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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

「俳人 杉田 久女」 展

2011年12月21日 | お出かけ

北九州市立文学館で催されている「俳人 杉田 久女」展(11月3日~12月25日)に行ってきました。

Photo_5 <ポスター>

杉田久女は小倉の地から、近代女性俳句の草分けとして、高浜虚子主宰の俳誌「ホトトギス」で活躍し、俳句史に大きな足跡を残した俳人です。

Photo_2 <杉田久女(ネットより拝借)>

当時工業都市として発展していた北九州の曇天を背景に、夏の朝の朝顔のすがすがしさを詠んだ下の様な代表作もあります。

      「 朝顔や 濁り初めたる 市の空 」

私は、この俳人の事を調べたり資料を集めたりした時期があるので、展示物には興味がありました。今回の展覧会はとてもよく整理され、句稿の他には久女直筆の手紙、絵、写真が数多く展示してあり、充実した内容でした。

久女は昭和7年に「ホトトギス」同人に推挙され、句集発行を熱望。句集には師の序文を仰ぐのが習わしで、師の高浜虚子に繰り返し手紙で序文を懇願したが無視されたとされ、今回その手紙のうちの一通と思われるものが公開されていました。恨み言はなく『三世迄も師に御従ひ申上ます 先生の死出の御供もします』などとひたすら師を慕っているのも哀れだな~と。

この手紙は、それまで順風満帆だった久女の俳句人生が、暗転し始める発端になった、師との手紙のやり取りの一部だと思われ、とても興味を引くものでした。

久女は「花衣」という俳誌を主宰していた時期があり、この俳誌は様々な事情により、5号で廃刊になってしまうのですが、今回の展覧会では5号すべてが揃えられ、しかもそれぞれ2冊ずつ展示され、久女自身が描いた表表紙と裏表紙の絵がすべて見れる様になっていました。私は5号全冊裏表を見たのは初めてだったので、感激しました(展示物は撮影禁止でした)。

Photo_4 <展覧会図録>

杉田久女は俳句界ではよく知られた人ですが、作家の田辺聖子さんが「花衣ぬぐやまつわる....わが愛の杉田久女」という本を出されてから、その名が全国に知られるようになったのは嬉しいことでした。

数ある久女の句の中で、私の好きな句は、彼女の父方の故郷を詠んだ下の句です。

      「 紫陽花に 秋冷いたる 信濃かな 」

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イスタンブール

2011年12月10日 |    トルコ

イスタンブール、その響きもエキゾチックなこの街は、西洋と東洋が混ざり合う不思議な街だと言われています。よく知られている様に、ボスポラス海峡をはさんで、西側がヨーロッパ側、東側がアジア側です。

そしてヨーロッパ側はボスポラス海峡の出口付近で西北に向かって切れ込む金角湾で2分され北側が新市街、南側が旧市街です。観光名所の多くは、このヨーロッパ側の旧市街にあります。

下の写真は旧市街と新市街を結ぶガラタ橋です。橋の向こうが新市街で手前が旧市街です。橋の上は車や人であふれ、釣をしている人も沢山いました。たもとには船が忙しく出入りし、到着した船からは人があふれ出し、橋の周りにはレストラン、おもちゃ屋、雑貨屋、お土産屋など、雑多な店が並び、多くの人々が行き交っていました。写真には写っていませんが、手前の旧市街側の背後にはモスクもあり、私はこの辺りを、とてもイスタンブールらしい場所の様に感じました。

Photo <ガラタ橋>

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よく知られた、ブルーモスクは17世紀に建てられ、6本のミナレットがある美しいイスラム教寺院ですが、聖堂内部もすばらしいものでした。周りの沢山のステンドグラスから柔らかい光が差し込み、すがすがしい、ホッとする様な祈りの場でした。

Photo_2 <ブルーモスク内部>

聖堂内の隅というか周りの一部には、女性がお祈りをする場所もありました。私は、仏教やキリスト教寺院では女性も本堂内でお祈りするのに、イスラム教寺院にはその様な場所がないようなのを、不思議に思っていましたが、ブルーモスク内にはそれがあるのを知り、何だかホッとしました。隅の狭い部分というのが残念ですが...。

