日々の暮らしに輝きを!

since 2011
俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~最晩年~(73)

2016年09月27日 | 俳人杉田久女(考)

久女年譜によると、大東亜戦争がますます激しさを増していく昭和19(1944)年7月に久女は実母、赤堀さよを亡くしました。90歳だったそうですから天寿をまっとうしたといえるでしょう。

その葬儀の為に上阪。葬儀後に上京し鎌倉に住む、夫が出征中の長女昌子さん宅を訪ねています。

久女は諦め切った境地にあったようで、いつになく焦りも消えて落ち着いていたのは昌子さんにとって意外に感じられる位でした。穏やかで子供と優しく遊んでくれたそうです。

しかし昌子さんは、久女が生きる喜びの俳句を奪われてしまったことを知っているので、俳句への未練を断ち切れず、まだ断末魔の苦しみがあとを引いているとも感じたようです。また久女は整理した句稿をこの時も肌身離さず持って来ていたとも書いておられます。

「何が一番つらい?」と聞いた昌子さんに、久女はお父さん(夫、宇内)が毎日、「貴方のような人は虚子さんでさえ愛想をつかすでしょう」と大声で言いつのるのが、一番つらいと答えたそうです。除名直後からずっと夫にこの様な言葉をあびせられ、ただでさえ生き難い終戦間際のこの時期の久女の日常
を思うと、これを読む私まで胸が苦しくなってきます。

久女は、「俳句より人間です」「私は昌子と光子の母として死んでゆこうと思う」「子供を大切に育てなさい」などとポツポツと話し、「句集も、こんな世になっては出せる望みもないから、仕方ないと思う。だけど私がもし死んでからでも、機会があったら、きっとだしてほしい。いいね、忘れないでね。死んだ後でもいいから」と長女昌子さんに言い残し、この言葉が遺言になりました。

その夜は
何年振りかで母娘が枕を並べて眠りました。このひと時は久女には得難い平安であったであった様に思われます。

そして大島紬のモンペの上下を着て小倉へ帰って行ったのが強く記憶に残っていると昌子さんは記しておられます。この時が母、久女と長女昌子さんとの永遠の別れになりました。

この頃の夫、宇内は空襲警報が出ればその都度夜間でも学校に駆けつけなければならず、久女は一人風呂敷包みの句稿を抱え防空壕へ避難する日々だったようです。句稿はこれまでの久女の生命をかけた確かな証、軌跡と言えるものでした。

終戦直前で明日の命の保証も無い中、久女にとっては、もはや身の回りの品々への執着などはなく、大切なものはただ一つ、自らの腕の中の句稿のみでした。

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)




俳人杉田久女(考) ~晩年~(72)

2016年09月24日 | 俳人杉田久女(考)

久女が句稿の整理をした翌年の昭和15(1940)年に、彼女は自身を俳句に導いてくれた実兄の赤堀廉行を亡くしました。

そしてその翌年の昭和16年10月には久女の次女光子が結婚し、結婚式に上京、この時鎌倉在住の長女昌子さん方に泊まったようです。『杉田久女句集』の最後には昭和17年光子結婚式に上京 三句 の前書きがあり、次の3句が置かれています。

      「 歌舞伎座は 雨に灯流し 春ゆく夜 」

      「 蒸し寿司の たのしきまどい 始まれり 」

      「 鳥雲に われは明日たつ 筑紫かな 」

この3句は研究者を悩ませているようです。というのは、実際は次女光子の結婚は昭和16年10月なのに句には昭和17年の前書きがあること、句には「春ゆく夜」となっているのに結婚式は10月だったなどです。なので、この3句は次女光子の結婚の折に詠まれた句ではないとしている研究書も多々あるようです。

二人の娘が片付いた昭和16年の秋には久女は母としての務めも終わり、同人除名という痛手を負い、生きる希望もないと言いながらの日々であったとしても、気持ちにホッとしたものもあったでしょう。

除名後の苦しい胸のうちを誰に話すすべもなく、泣き言を言うことも嫌いな久女は、自身の句や身辺の整理をする一方、考え出すと苦しいので、思ったことを吐き捨てる様に書くと、少し気が鎮まると昌子さんに話したそうです。

