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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~俳誌『玉藻』の創刊~ (35)

2015年12月27日 | 俳人杉田久女(考)

久女年譜によれば、昭和5(1930)年も多くの句を作り、俳誌に文章を書き、2月には京都法然院を尋ねたりと、心せわしくも充実した年だったようです。

昭和5年
6月には高浜虚子の次女星野立子を主宰として、女性を対象とした俳誌『玉藻』が創刊されました。

昭和の初め頃から長谷川かな女、久女達と肩を並べて名前の出て来た高浜虚子の次女、星野立子に父の虚子が誘いすすめて、女流俳人育成のために『玉藻』を創刊、主宰させたのです。『玉藻』発行所は『ホトトギス』発行所内におかれ、虚子は立子と雑詠欄を共選し、巻頭言「立子へ」を毎号執筆し全面的に支援しました。


久女は先に述べた様に俳句実作だけではなく評論もする人で、虚子の次女立子の句についても早くから注目し論じています。この頃の星野立子の句をいくつか挙げると

        「大仏の 冬日は山に 移りけり」

        「松落葉 しきりに降るよ キャンプ村」

久女は〈立子さんは昭和女流の最先端にたって、女流俳句をどしどし開拓してゆく新人である。豊かな清新な感覚と、自由な素直な澄み切った写生で、大正の人間描写から一歩自然界へ凝視をむける人〉と評しています。

この他にも久女は立子の句を様々な自身の俳論の中でも批評していて、恩師虚子の愛娘ということで、かなり意識的な取り上げ方である、としている研究書も多いようです。

『ホトトギス』の強大なバックと、父、虚子の庇護を背に、すんなりと主宰俳誌を手にした立子に、久女はある種の羨望と悲哀を感じたのは否めないでしょう。この時立子27歳、久女40歳でした。

この頃、久女は、自分もいつかは俳誌が持てたら、という気持ちになったのではないでしょうか。

                           
                           


今年も残り少なくなってまいりました。いつも拙いブログにお越し下さいましてありがとうございます。今年は5月の終わりから無謀にも「俳人杉田久女(
考) 」を書き出しまして、自分の力不足をはっきり実感した年になりました。一人の女性俳人の生涯をたどるなどという事は、私の様な者には不可能だと感じられ、でも乗りかかった船なので(^-^)、何とか最後までたどり着きたいという気持ちもあり、毎日を悶々と過ごしています。

暖冬とはいえ、当地も昨日今日と少し冷えてまいりました。どうぞ皆様お風邪など召されません様に、お元気で年末年始をお過ごし下さいませ。新らしい年に又お会い致しましょう。それまでごきげんよう  

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ギャッベ絨毯

2015年12月22日 | つれづれ

リラ地方にある大塚家具さんは、近々一部商品の入れ替えをされるらしく、割引セールの招待状が届きました。

大塚家具さんといえば、久美子社長のお父様は今、どんなお気持ちでいらっしゃるのでしょうね~? 私達シニアとしては、気になりますね。

招待状が届いた時、6畳位の私の部屋(以前の子供部屋)の一部に、絨毯を入れようかと思っていたところでしたので、お店に下見のつもりで行ってみました。

売り場のコーディネーターに、現在リビングにはヨーロッパ調の柄の絨毯を敷いているけれど、私の部屋には、それとは違う感じの絨毯を敷きたいとなどと相談しました。

コーディネーターさんは、「それではギャッベ絨毯はどうでしょうかね~」と言い、売り場のギャッベ絨毯を色々広げてみせてくれました。
<絨毯コーナー>

コーディネーターさんの説明では、ギャッベ絨毯とは南ペルシャの遊牧民の女性によって織り続けられている手織り絨毯だそうです。高地で遊牧民と共に生活している羊の毛を刈り取り、手で紡ぎ、自然の草木で染め、一点一点織られるため、それぞれが違っていて味わい深いとのことでした。

