日々の暮らしに輝きを!

since 2011
俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

大根おろし器

2012年11月29日 | つれづれ

ほぼ毎日、朝食に私は大根おろしをいただきます。大根おろしの良い消化酵素は、下ろした後30分以内に摂取しないと半減すると言われているので、その都度下ろさなければならず、ストックが出来ないので毎朝となると結構苦労しますね~。

皆様は大根を下ろす時、どんな大根おろし器を使っていらっしゃいますか?私は今まで百均のダイソーで買った下ろし器を使っていました。百均の品物なので下ろし面がプラステイックで出来ている為か、摩滅してきて、最近何となく下ろすのに以前より力がいる感じがしてきました。

そこで新しい大根おろし器を買おうと、楽天市場などで検索してみました。フードプロセッサーや多機能型ミキサーなどもありましたが、これらは力はいらないものの、
毎日の事なので、使った後洗うのが大変そうな感じがして、結局今までと同じで、使った後、サッと蛇口に持っていって洗える普通の大根おろし器(670円)を、近くのスーパーで買いました(笑)。
Photo <新しい大根おろし器>


今まで使っていたのと違うのは、下ろし面がアルミで出来ていることで、新しい事もありとても楽に下ろせます。ボンヤリしていると危うく指まで下ろしてしまいそうで、これまでの物とは使い勝手がだいぶ違います。

新しい大根下ろし器のお陰で、朝食の準備が何となく楽しくなりました。身の回りのちょっとした物を、まだ使えても新しい物に替えるって、歳をとると結構意味のある事かもしれませんネ。

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ←ランキングに参加中! 60歳代バナーをクリックよろしく~(^-^)


祖原公園の整備工事

2012年11月26日 | つれづれ

家の近くの祖原公園は福岡市が管理する公園ですが、現在大掛かりな整備工事が行われています。この公園は下の児童公園と、上の 元寇史跡がある標高33 メートルの小高い丘(山?)の二つからなっています。

下の児童公園は昨年整備工事(その1)が行われ、滑り台などの遊具も一新し、不人気の砂場が撤去され、トイレも作られてキレイになりました。

Photo_4 <児童公園>

が、残念な事には毎年桜の時期に多くの人々を楽しませた、年数を経た立派な枝ぶりの桜の古木が、配置換えされ、枝を落とされ、見る影もなく貧相な姿になってしまいました。桜の時期のこの児童公園はホントに素敵な公園だったのに...。今年のお花見の時期には桜の下でお弁当を広げる人々の数もめっきり減ってしまいました。

そして現在、元寇史跡がある上の公園の整備工事(その2)が行われています。整備中なので、4箇所ある公園入り口はすべて閉じられ公園内に入ることは出来ません。

Photo_6 <工事看板>

工事は6月頃から行われていますが、看板によると来年1月25日に完成する様ですね。今までよく判らなかった工事ですが、最近完成が近づき、その姿がある程度わかるようになってきました。公園の正面入り口の階段がなだらかなスロープになるようです。

Photo_7 <新しい正面入り口>

古い公園北側の階段入り口はどうなるのでしょうか?おそらくこの階段はこのまま残し、そのすぐ横にもう一つ入り口を作り、正面入り口からのなだらかなスロープと合流させて、頂上まで行ける計画なのではと思うのですが...。

Photo_8 <古い北側階段>
Photo_9 <正面スロープと合流?>

下の写真の様に、古くからある東側入り口のスロープは、公園側の石垣を新しくした位であまり手が付けられていません。

Photo_10 <東側入り口>

車椅子で頂上まで行くことは難しかった公園ですが、今回、緩やかなスロープを作り車椅子でも頂上まで行ける公園にしようとの計画でしょう、素晴らしいですね。頂上付近には「元寇祖原戦跡」の石碑も立っていて、ある程度の広さがあり明るい空間が広がっています。公園整備が完成したら、また多くの方々が訪れる早良区の憩いのオアシスになることと思います、きっと。