翌年の昭和17年には夫、杉田宇内の父杉田和夫が亡くなり、その後しばらく夫の郷里松名で過ごしました。

昭和18(1943)年頃から大東亜戦争がますます苛烈になり、空襲警報が鳴ると夫は学校に警備に出かけて行き、久女は大切な句稿を風呂敷に包んで抱え、一人で防空壕でうずくまっていたようです。

配給だけの生活ながら、時折卒業生が野菜などを届けてくれると、この頃の年譜にあります。


にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)

 



 


俳人杉田久女(考) ~句稿の整理~(71) 

2016年09月21日 | 俳人杉田久女(考)

年譜によると『俳句研究』の昭和14(1939)年7月号に、久女は「プラタナスと苺」として42句をのせています。これらの句はその前月に上阪して宝塚に住む実母を訪ね、1ヶ月程滞在した時に得た句です。下の句はその42句の中にあるものです。

      「 つゆの葉を かきわけかきわけ 苺摘み 」

      「 朝日濃し 苺は籠に つみみてる 」
 
この42句が久女が発表した最後の句である、としている研究書が多い様ですが、この年(昭和14年)の8月から9月にかけて、久女は集中的に過去の句稿を整理しています。句を清書
しながら、思い浮かんだ事も一緒に書き込んだようです。

同人除名から約3年経ったこの時期に、なぜ句稿の整理をしたかということですが、師の虚子に何度序文懇願をしても序文が貰えないことや、また上京しても虚子に会うことも叶わなかったことから、この頃までに久女は同人復帰の可能性も、虚子の序文も絶望的であると、
 ハッキリ悟ったと考えられます。

研究書によると、整理した句稿の所々に清書した日付けが記されていて、それによると昭和14年8月28日、29日、30日、9月5日、11日、16日、17日とあるそうで、昭和14(1939)年の8月から9月にかけて集中的に清書を進めていたことがわかります。

整理された句稿は116枚あり、巻紙を約30㎝から50㎝位に切って右肩をコヨリで綴じてあり、久女独特の達筆で雄渾な文字の句が並んでいるのだそうです。下は私の手元にある『杉田久女遺墨』の中にある整理された句稿の写真を写しました。
<整理された句稿>

句を清書しながら、思い浮かんだことも書き込んだようですが、病気が治り健康を与えられ、子供が立派に成長したことを神に感謝し、天から授かった作品をまとめておくために、百十六枚の句稿を清書したことが記されていて、句集出版のことには全く触れず、悲運を恨む言葉は一つもなく感謝と久女の満ち足りた思いがつづられているのだそうです。

私は平成23年に北九州市で催された「花衣 俳人杉田久女」展でこの句稿の一部を見ましたが、虚子のいう様に決して〈乱雑に書き散らされたもの〉ではないのは明らかでした。ガラスケース越しでしたので内容を細かに読むことは出来ませんでしたが...。

全句を清書する作業を終えた日に、最後の書き込みとして〈之全く神の御護りと感謝してここに百十六枚の俳句を全部清書し、つつしみて父母の大恩に。まづはここ迄われ自らをすてえざりし二女の為に心から喜びきよらかなゆたかな平和な心でこの稿を終る〉とあるそうです。

この116枚の句稿は、久女の長女石昌子さんがずっと大切に手元で保管されていましたが、現在は北九州市小倉北区にある久女ゆかりの圓通寺に寄贈されています。

句集としての体裁を整えられなかったけれど、自らの俳句をまとめ記録を残しておくという決意表明は、自身の作品の永遠の価値を確信するとともに、久女の俳人としての遺言状ともいえるものだと思います。

そしてこの句稿を清書し終えた時に、久女は『ホトトギス』と俳句から訣別したのではないでしょうか
。この時久女49歳でした。

次第に
戦争が激しさを増していきますが、この時期の久女の唯一の楽しみは、整理をした句稿の原稿をひもとくことだったように思われます。

戦争が苛烈になり空襲に度々見舞われるような時期になった時でも、久女はこの自身の句稿を大切に抱えて防空壕に避難したと言われています。


にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)









俳人杉田久女(考)~かっての句友達の句集出版~(70)

