素質と教育の問題は,古代ギリシアの昔から
議論し続けられてきた問題である。
人為にすぎない教育が,自然がその人に与えた素質を
果たして超えることができるのかという問題である。
素質があっても教育がなければ,
その素質が花開かないばかりか,
その素質ゆえの害毒が,
素質のない場合に比べて
大きくなる可能性もある。
素質がなくても教育があれば,
そして,その人がひたすらに努力を重ねれば,
素質のある者が努力した場合にはかなわないとしても,
その人自身としてみれば,着実に進歩を遂げる。
自然を人為が超えることができるかどうかについては,
さまざまな見解があるにしても,
少なくとも,
教育が万能であるということはなさそうである。
つまり,
「誰にでも無限の可能性がある」,
「全ての子どもに高い学力を」というようなことを
何の留保条件もつけずに言うことは,
単なるスローガンに過ぎず,
何ら実質的な意味はないのである。
その意味で,
このようなことを教育関係者が言うことは,
はなはだ無責任だと言わざるを得ない。
議論し続けられてきた問題である。
人為にすぎない教育が,自然がその人に与えた素質を
果たして超えることができるのかという問題である。
素質があっても教育がなければ,
その素質が花開かないばかりか,
その素質ゆえの害毒が,
素質のない場合に比べて
大きくなる可能性もある。
素質がなくても教育があれば,
そして,その人がひたすらに努力を重ねれば,
素質のある者が努力した場合にはかなわないとしても,
その人自身としてみれば,着実に進歩を遂げる。
自然を人為が超えることができるかどうかについては,
さまざまな見解があるにしても,
少なくとも,
教育が万能であるということはなさそうである。
つまり,
「誰にでも無限の可能性がある」,
「全ての子どもに高い学力を」というようなことを
何の留保条件もつけずに言うことは,
単なるスローガンに過ぎず,
何ら実質的な意味はないのである。
その意味で,
このようなことを教育関係者が言うことは,
はなはだ無責任だと言わざるを得ない。
「全ての子どもに高い学力を」
ではなく、
「全ての子どもにおおむね満足といえる学力を」
という「スローガン」ならどうでしょう。
同じことでしょうか。