日々の暮らしに輝きを!

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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

もうすぐお正月

2016年12月29日 | つれづれ

二週間ほど前に生垣の手入れをしました。

私の家の生垣には造園業者さんが勧めてくれたレッドロビンという木が植わっています。造園業者さんが言われるには、この木は値段が安く虫が付きにくいのでいいですよ、ということでした。

が、実際に生垣として植えてみると、値段が安く虫が付きにくいのはその通りでしたが、毎年30㎝程も伸びるのではと思われる程成長が早く、手入れが大変でやはり
安いだけの価値しかない木だなんて夫と話しています(^-^)

そこで、今年は高さを思い切り低くし、葉も剪定だけではなく枝梳きをして空気の通りをよくすることにしました。毎日少しづつ作業をしたので3、4日かかりましたが、まずまずの仕上りで気持ちよくお正月が迎えられそうです。

                                          


今年も残すところ数日となりました。いつも拙いブログをお読み下さりありがとうございます。 昨年5月から書き始めたブログカテゴリー、「俳人杉田久女(考)」を先日どうにか書き終えることが出来、ほっとしています。

来年はどんな年になるのでしょうか。アメリカにトランプ政権が誕生し、世界が大きく変わる様な予感もしますが、どうでしょうか。といって私がそんなことを気にしてもどうしようもありませんが。

当地は昨日から少し寒くなりましたが、穏やかな年末を迎えています。今年一年を元気に終えれそうですが、当たり前の様で決してあたりまえではない、このことに感謝して新しい年を迎えたいと思います。
どうぞ皆様お元気で年末年始をお過しくださいませ。また新しい年にお会い致しましょう。それまでごきげんよう


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俳人杉田久女(考) ~終章~ (90)

2016年12月25日 | 俳人杉田久女(考)

英彦山高住神社(豊前坊)の参道脇にある杉田久女の句碑をはじめて見て以来、40年以上の年月が過ぎました。句碑に出会って数年後に、久女が、当時私が住んでいた北九州市の旧制小倉中学(現小倉高校)の美術教師の妻であったことを知り、以来彼女を身近に感じ、新聞、雑誌などで彼女の記事が出ると切り抜いたり、久女関係の本を読んだりしてきました。

同世代の方々の書かれたブログを読むのが好きな私は、読ませていただいているうちに、自分も好きな旅行やそれまでに調べていた杉田久女についてのブログを、書いてみたいと思う様になりました。旅行ブログは旅行に行きさえすれば書けましたが、久女についてはそんなに簡単にはいきませんでした。

久女という俳人の人生を辿るなどということが、筆力、考察力が無い私に果たして出来るのか。又久女について書くとなれば、彼女の師、高浜虚子との確執にふれない訳にはいかず、それは高浜虚子批判になるのはわかっていましたので、そこに踏み込むにはためらいがありました。その様なわけで、ブログを始めて数年経つのに久女についてのブログは書き出せないままでした。

ですが私自身もだいぶ歳をとり、これまでに久女について私が感じたことを、素直な気持ちで自分なりにまとめてみたいという思いが再び強く
湧いて来て、無謀にも俳人杉田久女(考)を書き始めることにしました。

始めると色々な意味で後悔することしきりでしたが、曲がりなりにもよく最後まで辿り着けたなぁというのが正直な気持ちです。

続けられたのは久女の俳句がますます好きになり、また他の俳人達の俳句作品を鑑賞するのが楽しくなって来たからかもしれません。これは久女が私にくれた贈り物だという思いがします。

本当に拙い道端の小石の様なブログカテゴリーの俳人杉田久女(考)ですが、天上の杉田久女の御霊に、謹んでこれ
を捧げさせて頂きたいと思います。

(平成28年12月20日 記)                   
                                                          
                                                                             
                                             【完】

 
 

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俳人杉田久女(考) ~私の久女像~ (89)

2016年12月22日 | 俳人杉田久女(考)

ブログのカテゴリーに俳人杉田久女(考)を加え、杉田久女について書き出して約1年半になりますが、書くことによりそれまで自分の中にあった久女像が、より鮮明になってきた気がします。

結果的にみると、久女は高浜虚子により育てられ、しかし身内偏重の虚子により『ホトトギス』から追放されてしまいました。久女の追放が俳句の理念上からそうなったのであれば、私が何も言うことはありません。が、これまで見てきたようにそうではありませんでした。俳句理念上からの追放ではないところに久女の悲劇がある様に思います。
                     
のんきなお嬢さん育ちだった久女(当時は久)が、芸術家の妻にという願いで、美術学校出身の青年の元に嫁ぎます。しかしいつの間にか夫は絵筆を取らず田舎の美術教師におさまっていき、手の届くところにあるとみえた将来への夢や希望はうたかたの様に消えてしまいました。

そのようなことから夫婦の間には絶えず隙間風が吹いていましたが、教師の妻として二人の娘の母として生き、満たされぬ思いを抱きながらも俳句によって生き直そうとしました。高浜虚子に師事し『ホトトギス』に投句することにより、久女は次第に俳壇で認められる存在になっていきました。

その後、俳人杉田久女として彼女の人生が完結していれば、それは一つの答えを得た生涯ということが出来、夫との間には齟齬をきたしたとしても、どこか救われる思いがします。

しかし久女の場合、俳人としての生命も『ホトトギス』除名で無残にも断たれ、次第に精彩を失い10年後に誰にも看取られることなく亡くなりました。しかもそこは鉄格子のある病室でした。

久女がほどほどで妥協し心を切り替えることが出来る人であれば、晩年の不幸は避けられたかもしれません。しかし彼女は俳句に全人生をかけ又俳句に執念を燃やす人だったが故にそれが出来ませんでした。自身の才能、才華ゆえに俳句に執念を燃やし破綻したと言えるかもしれません。

