程でオトギリソウが大量生産するのには足りないことが分かり、紅茶や、サンザシとナナカマドをミックスしたものが代用されるようになったが、その独特の味が失われることはなかった。」
やや、オトギリソウ、スペインカンゾウの根、モミ(ヨーロッパトウヒだと思う)精油、
オトギリソウが足りないから、紅茶サンザシ、ナナカマド??????
独特の味ーーーそりゃ、そうでしょう。
どんな味か、想像もつきません。
「ロシア・ビヨンド」のソ連時代の特集にはユーモアがあって、おもわずこちらもわらっちゃいます。
私のすきな特集です。
夫に種を渡して育ててもらった黒大根です。
カブじゃない?と思われる方も多いかもしれませんが、葉っぱを見ると大根と同じです。
外は黒ですが、中身は白です。画像一覧。
黒大根は中世ロシアの時代、いえ、それより昔から食べられていたもっとも古い野菜のひとつです。チューリャといって、黒パンを砕き、塩水かクワスに浸して、そこに亜麻仁油などの植物油と黒大根を加えたかんたんな食べ物が農民たちの日常的に、特にほかの野菜がなくなってしまう冬から春、発酵キャベツもなくなってしまう時期に特に食べられたそうです。それで復活祭前の大斎には発酵キャベツもなくなってしまって黒大根だけを食べることになるので、「懴悔野菜」とふざけて呼ばれたんだそうです。今ごろ食べてたってわけですね。
ネットを見ると、蜂蜜入り黒大根というのがよくでてきます。黒大根をくりぬいて、そこに蜂蜜を入れて、30分もおけば、汁が出てきます。これは大昔からの風邪薬です。
(黒)大根は体にいいと、どの説明にもでてきます。そこに(その証拠に)日本人は毎日のように大根を食べていると何度か読みました。日本人は健康で長寿っていうのが、ロシア人の一般的な見方のようですね。
2018年のモルドヴァの新聞記事には―「私たちの祖先は11月18日に黒大根の最後の収穫をしました。たいてい、その日のテーブルにはその野菜が供されました。すりおろしたり、スライスにカットして、植物油、玉ねぎ、塩を添えました。発酵キャベツと混ぜた黒大根が人気がありました。風邪の治療に使いました。」
黒大根というのは辛いんですよ。辛味大根ほどではないようですが。昼に千ぎりにして、サラダにのせたら、夫が「固い、辛い」って。
「ボルシチに入れる」とネットにあったので、やってみました。煮込んでもくずれず、辛くなくなり、ボルシチは当たりでした。画像ですか? 食べちゃいました(笑)
葉っぱはゆでておひたしにしました。くせがなくて、味はふつう。
ダーチャから「せっかく咲いているので」もってきた花です。ツバキとバルカンという品種のモクレンです。バルカンは霜にやられているようです。
今日は例会のはずだったのですが、新型コロナウイルスの関係でいつもの報告は中止で、会誌の校正を広々とした廊下でやってきました。
いつもおやつを焼いてきてくれるⅠさんが、今日は練粉のヒバリを焼いてきてくれました。
今日3月22日はロシアでは2番目の春との出会いの日で、古くから40個のヒバリ(ジャーヴォロンキ)を練粉で焼いて、春に呼びかけました。(前に書いたことがあるので、興味のある方は見てくださいね。)
ロシアでは、去年2019年は140年間の観測史上で一番気温の高い一年だったそうです。それは冬もつづいて、モスクワは雪も少なく、イズマイロフスキー森林公園では平年4月半ば春一番に咲くフキタンポポがもう咲いているとネットにありました。
温暖化が進むと春迎えの行事をする前に春は来てしまいますね。
22日は毎月第4日曜に私が参加しているロシア関連の会でした。
報告はHさん、ストラビンスキーのバレエ音楽『ペトルーシカ』について。
ペトルーシカって古くから縁日の芝居小屋や旅回りの見世物の操り人形や指人形の道化人形のことです。なぜこの人形をペトルーシカと呼ぶのか? パセリはロシア語でペトルーシカで、それとの関連は?といった報告でした。
上↑は、報告者のHさんがモスクワから買ってきて、みなに1袋ず配ってくれた粉末パセリ(袋にペトルーシカってあります)と今日がペトルーシカについての報告と知ってIさんがみなに1個ずつ作ってきてくれたペトルーシカ人形のクッキーです。
バレエ音楽の「ペトルーシカ」の演目(マリインスキー劇場)も見せてもらいました。
例会が終わってから、けっこう強く雨の降るなか日吉駅近くのベトナム料理の店で忘年会。参加者12名。最近若い方が増えてきました。
八王子では雪が降ったらしく今朝庭のリュウノヒゲの上に名残の雪がかすかに残っていました。
うらではムラサキケマンの若葉が煙色に広がっていました。