公園も時間とともに、時代と共に色々変化していくものの様ですね。何だか来年の1月25日が待ちどうしくなってきました。

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ←ランキングに参加中! 60歳代バナーをクリックよろしく~(^-^)


イチョウ並木

2012年11月19日 | お出かけ

冬の到来を予感させるヒヤッとした空気が流れる気持ちのよいお天気が、昨日、今日と続いています。気が付けば今年もカレンダーが残り少なくなってしまい、月日の経つのの速さに驚かされます。

ウォーキングがてら、
家の近くのよかトピア通り界隈のイチョウ並木を写しに出かけました。通りが新しい事もあって、木がまだ細く年数を経た立派な銀杏並木ではありませんが、それでも紅葉のこの時期は、通りを黄色に染めて明るい空間を造り出しています。

Photo

Photo_2

見上げればお日様の光を浴びた金色の葉が空の青に映えてハッとするような美しさ。

Photo_3

よく見ると枝に付いている黄色い葉の角度がそれぞれ違って、全体として繊細な形を造っているんですね~。

足元に目をうつすと、イチョウの葉が吹き寄せられ小さな黄色いじゅうたんに...。通りを車が通ると、他の木の落ち葉と混ざり乾いた音をたてて、ふわっと舞い上がるのもいいものですね。秋の深まりを感じながらのウォーキングでした。

    「 金色の  ちひさき鳥の  かたちして

                 銀杏ちるなり  夕日の岡に 」

                                   与謝野 晶子

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ←ランキングに参加中! 60歳代バナーをクリックよろしく~(^-^)


コラム 「清貧の独裁者 朴正煕」

2012年11月09日 | 読書

前回、前々回にこのブログでふれた『尖閣諸島・竹島が日本領土である理由がわかる本』の1章~3章のそれぞれの章の最後に、コラムと名付けられた1ページがあり、李承晩、朴正煕、李明博の3人の韓国大統領の人物短評が載っています。2章の最後は「清貧の独裁者 朴正煕」というタイトルのコラムになっています。それによると.....
Photo
<コラム>

軍人の朴正煕がクーデターで実権をにぎった1960年代の韓国は、政治の無能と朝鮮戦争により世界の最貧国と呼ばれ、汚職にまみれた官僚達のみが贅沢をする最悪の国であった。

朴正煕は貧農の出身であったが、日本統治時代であったことが幸いし、貧しい家の朴も小学校に通うことが出来た。その後優秀な成績で日本の陸軍士官学校を卒業し、戦後は韓国に戻り、韓国軍に入隊。1957年に陸軍大学を卒業して昇進を重ねた。

1961年のクーデター後、腐敗政治家の排除、治安向上の為の風俗店やヤクザの摘発と善政を行った朴だったが、共産デモに対しては弾圧に近い厳しい取締りを行った。

1963年に軍を退役し大統領選に出馬し当選。その後、急激な経済発展に導く政策を実行し、漢江の奇跡と呼ばれる経済成長へと繋がった。そして日本と日韓基本条約を締結、韓国に真の戦後をもたらした。酔うと陸軍士官学校時代に覚えた日本の軍歌を歌ったという朴は、個人資産が皆無の清貧な大統領であった。

竹島については、「日本と揉め続けるのであれば、いっそあんな島など爆破してしまえ」と発言したとも伝わっている。それは表には出さないものの、日本への親しみを隠し持っていた朴大統領の本音であったかもしれない..... と、こんな調子でコラムは結ばれています。


コラムに書いてある事ではないですが、今年の夏頃、朴大統領の長女で、韓国の与党「セヌリ党」の大統領候補公認が当時最有力視されていた朴槿恵氏が、父のこの竹島爆破発言で攻撃され、窮地にたっているとの新聞記事を見たことがあります。大統領在任中の竹島爆破発言が報じられたのは、ずっと後の2004年頃だそうで、韓国では7~8年前の報道を根拠に40年以上前の発言をめぐって攻撃しあっていることになりますね。不思議な国ですね~。

