俳誌『ホトトギス』が昭和4(1929)年の12月号で400号となる記念として、11月半ばに東京では祝賀会が開かれ、講演会や句会、記念晩餐会など様々な行事が催されました。
そして11月23日に『ホトトギス』400号記念の祝賀の意をこめた、第3回関西俳句大会が大阪中央公会堂で催され、久女は小倉から駆け付けました。
久女はこの大会に、小倉から転居して大阪手塚山に住んでいた橋本多佳子を誘うとともに、その時、彼女を多くの俳人に紹介しています。〈久女伝説〉として、久女は才能ある他者を妬んだなどと言われているようですが、このことから見ても、才能ある人への妬みや排斥の狭い気持ちは持ち合わせていない女性の様に思われるのですが...。
多佳子が生涯の師となった山口誓子に会ったのはこの時が初めてでした。昭和4、5頃の多佳子は、下の様なホトトギス調の写生句が時々雑詠欄にとられています。
「裏門の 石段しづむ 秋の潮」
久女が俳誌『天の川』に載せた「大会印象記」によれば、講演は高浜虚子の「句作40年」の他、高弟達の講演もあり、夜の祝宴では弟子たちの余興も賑やかに行われ大変な盛り上がりだったようです。そして最後に虚子先生の万歳三唱をして、宴はお開きになったと結んでいます。
その夜はかっての句妹、中村汀女の家に泊めてもらった様で、この時、汀女は30歳。二人の子の母親でした。この頃、汀女の夫が大阪税関に転任していたので汀女は大阪住まいだったようです。
この会に大阪在住の橋本多佳子を誘っていること、この時、汀女宅に泊めてもらっていること、又、後に久女が俳誌『花衣』を創刊した時に、多佳子や汀女に声をかけ投句を促していることからみても、彼女らと折々音信を交わし交流が絶えていなかったのでしょう。
〈久女伝説〉では狷介で独占欲強く、友人を持てなかった様にいわれていますが、久女の生き方を丹念にたどると、友人との心の交流を大切にし、途絶えがちな付き合いの糸を丁寧に結んでいるように思われます。