遊牧民の方々はギャッベ絨毯の上で育ち女性は結婚する時、3枚のギャッベ絨毯を織り上げお嫁入りされるそうです。

私は色鮮やかだけれど落ち着いた草木染の色合いや、毛足が少し長いウールの素晴らしい触り心地に心惹かれ、その中の1枚に即決しました。

後日、絨毯が家に届き敷いていただくと、こんな感じになりました。


絨毯の両端には、この様な小さなアイコンが幾つか織り込んであります。このアイコンはナツメヤシや糸杉など樹齢の長い樹をモチーフに、長寿や健康を願うものなのだそうです。


この絨毯に座りながら、これを織られた遊牧民の女性はどんな方なのだろうかと思ったり、また彼女の日常に思いをはせたりして過ごしています。

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俳人杉田久女(考) ~昭和初め頃の久女の日常~ (34)

2015年12月18日 | 俳人杉田久女(考)

久女年譜を見ると、昭和3(1928)年頃から数多くの句が生まれ、女性俳句の研究に意欲的に取り組み、数々の句会、俳句大会などに出席と、時間の多くを俳句関係のことに使っていることから、この頃から低迷時代を抜け出て、久女に以前とは違った俳句に対する境地が生まれて来たのではないかと思います。

      「如月の 海をわたりし 句会かな」
 
      「春襟や ホ句会つづく この夜ごろ」

昭和4年4月には自身を俳句に導いてくれた次兄月蟾を亡くしました。3年前には姉、静子を亡くしているので、俳句は久女にとって命とも兄弟とも言えるものになっていたのでしょう。

この頃から、久女が句会、俳句大会などに度々出席し家を空けることが多くなったことについて、夫、宇内は以前の様に干渉したり、反対したりはしなかったのでしょうか。

作家の田辺聖子さんは、著書『花衣ぬぐやまつわる.....』(上)の中で、〈私の想像では、宇内という男性は、ともに棲む相棒が(女に限らないと思う)何かに打ち込んで昂揚しているときは、ひるんで慴伏し、委縮して矛をおさめ、もし相棒が気落ちして悄然としている時は猛然と攻撃に転じるというタイプではなかったかと思う。久女がこの時期、気力充溢しているので、宇内は口をつぐんでいたのであろう〉と書いておられます。

その通りかもしれませんが、二人の娘さんが成長し家事も少し手助け出来る様になるなどの環境の変化で、以前よりは出掛けやすくなったと言えるかもしれません。

それに加えて、久女が中央でも名が通るようになり、俳句に対する周りの評価などが、宇内の口をつぐませていたのかもしれないと思ったりもします。

又、同じ著書のなかで、田辺さんは〈久女俗説では彼女は家事をかえりみない悪妻ということになっているが、宇内は彼女の作る食事をこの上なく好んだふしがある。およそ享楽気分のない男で、教条が服を着たような、硬直した人生観の持ち主であったが、宇内の楽しみの一つは若い時から久女の手料理だった〉と書いておられます。

私も何かで読んだ記事ですが、宇内は久女が作るタンシチューを好んだと書いてあったのを思い出しました。明治の終わりから昭和の始め頃の話ですから、それは彼女がお茶の水高女で教わった、お洒落な洋風料理の一つだったのかもしれませんね。

この頃の久女は俳句に意欲がみなぎり、普段は煩わしい家事も手短にこなし、時々は宇内の好きな料理もつくり、外出が多い割に破調をきたさずに、日常をやりこなしていたのでしょう。

この頃の久女年譜を見ると、彼女の俳句に割く時間の多さに驚きます。久女は女中もなしにと度々書いていますが、それで健康は保てたのか心配になる反面、「よくやってくれた」と拍手をおくりたい気持ちにもなります。


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クリスマス・イルミ

2015年12月15日 | お出かけ

先日、子供達、孫達と博多駅前と天神の警固公園にクリスマス・イルミを見に行きました。佐世保のハウステンボスの様な壮麗なイルミではありませんが、華やかでキレイでした。


