学校教育を考える

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学校では児童生徒は「主体的」ではあり得ない

2018-08-25 | 教育

言葉は正確に用いるべきだと思うのだが、学校で児童生徒が「主体的」に学ぶというようなことがあり得るのだろうか。

定められた教育課程を定められた仕方で、自分が選んだわけでもない教員に教えられている児童生徒が主体的であるはずはないのである。たとえば、アクティブ・ラーニングなどで、自ら「主体的」に発言することを求められ、それに応えて児童生徒が「主体的」に活動したとしても、それを主体的と呼んでよいのだろうか。これは、「主体的」であることを強いられているに過ぎないので、単に形を変えた強制である。これは、「主体的」などというよりも、せいぜい積極的という程度のことであろう。

もし、自ら進んで強制されたことに積極的に従っていくことを「主体的」と呼んでいるとしたら、とても恐ろしいことである。非常に巧妙な管理体制であると言わざるを得ない。

学校は、「強制」の場である。そのことを、はっきり教職員も児童生徒も明確に自覚すべきである。そして、その「強制」は何のためかというと、将来、主体的な大人として行動するための糧を与えるためなのである。だから、詰め込み教育批判などはナンセンスであって、もし、その詰め込まれた内容が将来、大人として主体的に判断するための何らかの糧となっているのならば、教育の実はあがったというべきなのである。

現在、喧伝されている「主体的」な学習が、果たして、主体的な大人になるための糧となっているだろうか。そのことをこそ、考えなければならないのである。

 

 



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