LINEN GYOZA 近況日記

十年たちました…

17年前同室だった人

2015-05-27 11:44:15 | 1998乳がん はじまり
さっき、診察の友人に会うため病院へ行った時、ふと目があった女の人。

はて、どこかで会ったことがあるような・・・???

時間にしたらほんの数秒だけど、頭の中がめまぐるしく動いて、そして思い出しました。17年前に乳がん手術のために入院した時、同室だった胃がんの人です!(当時のことはコチラへ)

かろうじて苗字を覚えていたので、声をかけてみると、まずはギョッとされましたね笑  それからベンチに座って、これまでの話など聞きあいました。その方はその後がんとは無縁でしたが、「胃を切っているせいで、癒着がおき易く、腸閉塞などで8回入院手術を受けた」とのことでした。よく安易に‘切ったら治る’なんて言うのを聞きますが、大間違いです。大変だなぁと思いました。

最近やたらと偶然知人に会うことが続いています。次はだれに会えるかな?

放射線治療の頃

2007-12-18 10:58:51 | 1998乳がん はじまり
 これ、去年も載せた クリスマス人形です。
今年はしなこさん作成のツリーも加わりました

 さて、久しぶりに最初の手術のあとの話をします。
昨日会った病友が年末は28日、年始は4日から病院だ、とぼやいてるのを
聞き、そういえば私も放射線の時はそうだったな、と思い出したのです。

 '98の11月上旬に温存手術をして、12月から放射線の照射を25回受けました。
再発を防ぐのが目的です。月から金曜まで週5日を5週、通院するの。

 実はこれに関してはあんまり良い思い出がない。
特に嫌なことがあった訳じゃないんだけど、何て言うか陰気でうっそうとしてて、
たぶんこれは病院の放射線科の場所のせいではないかと思うのよね

 数年前に全面建替えを終えた病院は当時はまだ工事中で、放射線科なんか
古~くって、暗~くって、照射中も重々しい機械に囲まれてて、そして、
これも大きいと思うんだけど、女性のスタッフが皆無(受付にはいた)でした。

 前の月、入院していた頃は大勢の看護師さんが優しくあれこれと
気遣ってくれてたのに、ここでは固いガラス面みたいなのの上に一人で寝転がって
照射場所がずれないようにジーッと動かずに10何分間か忘れたけど静止する。

 医師だか技師は隣室でチェックしてるので、照射する部屋には私一人。
賑やかな病院の中に、こんなに静寂に包まれた場所があるとは…ってほど
そこは静かでした。

 今年の夏、珍しく娘たちとプールに行ったなぁ、とか
秋には蒜山や境港に行ったなぁ、とか何故か家族で出掛けた楽しい記憶が
断片的に思い出されるのでした。たぶん精神的にも暗くなる時間でした。

 
 さて、今年、病友に案内されて現在の放射線照射の場所を見に行きました。
唖然とするほど明るくてきれい
いいなぁ~
うらやましいなぁ~  ちぇっ


 痛くもかゆくもならない放射線治療はたいした副作用も無いと言われています。
でも私はそれを過信したため、お正月にちょっと車で遠出をしてひどい腰痛を
起こしてしまいました。やはり治療中は大人しくしておくことです。

 


-8- 術後②

2006-12-21 10:54:48 | 1998乳がん はじまり
 いつも台所で手を拭くのはてぬぐいにしてます。今はこれ。かわいいでしょ。
てぬぐいの柄になるとサンタクロースのポップさが程よく中和されて、手を拭くたびにな気分。

 さて、ダラダラ書くからまだ昔話が終わりません。
いつもパソコンの前で、おばあさんが「そうさなぁ~」とか言いながら話を思い出すかのように宙をにらむ。
    ~・~・~・~・~・~・~・~

 術後、胸の傷跡を見ることはないままでした。傷口消毒の時も横になってるから見えないし、お風呂には入らないし、でも、寝たり起きたりする時はとても痛かった。いきなり横にはなれず電動ベッドの頭部を起こしてから横たわり、またリモコンで水平にしてた。

 ぼんやりしてたら回復が遅れそうな気がしたので、翌日からよく歩いてました。
私の場合、退院後の通院時に近所の人に会う確率が高いと思ったので、不自然に見えないようなバッグの持ち方はどうだ、とか廊下で実際に手提げ袋など持って歩いてみました。

