20日の土曜日から風邪です。
しゃべると激しく咳こむせいで家族とも喋れないし、電話もできないし、本を読むかテレビ見るかしかない。
だからこうしてキーボードに向かって喋ることの代用ができるのって救いだわ~
これも長話のつもりで書くからねっ。
しかも地味な話題よ。
図書館で借りてる本のことなんだけど、これがなかなか面白くって。
『民芸入門』(吉田璋也 著) 1973
『日本民藝館へいこう』(坂田和實 尾久彰三 山口信博) とんぼの本 2008
昨秋訪れて以来鳥取熱は冷めるどころかますます上昇中で、次の機会を画策中です。
そんなわけで、‘鳥取民藝の父'と呼ばれる吉田璋也の本は抑えておくべきところだと思い、手にとったわけです。
とんぼの本も3人のうち2人が知った名前だったから興味を持ち借りてみたのです。
いやぁ~、難しいわ民藝って。
そもそも民藝って、ジャンル? それとも概念?
思ってた以上に哲学的な要素が入り込んでて、びっくり。
たとえば吉田璋也本のさいご(あとがきにかわるもの)にはこうあります。
「民芸品の美しさをことばで表現することはなかなかむずかしいことですが、
その美しさは慈悲となって、人の心を洗ってくれる美しさなのです。
そういう美しさに日々接触して暮らすことはまた、
民芸品のような性格を帯びた人間に形成されるであろうことを信じているのです。(後略)」
これ、言い換えてみると、美しいものは人の心を洗ってくれる、ってこと?
新しいお皿を手に入れた時に感じるあの高揚感、着心地が良い衣類に袖を通した時の快適なこと、ねだんの高い安いじゃなく、気に入ったものを身近に置くときに感じるあれって、モノが私という人間を洗ってくれてたというわけか。
ところで、今の‘民藝'って何だろう、というところを追求してるのが、とんぼ本。
3人による鼎談のキワドさには、読みながらドキドキしてしまいました。
尾久さんが古道具屋の坂田さんに「
いいかたはよくないかもしれませんが、坂田さんの職業において、美の発見、眼の革命は、錬金術と同じことです」なんて言ったり、
坂田さんが民藝館の顧問である尾久さんに「
私が住んでいる東京のアパートでは、残念ながら民藝の器の大半が使えない」「
見た目が強すぎるし、重すぎる」と断じたり…
鼎談するぐらいだから仲良しなのかと思いたいが、安易な同調を拒絶してる様が鋭くて、
読者オロオロ。
山口氏が、無印良品のプラスチック製のランチボックスを持参します。
その形は日本民藝館所蔵の李朝の三段重にそっくりなのでした。
山口氏の言葉。
「
もちろん工業製品ですが、李朝に負けていません。おそらくデザイナーは民藝館の重箱を知らずに作ったのでしょうけれど、デザイン資源としての民藝の可能性を示す、ひとつの例になるかと思って。」
その後も尾久さん、坂田さんの発言は続き、いちいちごもっとも、と楽しく読み、
私も自分の意見を頭の中にあれこれ思い巡らすんだけど、
ほら、私って今風邪ひき中でしょ、咳するたびにそういうのって散り散りになっちゃって…
しばらく頭の中でモワモワさせておきましょう。