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ←ランキングに参加中! 60歳代バナーをクリックよろしく~(^-^)

 


『尖閣諸島・竹島が日本領土である理由がわかる本』(2)

2012年11月07日 | 読書
前回ブログ記事で、『尖閣諸島・竹島が日本領土である理由がわかる本』の中の尖閣諸島の章を紹介しましたので、今日は竹島の章を見ることにしましょう。
Photo

① 竹島の存在は江戸時代から幕府に知られており、人が居住する事こそなかったが、漁師が島に上陸する事は度々有り、日本の島という認識はあった。

② 江戸時代は、竹島は竹島という名称ではなく、「松嶋」と呼ばれていた。その「松嶋」から87Kmほど西の鬱陵島がこの時代には「竹島」と呼ばれていたが、そこに混同が発生した事で竹島問題が複雑になったという側面がある。

③ 1667年に出雲藩士の斉藤豊仙が『隠州視聴合記』を著わし、日本の北西限領土として松嶋(現竹島)と竹島(現鬱陵島)について記述している。松嶋(現竹島)を領土として記した最古の文献という事になるが、日本政府が竹島を領土とした根拠の一つに、この『隠州視聴合記』がある。

④ 鬱陵島(江戸時代の竹島)については、歴代の朝鮮王朝もその存在を認識していた。古代にはウ山国として国家を形成していた鬱陵島もいつしか新羅、女真族、朝鮮など様々な勢力に支配された後、仮倭(朝鮮人が倭人を装って海賊行為をする事)の拠点となり、鬱陵島の島民が朝鮮半島の村を襲って略奪を繰り返したことから、1417年以降朝鮮国は鬱陵島へ渡る事を禁じ、人を住まわせない政策を取った。

⑤ 江戸時代に入り、その無人の鬱陵島に米子の回船業者、大谷甚吉が渡海の願いを出し、幕府及び鳥取藩が許可を出した。幕府が日本の領土として鳥取藩の漁師に漁労を許可した後、朝鮮からの密漁者(朝鮮政府は渡航を禁じていたので)と出会い幕府と朝鮮とで鬱陵島についての領有権争いが発生する。幕府と朝鮮とで交渉が持たれ、経過は省くがこの時に幕府は迂闊にも竹島(現鬱陵島)を朝鮮のものと認め、日本人の渡航を禁止した。当時一流の学者であった青木昆陽などは、この幕府の裁定に将来に禍根を残すものと批判的であった。

⑥ 幕府は公式に竹島(現鬱陵島)の領有をあきらめ渡海も禁じたが、松嶋(現竹島)についてはあくまで幕府の支配下にあるものと判断していた。

⑦ 1836年、今津屋八右衛門という回船業者が竹島(現鬱陵島)で木材を伐採して死罪となっているが、裁判記録中に「最寄松島江渡海之名目を以、竹島渡れリ」とある。日本の島である松嶋(現竹島)に渡るという名目で渡航禁止の竹島(現鬱陵島)渡ったということであるが、この一事は明らかに竹島(当時の松嶋)が日本の領土として扱われ司法権、行政権がそこで行使されていた事の証拠である。

明治政府は上の①~⑦を前提として、無人島であり朝鮮の司法も行政もまったく関与していない松嶋(現竹島)を1905年に島根県に編入したのである。

講談社文庫、明石散人著『新説 謎解き日本史』では、明治政府が1905年にそれまでの松嶋を、竹島と命名し島根県に編入したのは、「竹島(現鬱陵島)をなぜ日本領にしないのか」という不満を表面上かわすための為の姑息なテクニックであったと推測しているのだそうです。