『ホトトギス』に復帰困難と感じた時、それまでに誘われていた水原秋櫻子主宰の『馬酔木』に移るとか、また非常に困難な道ですが一派を立てるとかを何故しなかったのか。そうすれば違った展望が開けてきたのではと思わずにはいられませんが、しかしあまりにも虚子に連なる俳句の世界にとらわれ過ぎていたため、それが出来なかったのでしょう。

一方で、師というものは、弟子の死後までも、これ程のことをするものだろうか、という思いが私から消えません。久女没後、高浜虚子は回想文「墓に詣り度いと思ってをる」、創作「国子の手紙」、『杉田久女句集』序文などで遺族の心を逆撫でするような文章を発表し続けていました。

そしてそれらの文章を盾にした、様々な久女批判の文章も多く見られました。虚栄心が強い女、人一倍功名心が強かった、才能ある仲間を嫉妬すること甚だしかった、これらは現在でも久女を紹介する文章に時々見られる表現です。この表現は元を正せば、高浜虚子が書いたこれらの文章にかえって来ます。久女伝説などと言われるものも、おそらくこの辺りから生まれたものでしょう。

しかし近年、増田連氏、坂本宮尾氏など多くの人々の実証的研究が進み、誤りが正され、久女の実人生とフィクションが区別される様になったのは、私にとって嬉しいことです。

特に田辺聖子氏の評伝『花衣ぬぐやまつわる...』の力は大きく、そこでは従来の自己顕示的イメージから女性表現者の苦悩を真摯に生きる久女像への転換がなされています。

大正から昭和初期にかけて女流俳人の先駆けとなった杉田久女。時は流れ時代は変わっても、力強くまた優雅な久女の俳句は私達の心に訴えかけてきます。それは深い教養に裏打ちされた言語感覚、生まれながらの色彩感覚と合わせて、その句に人生の真実、ものごとの真実が詠み込まれているからだと思います。


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俳人杉田久女(考) ~私の好きな久女十五句~ (88)

2016年12月21日 | 俳人杉田久女(考)

杉田久女が生涯に残した俳句の数はそんなに多くはありません。『杉田久女句集』を紐解くと、久女といえども平凡なただごとの句も沢山ある様に思います。

しかし彼女が生み出した代表作、名吟と言われている句は、高い完成度を示し私達の胸に迫って来ます。それは執念ともいえる俳句に対する久女
の感情が、その俳句に託されているからでしょう。

「私の好きな〇〇十句」の様な表現を時々目にしますが、私の好きな久女の句はとても十句では納まりきれません。ここでは少し欲張って十五句挙げてみようと思います。

       「 花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ 」

       「 紫陽花に 秋冷いたる 信濃かな 」

       「 朝顔や 濁り初めたる 市の空 」

       「 谺して 山ほととぎす ほしいまゝ 」

       「 愛蔵す 東籬の詩あり 菊枕 」

       「 風に落つ 楊貴妃桜 房のまゝ 」

       「 灌沐の 浄法身を 拝しける 」

       「 うらゝかや 斎祀れる 瓊の帯 」 

       「 荒れ初めし 社前の灘や 星祀る 」

       「 鶴舞ふや 日は金色の 雲を得て 」

上の10句に下の5句を加えて「私の好きな久女十五句」としたいと思います。

       「 葉鶏頭の いただき躍る 驟雨かな 」

            
「 戯曲よむ 冬夜の食器 浸けしまま 」

       「 秋来ぬと サファイア色の 小鯵買う 」

       「 張りとほす 女の意地や 藍ゆかた 」

       「 甦る 春の地霊や 蕗の薹 」



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宇美神社

2016年12月19日 | お出かけ

いいお天気の先日、福岡市の東隣の宇美町にある「宇美神社」にお参りしました。この神社は神功皇后が三韓征伐の帰途に、応神天皇をこの地で生んだという言い伝えの神社です。
<宇美神社>
「宇美」という名前も「生み」に由来するようで、ずっと子宝祈願、安産祈願の神社として親しまれています。
この日は平日で師走でもあり、境内はちらほらお参りの方がおられるくらいで静かでした。


広い境内には何本ものクスの巨木があり、清々しい空間を形作っています。参道から拝殿に向かうと、目に飛び込んで来るのが、「湯葢の森」と呼ばれる大楠で、拝殿の右側に大きく巨大な枝々を広げています。一本の大木を森というのも、あまりの巨木さに森の様に見えることからそう言われるのでしょう。
<「湯葢の森」>


応神天皇がここで産湯につかられた際に、地上に蓋をするようにこの楠の枝が覆っていたとされていて、その名がついたのだとか。

拝殿の左奥には「衣掛けの森」と呼ばれる楠の巨木があります。この楠は境内の中でも一番大きな楠のようで、応神天皇誕生の際、産着をかけたと伝えられているそうです。
<「衣掛けの森」>

この二つの巨木は樹齢1000年以上で国指定の天然記念物になっていますが、境内の他のどのクスノキも目を見張るほどの大木で、パワースポットと言われるにふさわしい景観を形作っています。

本殿の後ろには「子安の石」が置かれている場所があり、無事に生まれた赤ちゃんの名前や誕生日などを書いた沢山の石が納められています。妊婦がこの石の一つを持ち帰り、無事に出産を果たしたら、持ち帰った石とともに、
生まれた子供の名前、誕生日などを書いた新たな石を納めるという慣わしなのだそうです。沢山の「子安の石」の前に立つと、人々の思いの篤さを感じますネ。
<「子安の石」>

 
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