 そうそう、右腕が、腋下リンパ節切除のために上がらなかったんだ。
術後2日目か3日目に看護師さんがリハビリのやり方の紙を持ってきてくれて、
簡単な腕の運動とかがイラストで書いてあったのでやってみたらできなかった。
「えーっ、こんな動きができないなんて」と青ざめたけど、続けるうちに少しずつ出来るようになっていった。でも、『自分の髪を櫛でとく』なんてのは難易度が高かったですね。

 何日目だったか忘れたけど、個室を出て4人部屋に移った。個室は寂しかったのでほっとした。
しかも、この4人部屋での数日間は、私のこれまでの病院ライフの中では群を抜いて楽しかったのですよ。

 部屋のメンバーは、50代胃がん、40代卵巣がん、20代卵巣膿胞、そこへ30代の私が加わりました。

 間仕切りのカーテンを開け放ち、朝から晩まで喋り続けた。話題は、主治医自慢、看護師さんの品定め、ごはんのおかず、自分のこれまでの経緯、などなどきりがなく、「真ん中にこたつでもあったらいいのにねぇ」とよく言ってたものです。

 20代卵巣膿胞は病名こそ「がん」が付かないけど一番弱音吐きでした。
「私がナースコールして痛い痛いというたびに、術後すぐリハビリに取り組んだ乳がんの人を見習えってさんざん言われたけど、それって奈津子さんのことだったんかぁ」とうらめしそうに言われました。エッヘン!でも、その後どんどん回復に向かった彼女は私のリハビリの良き相棒となり、2人で院内探検に出掛けたり、腕が上がらない私の頭を洗ってくれたりして、とてもお世話になりました。

 50代胃がんの夫が見舞いに来たとき、私を見て、「あの人、なんで寝巻着ておるんや?」と奥さんに聞いたそうです。よっぽど元気そうに見えたんだろうな私。

 40代卵巣がんは3人の子持ちで、一番下がうちの長女と同学年だったので、よく学校の話とかした。ちょうどその年はうちの子の行ってた小学校が超・超・荒廃してたので熱く語り合ったような記憶がある。

 そんなに盛り上がった割には誰ともその後会ってない。どうしているだろう。
三人とも元気でいると思いたいです。

 それと、ドラマ『愛していると言ってくれ』ですが、その後大相撲九州場所なんか始まっちゃって、毎夕場所取りや交渉でたいへんでした。

 そんなこんなで楽しく過ごし、術後1週間後には予定通り退院した。
さらにその1週後に抜鋼(ばっこう、って読む。抜糸じゃなくはがねを抜くの。)
骨シンチっていう骨のレントゲン写真みたいなのを撮る検査をして、12月から1月にかけて25回だったかな、放射線を照射。これにはちょっと体力減退でした。

 転移とか再発とか無かったら、あとは定期的に通院するだけだったんだよな。
乳がんの自己検査法とか知っておいて、早めに見つかれば予後も良いらしい(私のことは例外だと思ってね!)ので、
毎月自分でチェックしてください。おかしいな、と思ったら、婦人科じゃないよ外科へ行きましょう。
一応、これでこの項終了

-7- 術後①

2006-12-13 13:44:54 | 1998乳がん はじまり
 手術翌朝。
明るくなるまで本当に長かった気がした。時計が見えず、今何時なのかわからなくて
明けない夜もあるんじゃないかと怪しんでたら朝が、来た。
でも、こういう夜はよくあることだと今年分かりました。

 さて、あらためて見てみると、私の体は数本の管に繫がれてました。
そして、右胸は白い布で被われていて、麻酔が切れてるからちょっと動いても
少し痛みがあって、ホントに切ったんだなぁと思った。

 看護師さんが来て、検温とか管の様子をチェック。管のうちの1本は尿を
取ってたもので、それを外して歩いてトイレに行くよう言われた。

 内臓を切る手術じゃなかったからか想像するよりずっとラクに歩けた。
ただし、キャスター付き点滴を押して、肩からは体内から出る膿?分泌物?を受ける
管(ドレーンと言います)付きの箱をポシェット掛けしてて結構物々しい感じ。

 食欲もあった。トイレにもふつうに行ける。

 となると、手術って言ったってまるで怪我みたいなもんだよな~(気楽でしたね。)

 あとは日にち薬かしらぁ(ホントに気楽でした。)

 そんな軽い気持ちと、がんという言葉の重みのアンバランスさにとまどってました。

 その頃は、ドレーンがうっとおしくて嫌だった。
時々看護師さんがドレーンの管を器具ではさんでしごくんだけど、2回に1回は
体に鋭い痛みが伝わってくるので、そのドレーンしごきのたびにギャーギャー言ってたような気がする。