歴史的には現在の竹島という名称はこの時(1905年)からのもので、それまでの文献で竹島とある場合は、それらはすべて「鬱陵島」を指しているのだそうです。

この本では、現在の竹島について、韓国が自国の領土だと主張する根拠を、下の①~③の様にあげています。


① 鬱陵島、ウ山国は朝鮮古来の島である。このウ山国が現在の竹島で、竹島が韓国の領土であることは明白である。

② 日本の林子平が『三国通覧図説』において竹島を朝鮮のものだと明記している。

③ 1905年に日本が竹島を島根県に編入したが、その通告は日本が韓国から外交、軍事権を奪った後であり、侵略である。


韓国では上の①~③について、幼い時から繰り返し国民に教え込む事で、竹島領有の正当性をアピールしている。なので現在の韓国民のほとんどが、一点の曇りもなく真実であると信じ、それ故韓国が正しいと思い込んでいる。

本書では、上の①~③の韓国側の根拠について、「韓国が主張する根拠は正しいのか」という項目を
設けて下の様に丁寧にそれを否定しています。

① については幕府の裁定が正しかったかどうかは別にして、江戸幕府は確かに鬱陵島(当時の竹島)について韓国の領土として認めている。問題はウ山国が現在の竹島であるかどうかである。飲料水がなく農地もない断崖絶壁の小さな小島に、ウ山国が存在すると考えるのは不自然である。素直に考えると鬱陵島がウ山国であると考えるのが普通である。下の写真の様に朝鮮の地図、1530年の八道総園では、ウ山島と鬱陵島が描かれているが、ウ山島は鬱陵島より韓国寄りに描かれている。明らかに現在の竹島と認識が異なる。
Map <韓国の地図、八道総園>

②については、林子平の『三国通覧図説』において竹シマとあるのは現在の竹島ではなく鬱陵島のことである。

③については、日本が竹島を島根県に編入したのは、確かに1905年であるが、これはその前年に中井養三郎より「リャンコ島領土編入並に貸下願」が提出されたからで、韓国の政治情勢とは無関係である。リャンコ島とは現在の竹島の事で、フランス人が発見した島の名前がリアンクール島であったこと、二つの島であったことからの名称である。日本が韓国から領土を奪うつもりであれば、竹島ではなく鬱陵島や済州島を奪うであろうし、当時の日本にはそれが可能であった。

竹島は現在韓国が不法占拠しているが、なぜこのような事態になったかを見ると、1948年李承晩が大韓民国建国を宣言し、大統領に就任。韓国政府は竹島を韓国の領土とするように、日本の施政権を持っているアメリカに申し入れたが、ラスク国務長官補から、韓国大使に宛てたいわゆる「ラスク書簡」により、「竹島(韓国名独島)が朝鮮の領土であったことも主張されたこともない」と一蹴された。

竹島を日本領とした内容のサンフランシスコ平和条約が発効する1952年4月28日直前の4月25日に李承晩は李承晩ラインを引いて竹島を自国領と主張。これにより日本漁船は拿捕、銃撃の対象となり、この後、抑留者数、3929人、死傷者数44人を数えるに到った。

竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決される事が望まれるというアメリカの意向も、日本からの国際司法裁判所に付託するという提案も、韓国は無視し続けている。1965年の日韓漁業協定による李承晩ライン廃止後も、韓国は竹島に桟橋、灯台、ヘリ-ポート、砲台などを次々と設置し、実効支配を強めて今日に到っている。

ずいぶん長い記事になってしまいましたが、以上が竹島についての本書の主張を要約したものです。


近隣の国々とはいい関係を保っていかなければ、という気持ちはわからないではないですが、それはそれとして、日本は自国の大切な領土を取り戻す為にも、この様な不法占拠状態を黙って見過ごすのではなく、学校で子供達に竹島に関しての正しい歴史を教え、又国際司法裁判所に訴え続け、国際社会に対しても、機会ある毎に竹島の現在の状態を説明していく必要があるのでは、という気持ちを強く持ちます。
 

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ←ランキングに参加中! 60歳代バナーをクリックよろしく~(^-^)