博多駅前のイルミは毎年少しづつ変っている様ですが、今年はかなり大きく変化した様です。駅前広場の広いスペースに昨年以上の数のクリスマスマーケットが出現し、「クリスマスマーケット in 光の街・博多」が開催されていました。
<クリスマスマーケット>

“博多駅から5秒で出会えるヨーロッパ”がテーマになっているようで、おとぎ話に出てくるような木の屋台がずらりと並び、光のツリーを取り囲んでいます。又、クリスマスマーケットの屋台で買った食べ物を頂くテーブル席も広くとられていて、皆さんホットワインやソーセージなど楽しんでおられました。

光のツリーの周りには舞台が作られ、いつの間にかライブ演奏が始まりました。
暖かい夜でしたので、人出と盛り上がりぶりが凄かったです。

今年は、こんな新しい光のオブジェも登場しました。これはウイッシュフラワーと名付けられたもので、来場者が願いを込めたウイッシュオーナメントがオブジェに飾り付けられています。皆様どんな願いを込められたのか見てみると、「博多一のモテ男になりたい!」なんてのもありましたよ(^-^)
<ウイッシュフラワー>

警固公園のイルミは博多駅前ほどの賑わいや盛り上がりはありませんが、きらびやかで落ち着いた感じのイルミでした。


ここは元々公園なので遊具などもそのまま置かれ、その周りに可愛らしいイルミを点灯させた場所も一部ありました。そこには多くの子供達が集まり、孫達も思いっきり遊びました。


華やかでロマンチックなイルミもいいですが、子供達が周りで一緒に遊べるイルミもいいものですネ(^-^)


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俳人杉田久女(考) ~第三回関西俳句大会に出席~ (33)

2015年12月11日 | 俳人杉田久女(考)

俳誌『ホトトギス』が昭和4(1929)年の12月号で400号となる記念として、11月半ばに東京では祝賀会が開かれ、講演会や句会、記念晩餐会など様々な行事が催されました。

そして11月23日に『ホトトギス』400号記念の祝賀の意をこめた、第3回関西俳句大会が大阪中央公会堂で催され、久女は小倉から駆け付けました。

久女はこの大会に、小倉から転居して大阪手塚山に住んでいた橋本多佳子を誘うとともに、その時、彼女を多くの俳人に紹介しています。〈久女伝説〉として、久女は才能ある他者を妬んだなどと言われているようですが、このことから見ても、才能ある人への妬みや排斥の狭い気持ちは持ち合わせていない女性の様に思われるのですが...。

多佳子が生涯の師となった山口誓子に会ったのはこの時が初めてでした。昭和4、5頃の多佳子は、下の様なホトトギス調の写生句が時々雑詠欄にとられています。

       「裏門の 石段しづむ 秋の潮」

久女が俳誌『天の川』に載せた「大会印象記」によれば、講演は高浜虚子の「句作40年」の他、高弟達の講演もあり、夜の祝宴では弟子たちの余興も賑やかに行われ大変な盛り上がりだったようです。そして最後に虚子先生の万歳三唱をして、宴はお開きになったと結んでいます。

その夜はかっての句妹、中村汀女の家に泊めてもらった様で、この時、汀女は30歳。二人の子の母親でした。この頃、汀女の夫が大阪税関に転任していたので汀女は大阪住まいだったようです。

この会に大阪在住の橋本多佳子を誘っていること、この時、汀女宅に泊めてもらっていること、又、後に久女が俳誌『花衣』を創刊した時に、多佳子や汀女に声をかけ投句を促していることからみても、彼女らと折々音信を交わし交流が絶えていなかったのでしょう。

〈久女伝説〉では狷介で独占欲強く、友人を持てなかった様にいわれていますが、久女の生き方を丹念にたどると、友人との心の交流を大切にし、途絶えがちな付き合いの糸を丁寧に結んでいるように思われます。

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