LINEN GYOZA 近況日記

十年たちました…

-8- 術後②

2006-12-21 10:54:48 | 1998乳がん はじまり
 いつも台所で手を拭くのはてぬぐいにしてます。今はこれ。かわいいでしょ。
てぬぐいの柄になるとサンタクロースのポップさが程よく中和されて、手を拭くたびにな気分。

 さて、ダラダラ書くからまだ昔話が終わりません。
いつもパソコンの前で、おばあさんが「そうさなぁ~」とか言いながら話を思い出すかのように宙をにらむ。
    ~・~・~・~・~・~・~・~

 術後、胸の傷跡を見ることはないままでした。傷口消毒の時も横になってるから見えないし、お風呂には入らないし、でも、寝たり起きたりする時はとても痛かった。いきなり横にはなれず電動ベッドの頭部を起こしてから横たわり、またリモコンで水平にしてた。

 ぼんやりしてたら回復が遅れそうな気がしたので、翌日からよく歩いてました。
私の場合、退院後の通院時に近所の人に会う確率が高いと思ったので、不自然に見えないようなバッグの持ち方はどうだ、とか廊下で実際に手提げ袋など持って歩いてみました。

 そうそう、右腕が、腋下リンパ節切除のために上がらなかったんだ。
術後2日目か3日目に看護師さんがリハビリのやり方の紙を持ってきてくれて、
簡単な腕の運動とかがイラストで書いてあったのでやってみたらできなかった。
「えーっ、こんな動きができないなんて」と青ざめたけど、続けるうちに少しずつ出来るようになっていった。でも、『自分の髪を櫛でとく』なんてのは難易度が高かったですね。

 何日目だったか忘れたけど、個室を出て4人部屋に移った。個室は寂しかったのでほっとした。
しかも、この4人部屋での数日間は、私のこれまでの病院ライフの中では群を抜いて楽しかったのですよ。

 部屋のメンバーは、50代胃がん、40代卵巣がん、20代卵巣膿胞、そこへ30代の私が加わりました。

 間仕切りのカーテンを開け放ち、朝から晩まで喋り続けた。話題は、主治医自慢、看護師さんの品定め、ごはんのおかず、自分のこれまでの経緯、などなどきりがなく、「真ん中にこたつでもあったらいいのにねぇ」とよく言ってたものです。

 20代卵巣膿胞は病名こそ「がん」が付かないけど一番弱音吐きでした。
「私がナースコールして痛い痛いというたびに、術後すぐリハビリに取り組んだ乳がんの人を見習えってさんざん言われたけど、それって奈津子さんのことだったんかぁ」とうらめしそうに言われました。エッヘン!でも、その後どんどん回復に向かった彼女は私のリハビリの良き相棒となり、2人で院内探検に出掛けたり、腕が上がらない私の頭を洗ってくれたりして、とてもお世話になりました。

 50代胃がんの夫が見舞いに来たとき、私を見て、「あの人、なんで寝巻着ておるんや?」と奥さんに聞いたそうです。よっぽど元気そうに見えたんだろうな私。

 40代卵巣がんは3人の子持ちで、一番下がうちの長女と同学年だったので、よく学校の話とかした。ちょうどその年はうちの子の行ってた小学校が超・超・荒廃してたので熱く語り合ったような記憶がある。

 そんなに盛り上がった割には誰ともその後会ってない。どうしているだろう。
三人とも元気でいると思いたいです。

 それと、ドラマ『愛していると言ってくれ』ですが、その後大相撲九州場所なんか始まっちゃって、毎夕場所取りや交渉でたいへんでした。

 そんなこんなで楽しく過ごし、術後1週間後には予定通り退院した。
さらにその1週後に抜鋼(ばっこう、って読む。抜糸じゃなくはがねを抜くの。)
骨シンチっていう骨のレントゲン写真みたいなのを撮る検査をして、12月から1月にかけて25回だったかな、放射線を照射。これにはちょっと体力減退でした。

 転移とか再発とか無かったら、あとは定期的に通院するだけだったんだよな。
乳がんの自己検査法とか知っておいて、早めに見つかれば予後も良いらしい(私のことは例外だと思ってね!)ので、
毎月自分でチェックしてください。おかしいな、と思ったら、婦人科じゃないよ外科へ行きましょう。
一応、これでこの項終了

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