久女年譜によれば、昭和5(1930)年も多くの句を作り、俳誌に文章を書き、2月には京都法然院を尋ねたりと、心せわしくも充実した年だったようです。
昭和5年6月には高浜虚子の次女星野立子を主宰として、女性を対象とした俳誌『玉藻』が創刊されました。
昭和の初め頃から長谷川かな女、久女達と肩を並べて名前の出て来た高浜虚子の次女、星野立子に父の虚子が誘いすすめて、女流俳人育成のために『玉藻』を創刊、主宰させたのです。『玉藻』発行所は『ホトトギス』発行所内におかれ、虚子は立子と雑詠欄を共選し、巻頭言「立子へ」を毎号執筆し全面的に支援しました。
久女は先に述べた様に俳句実作だけではなく評論もする人で、虚子の次女立子の句についても早くから注目し論じています。この頃の星野立子の句をいくつか挙げると
「大仏の 冬日は山に 移りけり」
「松落葉 しきりに降るよ キャンプ村」
久女は〈立子さんは昭和女流の最先端にたって、女流俳句をどしどし開拓してゆく新人である。豊かな清新な感覚と、自由な素直な澄み切った写生で、大正の人間描写から一歩自然界へ凝視をむける人〉と評しています。
この他にも久女は立子の句を様々な自身の俳論の中でも批評していて、恩師虚子の愛娘ということで、かなり意識的な取り上げ方である、としている研究書も多いようです。
『ホトトギス』の強大なバックと、父、虚子の庇護を背に、すんなりと主宰俳誌を手にした立子に、久女はある種の羨望と悲哀を感じたのは否めないでしょう。この時立子27歳、久女40歳でした。
この頃、久女は、自分もいつかは俳誌が持てたら、という気持ちになったのではないでしょうか。
今年も残り少なくなってまいりました。いつも拙いブログにお越し下さいましてありがとうございます。今年は5月の終わりから無謀にも「俳人杉田久女(考) 」を書き出しまして、自分の力不足をはっきり実感した年になりました。一人の女性俳人の生涯をたどるなどという事は、私の様な者には不可能だと感じられ、でも乗りかかった船なので(^-^)、何とか最後までたどり着きたいという気持ちもあり、毎日を悶々と過ごしています。
暖冬とはいえ、当地も昨日今日と少し冷えてまいりました。どうぞ皆様お風邪など召されません様に、お元気で年末年始をお過ごし下さいませ。新らしい年に又お会い致しましょう。それまでごきげんよう
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