Photo_3 <女性の祈りの場>

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ブルーモスクを出ると向かいにアヤ・ソフィアがあります。二つの建物は300m~400mも離れていません。ガイドさんによると、この聖堂(今は博物館)は6世紀半ばに建てられ、ビザンチン美術の最高傑作と言われているそうです。

Photo_4 <アヤ・ソフィア>

アヤ・ソフィヤは世紀頃のオスマン帝国の征服後はイスラム教のモスクになっていたのだそうです。そしてトルコ共和国成立からしばらく後の1935年に博物館として使用される事が決定され、大規模な修復作業の結果、それまで漆喰で塗り固められていた、キリスト教寺院時代の美しいモザイク画が姿を現したのだそうです。

Photo_5 <モザイク画>

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トプカプ宮殿内ではガイドさんの説明が禁止されているそうで、ガイドブックも持ち込んでいなかったので、宮殿内の建物の配置もうろ覚えでしたが、宝物館はすばらしかったです。多くの宝物はエメラルド、ルビー、ダイヤなどで装飾され、当時の帝国の威光が感じられました。

Photo_6 <トプカプ宮殿入り口>

宮殿のハーレム内はほとんどの部屋が撮影禁止でした。かっては400もの部屋があったそうですが、建て増しが繰り返された為に、窓のない通路が迷路のように入り組んで複雑でした。タイルやシャンデリアなどの装飾は綺麗ですが、全体の印象は驚くほど暗く、何だか陰惨な気もしました。

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旅の最後にボスポラス海峡遊覧をしました。お天気が最高によかったので、楽しいクルーズになりました。遊覧船はガラタ橋のたもとから出発してボスポラス海峡に架かる二つの橋の下をくぐり、ユーターンして戻って来ました。

Photo_7 <ヨーロッパ側新市街>

Photo_8 <ヨーロッパ側旧市街>

Photo_9 <アジア側>

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11月のトルコ旅行についてのブログ記事を、5編書かせていただきました。客観性のない記事になってしまった様な気もしますが、とても楽しい作業でした。  ご訪問下さった皆様、ありがとうございました。寒さも本番になって来たように思います。健康にお気をつけて、年末年始をお過ごし下さい。これからもよろしく~(^-^)

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カッパドキア

2011年12月06日 |    トルコ

コンヤから更に東へバス移動し、カッパドキアに向かいました。このトルコの内陸部を走る道の両側には、時期が晩秋なので作物はあまり作られてはいませんでしたが、よく耕されたすばらしい畑が、果てしなく続いていました。ガイドさんによると、トルコは食料はほぼ自給出来るそうで、近年は工業化を進めているそうですが、人々に何となくゆとりが感じられるのは、食料自給と無関係ではないでしょう。

Photo <果てしなく続く畑(車窓より)

カッパドキアには6000年前の火山噴火で堆積した火山灰が、長い年月をかけて侵食され出来た、異形ともいえる奇岩群があります。「妖精の煙突」とも呼ばれる巨大なきのこ群や、ラクダの形の奇岩、また何ともいえない不思議な形の奇岩に圧倒されました。そして今、ここにいる人々は、観光やそれに関するその他の仕事をしながら、ここで普通に暮らされています。

Photo_2 <妖精の煙突>

Photo_3 <ラクダ岩>

Photo_4 <不思議な造形>

カッパドキアの中心部のギョレメには幾つかの洞窟教会がありました。これらは5~12世紀のビザンチン帝国による聖像破壊やイスラム教徒による迫害などを逃れ、この地方に移り住んできたキリスト教徒によって造られました。入り口は目立たない造りですが、聖堂内には華麗な色彩の聖像画が書かれていました。11~12世紀の聖像画が多いそうです(内部は撮影禁止でした)。

Photo_10 <洞窟教会入り口>

カッパドキアには、多くの地下都市があるそうで、今回はカイマクル村の地下都市を見学しました。地下都市は地下何層にも造られ、迷路のようになっていて、通路でつながっています。その多くは5~10世紀に造られたと考えられるそうです。そして多くのキリスト教徒が迫害を逃れ、ここで息をひそめる様に暮らしていたのだそうですが、まだまだわからない事が多く、謎のままの部分が多い様です。