 午後から来た母は元気そうな様子を見てびっくりしてた。

 夕方には念願の『愛していると言ってくれ』を見ることができました。

 娘たちも下校後お見舞いに来てくれたけど、
その夜はおじいちゃんおばあちゃんとごはんを食べるのが嬉しくて、みんなで帰っていきました。
小学生の2人が寂しそうにしてなかったのはとても救いでした。

 次の夜、消灯後に見回りに来た看護師さんが体調など二言三言たずねたあと、
「こんなしんどいこと知らずに済む人も大勢いるのになぁ」と小さく声をかけてくれました。

 私だけが不幸な目にあってるんじゃないし、そのときも全然そんなふうに考えてなかったけど、それでもその看護師さんにそう言われると「優しいなぁ」とジーンとしてしまいました。

-6- 手術当日

2006-12-10 20:59:59 | 1998乳がん はじまり
 師走じゃ師走じゃ、大掃除じゃ、この昔話も早く終えねば年を越せない~
なので、サクッと手術日のこと書こう。

  -

 でも、実は手術日のことってそんなに詳しく覚えてないような…
たぶん絶食のまま、手術は午後からで、昼ごろから夫や母や義姉が来てくれてたと思う。
ストレッチャー(あの、人が寝たまま運ばれるワゴンですよ)に乗って手術室へ。

 看護師さんが見送りの家族に対して「はい、行ってきます」と言ったので皆も
「行ってらっしゃい」とか「がんばってね」とか言いながら手を振ってた。
私がその時どう思ってたかと言うと、まず、照れくさかった。だってさぁ、まるで
ドラマみたいでしょ。ま、非日常感タップリです。

 手術室の自動ドアのなかは先日の告知を受けた手術室とは全然違うように思った。さらに中に入る前、少し待ち時間があり、看護師さんに「今、どんな気持ち?」と聞かれた。私が「まな板の上の鯉」って答えると「そう言える人は本当に少ないんですよ」と言われ、なんか、そんな時でも褒められるって嬉しいもんだなと思いました。

 あと、不安はひとつ。

 もし、麻酔が効かなかったり、途中で切れたりしたらどうしよう
 痛いのは、イヤだ

 で、手術台に横たわった時そう言ったら、その辺の人(もう誰が看護師さんかお医者さんかわからない)は妙にのんきに「だいじょぶ、だいじょぶ」って言って、
で、実際1,2,3
で記憶は途絶える。

 遠くで誰かが私を呼んでる
 眠いなあ
 でも、ずっと呼ばれてる…

 ってな感じで目が覚め、手術は終わってた。

 目は覚めたけど、体はまだ麻酔が効いてて痛みはなく、口に酸素マスク?プラスチックのものを付けられてた。
そのまま再びストレッチャーで私の部屋に戻る。マスクもしてたから喋るのは出来なかったけど、問いかけに頷いたりはできてた(つもり)。

 夕方、うとうとしてたら部屋の前のロビーから馴染み深いメロディが聞こえてきた。あ、そうだ、今日から、『愛しているといってくれ』の再放送だったんだ。
朦朧とした頭が急に時間軸や場所の認識をしていた。
えっちゃん(私はトヨエツをこう呼んでいた)、明日はテレビ見るわ、と思いながらもその日は夜遅くまでマスクで、水を飲むのを許されたのはそれを外してからでした。

 水を飲めるようになったのを見届け、両親や夫も帰る。
病院の夜は長くて、明け方暗いうちから目が覚めて、ちょっとさみしかった。

 私のがんは2センチ以下だったけど、腋のリンパ節を切ったら一番手前の場所に転移が見られたそうです。次の場所には転移なしだったからもう大丈夫
と確信してた、あの頃…

-5- 手術前日の入院(夕方~)

2006-11-27 15:09:11 | 1998乳がん はじまり
 再生画面を見ながら書くような気分です。けっこう次々と思い出せるものですね。

 さて、手術を前に再放送ドラマなんてどうでもいいだろ!って思えない私は、看護師さんに病室にテレビを入れてもいいかたずねました。今なら最初っからあってあたりまえのテレビだけど、建て替え直前のあの頃は長期入院の人が出入りの業者に頼んで入れてもらってた、というような状態じゃなかったかな。