2016年09月18日 | 俳人杉田久女(考)

昭和12(1937)年に始まった日中戦争は、次々と戦局を拡大しつつありました。それでもまだ昭和15年頃までは句集を出せる社会的な余裕はあったようです。

昭和14(1939)年には長谷川かな女の句集『雨月』が、虚子の序文とともに上梓されました。私はこの序文を見ていませんが、研究書によると慈愛に満ちた序文らしく、久女があれほど懇願しても与えなかった序文を、既に『ホトトギス』を離れている長谷川かな女には快く与えているんですね~。何となくしっくりきませんが...。

昭和15(1940)年には中村汀女の『春雪』、星野立子の『鎌倉』が姉妹句集として出版されています。高浜虚子はその序文で、汀女
立子の句風は異なっているが、「清新なる香気、明朗なる色彩あることは共通の風貌である」、また女性の俳句は「昭和時代に於いて成熟し男子を凌ぐものが出て来た。その代表と見るべきものはこの姉妹句集である」と最上級の評価を与えています。

虚子の折り紙付きのこの姉妹句集出版により、中村汀女と虚子の愛娘星野立子の俳檀での地位はゆるぎないものになったのである、と多くの研究書が述べています。

昭和15年10月には福岡の竹下しづの女の句集『颯』が下の虚子の序句付きで出版されました。

        「 女手の おゝしき名なり 矢筈草 」  虚子

この句集は時節柄、紙質も悪く小型のものだそうですが、田辺聖子さんはその著書で<虚子の息がかかっている俳壇では虚子ににらまれたら、久女はそれすら持てないわけである。どんなに切なかったであろうかと思うと、胸が痛む>と書いておられます。

この様にかって自分と同じ様に『ホトトギス』で活躍した女流俳人の句集が次々に出版されてゆく中で、久女は句を発表する場が閉ざされ、句集出版の望みもありませんでした。まるで抜け殻のようになって、一人で野の草花を摘んで絵を描いたりして毎日を過ごしていたと、久女の長女昌子さんは書いておられます。

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)


 

 

 


俳人杉田久女(考) ~除名後の句作~(69) 

2016年09月13日 | 俳人杉田久女(考)

久女は昭和11年の『ホトトギス』同人除名後も、『俳句研究』に句を発表し、『ホトトギス』にも投稿していました。たまに乞われれば地方紙に文章も書いています。除名後は句作を断ったというのは間違いの様です。

昭和12年5月19日~20日にかけては、九大英彦山研究所で過ごしたらしく、
平成23年の「花衣 俳人杉田久女」展で、そこで多くの蝶を写生し、それに文章を添えたものが展示されていました。それが図録にも載っていますが、その中に〈「蝶おうて春山ふかく迷ひけり と詠みしはむかし也 今はむしろ 美しき蝶々も追わずこの山路」〉の自嘲が記されていて痛々しい感じがします。

この時の句でしょうか、こんな句があります。

        「 蝶の名を きゝつゝ 午後の研究所 」

「美しき蝶々も追わずこの山路」や「一人静か二人静かも摘む気なし」の様に、句に否定形を用いているのは、この頃の久女の心持ちを反映しているのかもしれません。

久女年譜を見ると、昭和12年から14年にかけて毎年英彦山に滞在しています。そこで絵や文章を書いていた様で、以前から好きだったその地の自然に身をゆだねることで、やり場のない心の傷を癒していたのでしょうね。

昭和13年~14年頃書いたもので、英彦山の植物の絵に文章を添えたものの写真が『杉田久女遺墨』にも載っています。これを書いている日々の久女の心中を思うと、胸がつまります。





この頃長女昌子さんは、母の久女から生きる張り合いを失った心境を吐露した手紙を受け取るたびに、心が痛んだと記されています。

『ホトトギス』に載った最後の句は昭和13年7月号の次の2句なのだそうです。句に以前の久女らしい元気さ、ハリが感じられないのが痛ましいですね。

        「 苺摘む 盗癖の子を あはれとも 」

        「 百合を掘り わらびを干して 生活す 」

 

(上の2枚の写真は『杉田久女遺墨』に載っている写真を写しました)


にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)