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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~「国子の手紙」について~ (79)

2016年10月31日 | 俳人杉田久女(考)

久女の師、高浜虚子は久女の死から2年8ヶ月後に『文体』という雑誌に、久女が昭和9年に虚子に出したとする手紙のうち19通を選んで、創作「国子の手紙」を発表しています。この作品は現在、『高浜虚子全集第7巻小説3』に納められているので、誰でも読むことが出来ます。


虚子は創作と言っていますが、
久女と彼女の長女昌子さんからの手紙に、虚子が短い解説を幾つか付けたもので構成された小説で、とても創作とは言えない不思議な奇妙な作品です。虚子は創作ということにして、周到にあらかじめ逃げ道を作っておいたと言えなくもないでしょう。
<高浜虚子 1874-1959>

虚子が久女からの手紙が不愉快だったとしても、死者に鞭打つ様なこんな大げさな形式をとって、私信を発表する必要が、何故あったのでしょうか。

彼はこの「国子の手紙」の中で、一言も同人除名の理由には触れず、ただ「常軌を逸していた」「狂人」という点のみを強調し、久女が狂っていたという風説を流すのだけが目的であった様に思えます。


普通に読むと、この久女の手紙は尋常な人が書いたものとは思えません。少なくともその頃の俳壇事情について、また当時の杉田久女の置かれた位置や心境について、ある程度知っていなければこの手紙の意味するものは解らないと思います。

久女がこれらの手紙を虚子に出したとされる昭和9年は、久女の才能が全開したといわれている時期ですが、昭和8年、昭和9年と二度の上京をして師の虚子に序文を懇願しても、虚子は序文を与えず、出版広告まで出た句集出版を久女の意志で中止したとされている年です。

久女にすれば、いくら考えてみても敬慕する師、虚子から序文を貰えない理由が判りませんでした
。それで妥協の出来ない一途な性格の久女は、「国子の手紙」にみられるような尋常ではない身もだえする様な凄まじい手紙を、虚子あてに書く様になったのだと思います。

この様な手紙を受け取った虚子は、久女がこんな手紙を書くようになった理由は判っていたはずですが、それでも序文を与えることは決してしませんでした。そればかりか、彼女から来たこれらの手紙を〈これはおかしい、尋常ではない〉とし、散逸させずにとりのけていた様です。

久女の本音が臆面もなく出ている、泣訴、哀願、強訴
のこれらの手紙を〈これはおかしい、尋常ではない〉として、とりのけておくという虚子の心の動きを、私は非常に興味深く思います。なぜ弟子の久女がこの様な手紙を書くようになったのかと考える心というか、そういうものは、虚子の中には全くなかったようです。

田辺聖子さんはその著書『花衣ぬぐやまつわる...』のなかで、〈虚子のある種の「おそろしさ」を、久女は知らずに虚子に憧れ、虚子の愛顧するものを羨んだのである。私は久女の世間知らずというか、ある種の無智を、哀れまずにはいられない〉と書いておられます。私も同感です。

次回は創作「国子の手紙」の内容について少し触れてみようと思います。

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今年も筆らんが咲きました

2016年10月27日 | つれづれ

今年も筆らんが咲きました。


最初の年に咲いたのは、1、2輪だったのが、

毎年少しづつ増えて今年は10輪になりました。

例年、筆らんが咲く頃は、

清々しい、これぞ“日本の秋”といったお天気が続くのだけれど、

今年はどうしたことか、パッとしないお天気続き。

気持ちのよい秋晴れの日はあまりに少ない。

野菜類の高騰も、このお天気と関係があるらしい。



気が付くと我が家の狭い花壇は、まだ夏の風情。

夏に咲いた、アメリカンブルーやポーチュラカが、

ボウボウ伸び放題になっている。


早く来春のお花や球根を植えなくてはネ(^-^)



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秋は集いの季節

2016年10月23日 | お出かけ

秋は集いの季節。

9月末から11月初めにかけての土曜日は、

友人達と会う予定がびっしりで空白なし。

サークルの会、同窓会、同期会、
仲良し会、女子卒業生の会、

恩師を交えた会食で毎週忙しい(^-^)



昨日の土曜日は10月8日に催された同窓会で、

卒業以来初めて会った友達を交え3人で、カフェでお茶タイム。

同窓会の集合写真を見ながら、学生時代の話、彼女のビジネスの話、

友人たちの消息など話は尽きることなく、

場所を替えて、またまたお茶タイム。

いつの間にか夕方になり、名残り惜しいけれど再会を期してお開きに。



その後、一人で駅ビル内のお店で、

孫達を喜ばせようと、ハロウィングッズを見て廻る。

こんな大きなプラスチック製のお菓子入りカボチャをゲット(^-^)


昨日は何となくウキウキした一日だったなぁ~


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俳人杉田久女(考) ~本当の久女の箱根丸見送り風景~(78)

2016年10月21日 | 俳人杉田久女(考)