 看護師さんの答は「点滴やドレーンなどの器具を入れるから直ぐは無理」と。
じゃ、ロビーのテレビで見るしかない。
「明日の手術は何時ごろ終わりますか?5時からテレビ見たいんですけど」
「手術は2時間かかりませんがお部屋に戻った時は酸素マスクしてるし横になったままですよ…」

 ドラマの第1回はとりあえず見たかったが無理なようです。仕方ない。

 夕方、主治医が病室に来られました。(最近のブログで書いた、例の、呼び出しの声が聞きにくい先生です)
明日は温存手術であること、わきの下のリンパ節を取って転移がないかを調べること、などすでに聞いていたことをあらためて聞く。
「よろしくお願いします」と伝える。

 その後麻酔科の先生も来られました。全身麻酔に関するお話をしたんでしょう。全然覚えてない。

 晩は絶食。しかも下剤を飲まされ、体内から水分養分が抜け落ちた感じ。水分摂取可能な時刻に下の義姉が甘いレモンティーを作ってきてくれて、ああ、これでしばらく何にも飲食できないと思うと余計に美味しく身体に染み渡るような気がしたなぁ。

 子どもたちは夕方やって来てしゃべって帰りました。悲壮感ゼロ。
乗ってきた自転車は上の子に乗って帰ってもらいました。翌日の術後の姿は
いっぱい管に繫がれるそうなので、子どもたちにはちょっと刺激が強すぎるな、と思い、「スイミングだから明日は来なくていいよ。あさってね。」と伝える。

 病室は家と違って片付いてていいなあ、などと考えながら睡魔に身を任せ、意外にぐっすり寝た。

 明日はいよいよ手術です。


 

-4- 手術前日の入院(昼)

2006-11-27 12:49:35 | 1998乳がん はじまり
 1998年11月4日に入院したと思う。
翌5日が手術日で、1週間後に退院。退院は早いけど、その後放射線の照射に25回通ったわ。

 で、入院の日。9時半か10時までに病院へ行かないといけなかったので朝から
てんてこ舞いの忙しさでした。朝7時45分に小学生の娘2人を送り出し、洗濯、掃除。入院中に我が家へ来る人が「んまあ!」と思わない程度には片付けねばならない。

 留守中の日程表を作成し、壁に貼った。娘たちの帰宅時間やおけいこ事、その日の夕食をどうするか、など綿密に記入したものを我が家用以外に3部用意して姉たちと実家へ渡しておいた。前年にあの神戸の児童殺傷事件があった頃だし、私もそれなりに子どもたちのことは案じていたのでしょう。

 入院準備はすでにできていた。おニューのパジャマも持った。
夫を送り出したあと、私も出発する。例によって自転車で。

 自転車で?!

 がんの手術を受けに行く人が自転車に乗って出掛けるのって、ちょっと意外かもしれませんが、なにしろ近いし、胸の傷もそんなに痛くないし、付き添うと申し出てくれた家族には術後たっぷりお世話になるし、ここでムダな労力を費やしたくなかったので断ったんでした。

 良い天気の日で、自転車の前カゴの上にバッグを載せた私は、近所の人におはようの挨拶をしながら病院へ行きました。

 私の病室はなつかしい産婦人科の病棟でした。私は2人ともそこで産んだので不安はなかった。お産が少なかったのか、外科や整形の患者さんも見かけました。
術後に器具が付くから個室でした。ナースステーションのそばで、テレビのあるロビーっぽい場所の前。このテレビも後に私の入院生活を彩ってくれることになるんです。

 看護師さんが来て、たくさんの書類にいろいろ記入しました。家族の病歴や日常生活まで、ホントにいろいろと聞かれた。
それが済んだら次は何?と待ち構えてたら、夕方主治医や麻酔科の医師が来て説明するまではゆっくり休んでて下さい、と言われてあ然とした。

 さっきまで家で時間に追われながら家事を片付けてたっていうのに、
このベッドの上で休めだとまだ昼前だよ~

 雑誌読んだり、部屋の前のテレビ見たりして時間をつぶす。
午後の再放送ドラマの時間帯。ぼーっと見てたら、それが最終回で明日からは
『愛しているといってくれ』をやると書いてあるわたし、あのドラマ、大大大好きで、再放送のたびに見てたので、タイミングが良いんだか悪いんだかわかんないけどとにかく明日から楽しみ~と浮かれる。

 こんな細かいこと書き連ねてて、私以外誰が読むんだ

 ちょっと休憩。

 

