高層化した人間ピラミッドや人間タワーの事故の問題が話題になっている。
この問題は,現代の学校の病理を端的に表しているように思う。「感動」や「達成感」といったものを,教育の目的であるかのように言うようになったのは一体いつのころからだろうか。私が教員を始めた30年前には,少なくとも「感動」や「達成感」を目的にして教育するなどということは考えもつかなかった。いかに教育内容を子供に伝えていくか,子供が理解できたり,課題を乗り越えたりできるかということを,知的,科学的,経験的見地から追求していくのが教師だと考えていた。いつの間にか,時代は変わってしまったようだ。しかも,「感動」は子供の感動だけでなく,運動会を見に来た保護者の感動のためでもあるという。ほとほとあきれかえる。見ている者の感動などを目的とするならば,それは運動会ではなく,サーカスか曲芸か猿回しである。
しかも,組体操を完成させて,教師まで感動するという。さらにあきれてしまう。子どものやったことなどに,プロの教師なら感動などしないのである。常に冷静に子どもを見ているのがプロの教師である。教師が感動してしまっては,子どもの事実が見えなくなってしまう。外科医ならば,手術の成功にいちいち感動などしないだろう。弁護士ならば,訴訟に勝ったことにいちいち感動などしないだろう。子どもの成功に感動している教師など,プロ意識に欠けるのである。
そもそも,「感動」や「達成感」は,子どものものである。そして,感動や達成感を感じるも感じないも,子どもの自由であり,教師がコントロールできるものではない。加えて,教師が自らの教育実践に,「感動」や「達成感」を感じているならば,だいたいにおいてその教育実践は失敗なのである。私は,若いころにその点で過ちを犯した。ある行事の終わった時に,私はとても達成感を感じたのである。しかし,傍らの子供を見ると達成感を感じている様子がない。よくよく考えてみると,私は,子どものやるべきことを自分でやってしまっていたのである。その反省を胸に次の年の行事を迎えた。私は,達成感を感じなかった。傍らの子供は達成感を感じていたようだ。子ども自身が考えて子ども自身が成し遂げたからである。教師が,もし達成感を感じたとしたら,その教育実践にはどこかに間違いがある。私は,そう自分に言い聞かせている。教師が達成感を感じるのは,子どものためにではなく,自分のためにその実践がなされた証拠だからである。
この問題は,現代の学校の病理を端的に表しているように思う。「感動」や「達成感」といったものを,教育の目的であるかのように言うようになったのは一体いつのころからだろうか。私が教員を始めた30年前には,少なくとも「感動」や「達成感」を目的にして教育するなどということは考えもつかなかった。いかに教育内容を子供に伝えていくか,子供が理解できたり,課題を乗り越えたりできるかということを,知的,科学的,経験的見地から追求していくのが教師だと考えていた。いつの間にか,時代は変わってしまったようだ。しかも,「感動」は子供の感動だけでなく,運動会を見に来た保護者の感動のためでもあるという。ほとほとあきれかえる。見ている者の感動などを目的とするならば,それは運動会ではなく,サーカスか曲芸か猿回しである。
しかも,組体操を完成させて,教師まで感動するという。さらにあきれてしまう。子どものやったことなどに,プロの教師なら感動などしないのである。常に冷静に子どもを見ているのがプロの教師である。教師が感動してしまっては,子どもの事実が見えなくなってしまう。外科医ならば,手術の成功にいちいち感動などしないだろう。弁護士ならば,訴訟に勝ったことにいちいち感動などしないだろう。子どもの成功に感動している教師など,プロ意識に欠けるのである。
そもそも,「感動」や「達成感」は,子どものものである。そして,感動や達成感を感じるも感じないも,子どもの自由であり,教師がコントロールできるものではない。加えて,教師が自らの教育実践に,「感動」や「達成感」を感じているならば,だいたいにおいてその教育実践は失敗なのである。私は,若いころにその点で過ちを犯した。ある行事の終わった時に,私はとても達成感を感じたのである。しかし,傍らの子供を見ると達成感を感じている様子がない。よくよく考えてみると,私は,子どものやるべきことを自分でやってしまっていたのである。その反省を胸に次の年の行事を迎えた。私は,達成感を感じなかった。傍らの子供は達成感を感じていたようだ。子ども自身が考えて子ども自身が成し遂げたからである。教師が,もし達成感を感じたとしたら,その教育実践にはどこかに間違いがある。私は,そう自分に言い聞かせている。教師が達成感を感じるのは,子どものためにではなく,自分のためにその実践がなされた証拠だからである。
でもコメントさせてください。以前書いたかもしれませんが、私の妻は私が30の時の長女、34の時の長男を出産しました。子育てはほとんど妻に任せていました。病気とか怪我とか、受験とか、塾選びとか、バドの練習相手とかなどは二人でしましたが、意思決定は主に私の担当でした。
娘と息子とも、小学校1年生の時の運動会に二人で見に行きました。我が家としては二人そろっては珍しいことでした。とても元気に駆けっこやダンスをしていたのを微かに覚えています。私にとっては子供たちが元気なら何でもいいのです。
もう一度ずつ6年生の時だったと思いますが、父兄参加の競技があり、運動会に参加したのです。走るのは得意だったので、娘も息子も期待していたようです。
娘の競技は手を繋いでまず走り、折り返しから二人三脚でした。何と手拭いが短くてすぐ結べずダントツのぺけになってしまったのです。私が結び役だったから家の皆に怒られてしまいました。
息子の時はおんぶして折り返しを走る競技だったようです。これならダントツのトップになってやると息子に行いいました。
そして当日になり、妻は先に、私はちょうどと思える時刻に小学校に行きました。ところがもうその競技は終了していたのです。時刻を間違えたのです。またもや家中に怒られてしまいました。
部活では市の大会や区のバド大会で二人とも中高と優勝したようですが、一度も応援に行ったことはありません。子供もそれぞれの人生があり、人は個が大事だと言って聞かせていたので、二人とも応援など真っ平ごめんと言う性格に育ったようです。
とても自立心の強い子供になったのは運動会で全くあてにできない父親であることを知ったことも理由の一つだと思えます。
再度、ありがとうございます。
おっしゃるとおりですね。
私は「達成感」は跳び箱の踏み込み板のようなものだと思ってます。
達成感そのものが目的ではなく、達成感を得ることで、次の大きな何かに向かっていける、そんな原動力と語ってます。
なんだかんだ、違和感ばかりの毎日です。