まいぱん日記

身近なあれこれ、植物のことなど

ブラッシング修行中

2010年07月21日 | ジュリア
ジュリアは1年間シャンプーをしてません。それにしては、においもしないのですが、抜け毛の時期、乾いたタオルで拭いて指で毛をぬくだけでは、どうにも仕方ない状態です。

いやがっても必要最低限のことははじめる時期かもと、ブラッシングに挑戦。

パソコン机の下にいても、今は横から逃げ出せますが、はじめは、顔を見せずに手を伸ばして(母、50肩にしては、最大限がんばる)ブラシをかけたら、意外と平気。
  
そのうち、顔を見せても、まあまあ、大丈夫になりました。
それで体の右半分はできましたが、しっぽにいったら、ぱっと逃げ出しました~。
その間の収穫(?)です↓ フケもないし、見た目ではよごれてもいない、においもしない、下毛だけのかたまりです。

 


でも、それ以後、ブラシをかけられそうな気配になると、逃げ出すようになってしまいました


今晩は、ベッドにいるジュリアの頭を軽くブラシでなでられるまではすぐでしたが、体になると手の届かないテーブルの向こうにいってしまいます。

でも「ジュリア、ブラシっ!」と何度かいうと、仕方ないかって戻ってきて、ベッドに横になっては、ブラシが体にいくと、また逃げるの繰り返し。

ちょっとがまんできたときは、うんとほめて、小さなおやつのごほうび。

まだ胸あたりまでで逃げてしまいますが、こちらも忙しいので、30分ほどで終了。

気が進まなくても、呼ぶと自分からベッドにくるようになったのはえらいでしょ。
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西村よし子さんのこと

2010年07月17日 | 全体

もう50年以上前の中学生のころ、京都の亀岡市にある児童養護施設の小学生の兄弟と文通をしていました。
修学旅行で京都にいったとき、宿に先生と一緒に会いに来てくれたのがきっかけで、クラスメートたちと施設のほかの子たちとの文通も始まりました。そのなかのひとりがわたしたちがよしべえと呼んでいた西村よし子さんでした。

夏休みに亀岡まで数名で出かけて、けっこう長く泊めていただいたことも何度かあります。施設は前に田んぼが広がり、後ろはすぐ山という、のどかな場所にある龍譚寺という禅寺で、施設は戦災孤児や親に捨てられた子たちのために住職が自費で始められたのだそうです。

高校1年の夏休み、歴史部が高校教師を対象とする明日香村の研修に参加すると聞きつけたわたしは、部員でもないのに厚顔にも頼み込んで、よしべえとふたりで研修旅行のメンバーにもぐりこみました。
知る人ぞ知る奈良市内の日吉館を定宿に、朝には近くの東大寺をふたりでお喋りしながら散歩するのが日課になりました。朝露に濡れた生い茂る草の向こうから鹿たちがじっとこちらを見ている風景に映画の『わが青春のマリアンヌ』(古い!!)を気どったり、なんでもないことに笑いころげたり、時に真剣な話を交わしたり、よしべえと過ごした奈良は今でもいい思い出です。

当時はまだ高松塚古墳が発見される前で、明日香の石舞台、亀石、猿石など、飛鳥寺、橘寺などをまわり、はなれた浄瑠璃寺で秘仏を見せていただいたりしたあと、奈良市をはなれ、
最後は女人高野の室生寺に行き、お寺に宿泊しました。
ここで東京に帰る歴史部のひとたちと別れ、よしべえとふたり列車を乗り継いで、京都に出てから亀岡に向かいました。当時山陰線は蒸気機関車で、トンネルに入るごとに窓をしめるのですが、列車の中は煙でいっぱい。そんな時代でした。

            

            中学3年5月(1957)

最近、彼女の文通相手だった京子ちゃんから西村さんの連絡先を教えてほしいと頼まれました。

クラス会名簿に彼女の住所は不明とあり、いつもどうしたかな?と頭の隅にはありましたが、真剣に探すこともなく過ごしていたのですが、京子ちゃんに返事をするためにネットで検索してみたら、消息が・・・・