-3- 入院準備

2006-11-17 15:17:25 | 1998乳がん はじまり
 今回も引き続き8年前のことを思い出して書く。
こんなことならメモでも残しておくんだった。


 すでに胸を切ってしまっているので、手術日はそう遠くない方が良いだろう、と
11月5日に決まった。それまであと1週間も無かったように思う。

 朝、夫と病院へ来てから4,5時間経ってて、なんか随分遠くへきてしまったなあ、と思いながらも、時計を見るとそろそろコープの共同購入の時間だと気付き、急いで帰る。病院から自宅までは自転車で5分くらい。生活圏の歩道をいつものように自転車で走る。麻酔が効いていたので痛みはまだなかったし、頭の中は、入院までにすべきことが断片的に浮かんできてグルグルしてた。

 マンションの駐輪場で同じマンションの友人に会った。私が大きなため息をもらしたからか、「どうしたの?」と聞いてくれて、「いやぁ、たいへんなことになった」とだけ告げて別れる。

 共同購入を済ませ、しばらくして別の友人が訪ねてきた。私が病院にいる間に電話をくれてたらしい。「どこ行ってたのよ~」って聞かれ、
「病院。私、乳がんで来週手術するんだ」と言うと、信じてもらえなかった。そのうち本当のことだとわかると半泣きで、何でも手伝うと言ってくれた。

 そのあと、実家の両親に来て貰い、話す。もちろん2人とも超ビックリしてて、悲しませたと思う。同じ市内とはいえやや遠いところに住んでるが、私の入院中は母が出来る限りバックアップすると言ってくれた。

 さらに実家よりもっと近いところに夫の姉が2人住んでいて、その2軒とも協力を申し出てくれたので、本当に心強かったです。

 あのころ長女は小5、次女は小2だったので、食べることや放課後の時間をサポートする必要があった。

 2人の娘に病気のことをどう話すか。ちょっと迷いました。
最初っから包み隠さずすべてをオープンにするのもいいと思ったけど、病名が派手というか、あんまり暗いものを背負わせるのもどうかとも思い、当分は良性の腫瘍ってことで通すことにした。ついでに、その後本当の病名を伝えそびれた人にも全てこの「良性の腫瘍」でいくことにした。

 今思うと、あのころは娘たちもかわいかった…
母親のことを心配しながらも、日替わりであちこちの親戚がごはんを提供してくれる1週間の計画に大はしゃぎだったもんね。

 さらに間の良いことに、手術の翌日から夫が休みを取っていた
ホントは家族で蒜山に行く予定で取っていた休みだが、大いに助かった。

 子どもの面倒は心配なさそうだ。あと一つの厄介事は16日に地域の祭があり、
私は子ども会の役員で、お祭のお手伝いの役割もきまっていたのでした。
申し訳ないが仕方ない。他のお母さんに話すと「何も心配せずにあなたは自分の
病気のことだけ考えて」と言ってくれて嬉しかった。

 週末には母とパジャマを見に出かけたんだった。その頃私が持ってたのより
可愛い、あるいはややラブリーなものを母は選んでくれた。

 入院前夜(3日の文化の日)は実家で晩ご飯を食べ、「がんばってこいよ」とお酒を飲んだ。

-2- 前々回の続き

2006-11-14 10:20:52 | 1998乳がん はじまり
 この前は、細胞診でも判らなかったしこりを直接取り出すために手術室へ行くことになったところまで書きました。
「ぼんやり座ってた」なんて読み様によってはまるで悲劇のヒロインぶってるみたいだけど、そうじゃなくて、ホントにボーっとしてたの。そりゃ、距離的には近所だけど、まさか国立病院の手術室が自分の日常に含まれるなんて思ってもみなかったから。
 あ、でもその年の私にはちょっと関係ある場所だったかも。
 同年の5月、小5だった長女が左手薬指を骨折して、5、7、9月とその手術室にお世話になっていたのでした。

 さて手術室に案内された私は、部分麻酔をされて手術台?に横たわっていたのかな。いまいち曖昧。室内のこともあまり覚えてない。

 印象的だったのは手術室の看護師さんがズーっと熱心に世間話をしてたこと。たぶん気持ちを軽くする目的だったんでしょう。先生は黙々とメスでしこりを取り出す一方で、私と看護師さんは子どものこととかしゃべってたというわけです。
「先月(その年の9月)、うちの子がお世話になったんです。すごーく泣いたらしくって」と話すと「ああ、あの子…」とご存知でした。

