教育改革の論議は常に性急すぎる。
わが国の戦後教育の歴史をみると,
常にある教育方針の結果が現れる前に
その教育方針に反対する声高な批判によって
教育方針の修正がはかられてきたのである。
そのことが,わが国の戦後教育を迷走させたのである。
わが国の戦後教育の歴史をみれば,
「学力低下批判」と「詰め込み批判」が
交互にあらわれていることがわかる。
つねに正反対の方向へゆれる学習指導要領に
いちばん翻弄されてきたのは,
教育現場である。
私立学校の教育に注目が集っているようだが,
そのひとつの理由は,
私立学校は公立学校に比べて
教育行政の影響を受けにくい構造になっており,
その点,自分の学校独自の教育を
練り上げることができたということにあろう。
ともあれ,性急な教育改革は,
批判者の溜飲をさげることにはなっても,
冷静に見た場合,教育効果は薄いのである。
教育においては,
「うまくいかないから変える」のではなく,
「うまくいかないけれど,このままやってみる」ことが
大切なのである。
なぜなら,
急に変えることは,
変えないことより,たちが悪いからである。
それに,「変える」のは,
「変えたくてたまらない」人がいるからであり,
多くの場合,その人は教育現場の人間ではない。
また,変えてうまくいく保証はどこにもないのである。
短期的にはよくなったようにみえても,
長期的にデメリットが生ずることのほうがむしろ多い。
教育現場では,制度をいじらなくても
個々の教師レベルで,漸次改善がはかられていくものである。
ほんとうは,これが真の教育改革なのである。
すなわち,教育改革は,現場の自浄作用によって
常に行われているのである。
この自浄作用の働かないような学校は,
やがて自然に淘汰されるので,
わざわざ外から教育改革をするなどというのは,
むしろ根本の問題を先送りするだけである。
真の教育改革は,緩やかな変化として現れるべきである。
今,いわゆる教育改革を拒否することこそ,
もっともラディカルな教育改革なのである。
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わが国の戦後教育の歴史をみると,
常にある教育方針の結果が現れる前に
その教育方針に反対する声高な批判によって
教育方針の修正がはかられてきたのである。
そのことが,わが国の戦後教育を迷走させたのである。
わが国の戦後教育の歴史をみれば,
「学力低下批判」と「詰め込み批判」が
交互にあらわれていることがわかる。
つねに正反対の方向へゆれる学習指導要領に
いちばん翻弄されてきたのは,
教育現場である。
私立学校の教育に注目が集っているようだが,
そのひとつの理由は,
私立学校は公立学校に比べて
教育行政の影響を受けにくい構造になっており,
その点,自分の学校独自の教育を
練り上げることができたということにあろう。
ともあれ,性急な教育改革は,
批判者の溜飲をさげることにはなっても,
冷静に見た場合,教育効果は薄いのである。
教育においては,
「うまくいかないから変える」のではなく,
「うまくいかないけれど,このままやってみる」ことが
大切なのである。
なぜなら,
急に変えることは,
変えないことより,たちが悪いからである。
それに,「変える」のは,
「変えたくてたまらない」人がいるからであり,
多くの場合,その人は教育現場の人間ではない。
また,変えてうまくいく保証はどこにもないのである。
短期的にはよくなったようにみえても,
長期的にデメリットが生ずることのほうがむしろ多い。
教育現場では,制度をいじらなくても
個々の教師レベルで,漸次改善がはかられていくものである。
ほんとうは,これが真の教育改革なのである。
すなわち,教育改革は,現場の自浄作用によって
常に行われているのである。
この自浄作用の働かないような学校は,
やがて自然に淘汰されるので,
わざわざ外から教育改革をするなどというのは,
むしろ根本の問題を先送りするだけである。
真の教育改革は,緩やかな変化として現れるべきである。
今,いわゆる教育改革を拒否することこそ,
もっともラディカルな教育改革なのである。
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「教育改革は,現場の自浄作用によって
常に行われているのである。この自浄作用の働かないような学校は,やがて自然に淘汰されるので」
僕は、この文章を見てこの方は学校関係者ではないなと思いました(笑)。私の学校は単位制です。あまり大きな声ではいえませんが、授業選択制をとっています。そうすると、5人とか、3人とかしか集まらない方や、教科がでてきます。全部で教えている数が40人とか(笑)、でもって、ホント、ハタからみていても相当落ちているという教員がいるんです。しかし、来月の給料にそれは反映しません。そして、そういう人がでかい声で会議で発言したりするのです。生徒も困っている。セクハラ教員だ、って人も生徒が選んでないことを気付かず、威張っています。ろうかでうんこしても何のおとがめもなく、夜の闇、つまり夜の定時制に島流しってケースもやたらとあります。どうでもいい、と県がふんだ学校にも相当いるんですね(笑)。つまり、公的な学校で(実は私立は僕の見る限り私立という顔をしてますが、公的補助をかなりうけている私立は???なんですけど)、自浄作用はいったいどうやったら機能するのか、僕にはわからないですね。いま、静岡県で言うと大体教員の平均年齢が40後半です。壮絶な40代前半の洟たれ(笑)へ仕事を押し付けています。
だから、お書きになられたような
「つねに正反対の方向へゆれる学習指導要領に
いちばん翻弄されてきたのは,
教育現場である。」
はまちがいのようにおもえてなりません。かつて関東軍という軍隊がこの国にありました。ま、いろいろあるかもしれませんが作家の猪瀬直樹がいみじくもいっていたように、軍隊はファシズムではない、むしろ統治の中心が崩壊していく過程こそが、日本の戦前ファシズムだったと書いていますが、僕はその感じが現場感覚として強いですね。まったく現場には上の議論は無風です。1950年代に完成されたいわゆる1940年体制がそのまま残っている、そう考えた方がいいと思えます。そのなかで生徒にたいしどういう教育を・・などということ本位の体制がまったく機能していない。自浄作用が不能という問題だ、と。したがって、何が自浄作用を促進するのか、それをお尋ねしたいですね。学校は頑として中根千枝の『タテ社会の人間関係』をはみでていない。
は、その通りだと思います。
ただ、やはりそのためには、もっと教員が研究に貪欲になるべきだと思うし、そのためのサポートが必要だと思います。
(これは逆の仮定ですが、末端公務員としての教員に、これ以上教育と直接関わりのない施策を増やすのであれば、教育の質を下げる議論をするべきだと思います)
東京都では研究員制度をやめ、研修員制度のようなものに切り替えます。
トップダウンをやりやすいカタにはめた組織作り、それを管理するヒエラルキーの構築にばかり力が入っているのが現在の東京都です。
研究も、それを下支えすることが前提になっているような雰囲気です。
今、「学力低下批判」と「詰め込み批判」のオルタネイティブの関係でなく、教育の理念の存続さえ危惧されそうな経済状況のゆらぎやイデオロギーのゆらぎを感じます。
最近、私がとみに思うのは、なぜ「教育改革」なのか?です。
根源的な答えを未だかつて納得して聞いた事がありません。
また、指導要領改訂にあたって、ミスリードした文科省の責任はどこにいったのでしょう。と感じています。
個々の教師の努力やそれに伴う自浄作用,私は常日頃実感しているのですが,それが不可能な現場もあるのだなと読ませていただきながら思いました。
「これ以上教育と直接関わりのない施策を増やすのであれば、教育の質を下げる議論をするべきだと思います」
「教育の理念の存続さえ危惧されそうな経済状況のゆらぎやイデオロギーのゆらぎを感じます」
まさにおっしゃるとおりだと思います。
いったい「教育改革」は,教育をどうしたいのでしょうか? 疑問です。