とかく教師の資質が問題になるときに,
「マネジメント能力」とか「コミュニケーション能力」とか,
「対人関係能力」とかが問題視されがちである。
もちろん,それらも大切なことではあるが,
それ以上に,教師の知的水準を上げることの方が
いまや急務であるような気がする。
教師が教師たる所以を,
原点にさかのぼって考えてみると,
教師は,
生徒にないものをもっているということに
尽きると思う。
いま我々教師は,
生徒にないものを本当に持っているであろうか?
まずは何をさておいても,
正確な知識,該博な知識をわが身に蓄えることが
何よりも大切である。
それも,
マネジメントやコミュニケーションスキルといった
いま流行りの周辺部分の知識ではなく,
中心部分のみずからが担当する教科そのものの知識の豊かさが
まず教師の知的水準の源となる。
もう一度,勉強しなおす必要がありそうである。
「マネジメント能力」とか「コミュニケーション能力」とか,
「対人関係能力」とかが問題視されがちである。
もちろん,それらも大切なことではあるが,
それ以上に,教師の知的水準を上げることの方が
いまや急務であるような気がする。
教師が教師たる所以を,
原点にさかのぼって考えてみると,
教師は,
生徒にないものをもっているということに
尽きると思う。
いま我々教師は,
生徒にないものを本当に持っているであろうか?
まずは何をさておいても,
正確な知識,該博な知識をわが身に蓄えることが
何よりも大切である。
それも,
マネジメントやコミュニケーションスキルといった
いま流行りの周辺部分の知識ではなく,
中心部分のみずからが担当する教科そのものの知識の豊かさが
まず教師の知的水準の源となる。
もう一度,勉強しなおす必要がありそうである。
単位が取れないと進級・卒業できなくなって困る高校生や大学生のように,教師たちも試験にパスしないと免許を失うというのが最も強力な「動機付け」になってしまうのでしょうか。
学習指導要領が求めている教育はともかく,教師の資質・能力については,「知識をどう活用できるか」「知識を子どもにどう活用させることができるか」が問われるレベルでの存在でありたいものです。
教師に求められている資質・能力は,試験で簡単に測定できてしまうような「専門的知識」ではなく,「職業的な智恵」にあることを記事にしたことがありました。
なぜ「知識」が劣化していくのかと言えば,それが「使えない知識」だからでしょう。役に立たない知識がいくら十分にあったとしても,「活用する」という職業的な智恵がないタイプの人は,研究室にこもって本を読んでいてもらっていた方がよいのでは?
「活用力」は「周辺」ではなく,「知識」と両輪になるものです。
「知識」に対する批判力がすなわち,「職業的な智恵」だということを申し上げたかったのですが・・・。
最近、ハウツーを活用だとする人(特に教員)に多く出会う気がします。
つまみ食い的な知識が多く、知識面でも、活用面でも追究の視点が弱い気がします。
>いま流行りの周辺部分の知識ではなく,
>中心部分のみずからが担当する教科そのものの知識の豊かさ
という部分に、個人的に実感を覚えます。
教材においても、その教材に対する教師としての自分の観点が弱いとダメなわけで、そうならいためには、教材に対する確かな知識が求められるのだと思います。
それは自分の中に落とし込んで理解できるから活用できるので、つまみ食いできるものではないです。
そのときに、自分の知識というのは、当然、他者との関わりにおいて自己批判されていることが揺るがない条件になると思います。
知識の血肉化といいかえてもいいかと思います。
そんなことを連想しました。
失礼しました。