 部分麻酔はよく効き、全然痛くないけど確かに私は今切られているという感じはわかる。その時先生が、

 「あ、本物だわ」

と言ったので、「えっ、ガン」と聞き返しました。
先生は「うん、大きい手術をせんといかんな」と。

 私はこのときシロウト考えで、なぜしこりを取り出したのにまだ手術が必要なんだろうか、と不思議に思い、たずねると、先生ったら、

 「しこりのまわりを含めてその周囲をケーキを切るみたいに取る。あと、転移がないかリンパ節も切らんといかんから全身麻酔で…」

 ケーキ?
 ケーキかぁ…  っていうか私、ガン

 切ったところにフィルムシートみたいなのを貼って、再び外来の診察室で待つよう言われる。

 またしても「ぼんやり座って」待つ。このときはやはりショックだった。今回の転移が判った時よりも。

 外来の看護師さんは他に患者さんがいなくなった待合ベンチに座っていた私に優しく何か声をかけてくれた。まだ若いからショックだろうねぇ、とか言われた気がする。ちょっと泣いたかも。でも、自慢するけど、私このとき以外泣いてないから。しかもこのときだってホンのちょっとだったし!

 その日はその後手術日や入院の説明、そしてしこりが2センチ以下の初期ガン?だから乳房温存手術が可能であることなどを聞いて帰宅。

       

 手術した頃のことを振り返って書いておくのもいいかもしれないと思って書いたけど、まぁ、珍しいところへ行った人の話、って感じで読み流しといて。またそのうち入院時のこととか書くかもね。



-1- 11月のカレンダー

2006-11-11 10:19:39 | 1998乳がん はじまり
 カレンダーを見てるうちに、さまざまな年の11月に思いを馳せることがある。
特に印象的なのが、五年前の11月に亡くなった義父のことと、八年前に乳がんの手術を受けたこと。

 私が乳がんに気付いたのはその義父のおかげでもあった。
義父は十年前に胃がんの手術をして、その後も通院を続けていた。うちの家から病院は近かったので、
私はしょちゅう付いて行って長い待ち時間を一緒に過ごしたものだった。
別に父は弱々しく衰えて付き添いが必要だったわけではなく、病院のあと駅前でお昼をご馳走になってしゃべるのが楽しかったから。

 八年前の10月、いつものように病院で順番が来るのを待っていた時、たまたま
目の前に乳がんを自分でチェックしようという啓発ポスターが貼ってあったので、それをずーっと見ていた。
で、帰宅後自分で触ってみるとなにやら気になるものが、あった。

 ポスターを見ながら「うわ~、こんなのあったらどうしよう」と言った私に、父が
「気になるんやったら早めにみてもらいよ」と言ってくれた事。父の主治医は乳腺を専門に診ていること。受付や診察日などすでによく知っていたこと。そんなこんなに後押しされ、その週の乳腺外来の日に受診した。

 診察は触診から。自分で触って気になるしこりを見つけた、と言って駆け込む人が多いのか、先生は最初「まあ、違うと思う」みたいな感じで、他のよく間違えやすい症状のことを説明したりしていたけど、「ん?」って顔になり、エコーで見ることになった。だったかな?まあ随分前のことだからね。

 エコーで見ても私のしこりの正体は判らなかった。

 次は、直接胸に注射針を刺して中身を抜いて調べる「細胞診」をすることになった。読むと痛そうだけど、痛かったという記憶は全然ない。検診に行こうか迷ってる人も安心してね。

 もしかしたら乳がんかもしれない、と思ってすぐ出かけたのがやっぱり図書館で、診断が確定するまでの流れを一応調べていて良かった。本の通りに進んでいったから。

 細胞診の結果が出るのは1週間後。その間、検査のことを知っていたのは夫だけでした。違ってたら要らぬ心配を人にさせることになるからね。

 1週間後、夫婦で結果を聞きに行ったけど、なんと、それでも判らなかったらしい。
1~5までの値のうち1と2なら良性、4と5なら悪性(つまり癌)で、私のは3だったから。

 ついに、直接しこりを取り出して目で見ることになった。へぇ~、でも、どうやって?
先生はそこから内線電話で手術室の午後の予約を取っている。
しゅ、手術室でやるのちょっとビックリ
夫は仕事のため去り、私は静かになった外来でぼんやり座ってた。


 わ~、こんな内容でこんなに書いちゃったよ。
でも、どんなところから私の今の病気との付き合いが始まったのかを書くのって、
何かの役に立たないかなぁ、と思ったのよ。
次は楽しい手術室での様子から書きます。