よしべえは、2004年すでに亡くなっていました。
そして、生前にはファッションデザイナーの世界である程度の成功を収めていたのです。


「NHK出版」のサイトにあった彼女のプロフィールです。

 西村よし子 Yoshiko Nisimura

 ファッションデザイナー。アパレルメーカーのデザイナーを経て、現在アジアの手仕事を
 独自のセンスでアレンジしたラインナップがユニークなブランド「点々-Ten Ten」主宰。
 東南アジア各国をめぐって自分の目で素材から厳選し、現地の確かな手仕事の技術との
 協業によってクオリティーの高い商品作りを続ける。バレエダンサーにアオザイ風の作品
 を着せ、ロンドンの美術館で行ったショーもファッション関係者の注目を浴びた。


          

           前列一番右が西村よし子さん
           高校時代のままのよしべえです

  (写真は、こぐれひでこのごはん日記からお借りしました。)



浅草の彼女の家にはよく遊びにいって、泊らせてもらい、彼女もうちに泊りにきました。
黒塀に囲まれ、入り口の木戸そばには見越しの松ならぬしだれ柳の植えられた粋な彼女の家は、わたしの家とは生活のレベルがちがっていました。ガス湯沸し器や最新式のお風呂・・・・ ウィンナソーセージを初めて食べたのも彼女の家でした。

遊びにいっただけではなく、試験の前日に泊り込みで一緒に勉強したこともあります。
もう充分という彼女にもうちょっと、もう一度と時間を延ばして、こんなに勉強したのは初めてと言われました。勉強家でないわたしにこんな言葉を言ってくれたのは、よしべえが最初で最後です。

彼女の家庭は少々複雑で、思春期の彼女はずい分と悩んでいましたが、人生経験のない苦労知らずのわたしはただ聞き役になることしかできませんでした。

高校を卒業して、彼女は文化服装学院に進み、卒業後はコシノジュンコさんの元で仕事をするようになりました。
そのころはミニスカート全盛期でしたが、彼女は仮装パーティにロングスカートをはいて、髪型はつけ毛でお下げを垂らして行こうかなと話していたのが、今も記憶に残っています。


その後、テレビに出たとか、乃木坂で『人魚姫』というアトリエ兼ブティックを開いたと、ひとづてにきくことはありましたが、自分の生活に忙しいわたしはだんだん彼女とは疎遠になって、40数年が過ぎてしまっていたのです。


偉ぶらず、ひとのことをあれこれ言わず、下町っこらしく気さくだったけれど、心の奥はとても繊細だったよしべえ。彼女がいないと思うと、さみしくてなりません。
でも、自分が望んだ世界で彼女らしい活躍ができたこと、これはわたしにとって大きな慰めです。


亀岡に一緒に行っていたクラスメートの宇野美智子さんも数年前に亡くなりました。わたしが文通していた兄弟の弟の方、英章ちゃんも兄との連絡が途絶えたあと、ずっとたって亡くなっていたことが分かったとか。

兄の英作ちゃんは律儀にお中元やお歳暮をずーっとかかさずに送ってくれて、たまに電話でお喋りをする、そんな関係が今もつづいています。
恵まれない環境から人生をスタートさせた彼は関わってきたひとたちを大事に、見返りを求めずに尽くし、あたたかな人柄で相手から信頼され、いい人生を歩んでるなーっていつも感心します。その彼ももう60歳近くなったのだそうです。

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手を伸ばせば

2010年07月08日 | ジュリア
ジュリアは写真がきらいで、デジカメの電源を入れるだけで気づいて、撮れない場所に移動してしまいます。
それで写真に撮れないのが残念ですが(と言い訳)、最近手を伸ばすとジュリアが寄ってきて、そばに立っていることが多くなりました。

前に「ブラッシングに励んでます」って書いたことがありますが、すぐにブラシをもっただけで逃げるようになってしまい、仕方がないので、手で頭をなでたり、耳の下の方をごりごりしてあげていたら、それが大、大、大好きになった様子
椅子の背に片手をのせていると、いつの間にかなでてほしくて、そばにきていることもよくあります。


頭をなでてあげていると、体の浮き上がっている毛束が気になって、それをつまむとすっと抜けるので、おもしろくて熱中してしまいます。まあ、抜けること抜けること。

初め、3回以上やると逃げていたジュリアも最近はだんだん慣れてきたみたいです。

タオルで体をごしごしするのも平気になってきました。

だけど、リードや首輪をしようとすると、素早く逃げ、それでもしつこくしようとすると唸ります
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