久女の箱根丸見送り風景については、北九州市在住の増田連さんが、著書「杉田久女ノート」の中で詳しく検証されています。この本は杉田久女研究書として、久女の長女、石昌子さんの書かれたものとともによくまとまった労作で、足を使って調査研究した本であるとの評価を今日受けています。
<増田連著『杉田久女ノート』>

著者の増田氏は虚子の『渡仏日記』、日原方舟が俳誌『無花果』4月号に載せた「舟・人・梅」という文章、矢上蛍雪の書いた「門司の虚子先生」、久女の弟子で、久女が指導していた俳句サークル小倉白菊会々員の縫野いく代さんを直接取材した話から、この時の久女の行動を追っておられます。


綿密に調べた結果、箱根丸見送り時の久女の行動は(63)の記事にある通りでした(私は(63)の記事を『杉田久女ノート』を参考に書いています)。

◎ 久女一行が小舟で出帆を見送ったという事実はない。出航時間が来たので皆で岸壁から見送ったと、この時一緒だった久女の弟子の縫野いく代さんがそれを証明している。

◎ 帰路は虚子の『渡仏日記』から、門司に寄港していないことを突き止めた。虚子の文章は全くの虚構である。

◎ 虚子が「一字も読めなかった」という色紙については、矢上蛍雪が「虚子たのし 花の巴里へ 膝栗毛」という短冊(虚子は色紙と言っているが)の存在を彼自身の文章の中で認めている。何故虚子だけが一字も読めなかったのか。

と結論付けておられます。この様に虚子が「墓に詣りたいと思ってをる」で述べている内容は、
事実と大きく違っています。なのでこの一文の箱根丸見送り事件に関する部分は、今日、高浜虚子の虚構文であると指摘されています。

私は久女が異常な行動をしたかの如く読者に印象付けるために、虚子は嘘を書いてまで、こんな文章を発表したのだと思います。

その目的は(76)の記事でも書いた様に、虚子自身が勧めて俳誌『玉藻』を主宰させた
愛娘の星野立子が、実力ある俳人杉田久女の影に隠れてしまうのを恐れた為に除名したという、虚子の胸の内だけにある久女除名の本当の理由を、彼は公言できないのは当然でしょう。ですから同人除名処置を、久女の異常性格、狂気にからめて正当化しようとする意図があったのではないでしようか。

この「墓に詣り度いと思ってをる」という文章は、発表された当時は虚子のねらい通り、久女の側に一方的に非があるように思われていましたが、時が経つに従って、それが事実ではないことを示す証言や資料が現れると、逆に高浜虚子側の問題点を浮き彫りにするようになりました。

高浜虚子が久女を同人から除名した理由を最後まで明らかにしていない為、増田連さんの『杉田久女ノート』が出版されるまでは、箱根丸見送り時の久女の行動が、虚子の癇に障り、同人除名という処置になったのだろう、という推測がなされていました。

がしかし、『杉田久女ノート』にあるように、事実が大きく歪められているため、この箱根丸見送りにおける久女の行動が同人除名の真の理由ではないことは明らかです。

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俳人杉田久女(考) ~高浜虚子が書く久女の箱根丸見送り風景~(77)

2016年10月20日 | 俳人杉田久女(考)

前回(76)の記事で書いた様に、久女の師、高浜虚子は彼女の死後10か月後に自身が主宰する俳誌『ホトトギス』に「墓に詣り度いと思ってをる」という不思議な一文を載せました。
<高浜虚子 1874-1959>

この文中で虚子は、久女の
「常軌を逸して手がつけられない振る舞い」や「狂気説」を人々に印象付け、どこが「常軌を逸して手がつけられない」かを、虚子らしい執拗さで描き出しています。

(63)で書いた様に、久女は昭和11年2月にヨーロッパに渡航する虚子を日本での最後の寄港地、門司港で見送りました。虚子は「墓に詣り度いと思ってをる」の文中で、この時の久女のことに触れています。

それは<最後に久女さんに会った時のことを思い出してみよう>で始まり、<
出航時間が来て、虚子の乗った船が門司港を出港する時、「虚子渡仏云々」と書いた旗を立てた一艘の小舟が近づいて来た>と続きます。<その小舟には女性達が満載され、その先頭に立つ久女は、女達とともに千切れるほどに自分に向かって白いハンカチを振った。女性達は久女の弟子達であった>

甲板にいる虚子に船客の視線が向けられるなかで、その小舟は汽船に遅れないでいつまでも付いて来た。<私は初めの間は手をあげて答礼していたが、その気違いじみている行動にいささか興がさめて来たのでそのまま船室に引っ込んだ>と書いています。

これが高浜虚子が書く、久女の箱根丸見送り風景です。

帰国の際も門司港に寄港したが、人々に迎えられて自分が上陸した後に、久女は何度も訪ねて来て、機関長に面会を求め、「何故に私に逢わしてくれぬのか」と泣き叫んで手の付けられぬ様子であったという。その時久女が書いた色紙を機関長が自分にみせた。<乱暴な字が書きなぐってあって一字も読めなかった>と記しています。

久女の箱根丸見送り風景については、北九州市在住の増田連さんが、著書「杉田久女ノート」の中で詳しく検証されています。次の記事でこの本について見てみましょう。

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