Photo_6 <地下都市内部>

石で出来た円盤状の扉も幾つか見ましたが、敵の侵入時にこの石の扉を転がして進路を塞いだと考えられるそうです。

Photo_7 <石の円盤状扉>

現代の人々はこの奇岩を観光に生かして、洞窟レストランなどに改良して、利用しておられました。私達が昼食をとったのもそんな洞窟レストランの一つでした。入り口に階段が付けられています。

Photo_8 <洞窟レストラン外観>

内部はこんな感じで、ロマンティックな造りです。

Photo_9 <洞窟レストラン内部>

茫々とした時間と自然と人間の営みが織り成す、幻想的な風景が広がるカッパドキアは、トルコ観光のハイライトと言えるのでは、と思いました。

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パムッカレ & コンヤ

2011年12月04日 |    トルコ

エーゲ海沿いのエフェソスから東に向かい、トルコ内陸部のパムッカレに行きました。ここには丘を流れる石灰を含んだ温泉水が、長い年月をかけて不思議な造形美を作り出している石灰棚があります。

石灰棚がある丘は、車窓からはこんな感じで見えてきました。

Photo <車窓からの風景>

丘の上までバスで上がり、上から白い石灰棚を見ました。パムッカレとは「綿の城」という意味だそうですが、丘の斜面に温泉水を満たした幾重もの白い石灰棚がある風景を、実際に目の前に見た時は感動しました!

よく雑誌などで見かける写真は、斜面の白い石灰棚を横から撮ったものが多い様ですが、観光客はその様な場所には行けないので、少し迫力不足の写真ですが、下の様な感じです。

Photo_2 <白い石灰棚>

以前はこの斜面の白い石灰棚に人が入れたのだそうですが、現在は保護の為、入場禁止でした。そして一番上のごく一部の石灰棚にだけ、人が入れる様になっていました。私も入って見ましたが、温泉水なのでほんのり温かかったです。

Photo_3 <人が入れる石灰棚>

丘の上から石灰棚越しに下の町がみえました!

Photo_4 <下の町>

パムッカレから更に東に進み、コンヤという街に行きました。ここには、テレビで見られた方も多いと思いますが、白くて長い裾が広がった衣装でゆるやかに踊る、施舞の儀式(セマ)で知られる、イスラム神秘主義のメヴレヴィ教団を創設したメヴラーナ・ルーミの霊廟があり、ここを見学しました。この霊廟は現在博物館になっています。

Photo_5 <メヴラーナ博物館>

トルコ人のガイドさんによるとコンヤは保守的な宗教色の強い街だそうで、街を歩く女性達も、裾まである長いコートを着て、髪の毛をすっぽり覆うスカーフをしている人が、他の街よりずっと多かったです。しかし人口85.7万人の街には活気があり商都として繁栄している様でした。

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ベルガマ & エフェソス

2011年12月02日 |    トルコ

トロイからエーゲ海沿いを南下しベルガマ、エフェソス(セルチュク)の遺跡を巡りました。トルコのエーゲ海沿いはオリーブの産地らしく、道筋の山の斜面にはオリーブ畑が広がっていました。

Photo <エーゲ海>

エーゲ海沿いのベルガマは、現在はこじんまりした町ですが、かってはここに古代都市がありました。丘の上にはアクロポリス、低い場所にはアスクレピオンなどの遺跡が今に残っています。

今回のツアーではアスクレピオンを見学しました。アスクレピオンは医術の神アスクレピオンを祀る神殿を中心とした神域で、ローマ時代には医療行為をする病院の役目も果たしていたらしいです。

長い石畳の参道を通り神域に入ります。この参道は、かってはアクロポリスの裾から続いていたのだそうです。

Photo_2 <石畳の参道>

下の写真では、地下道の上に穴が開いていますが、神官が外で穴の上から地下道を歩く患者に、暗示の言葉を掛けて治療を行っていた様です。

Photo_3 <地下道>

更にエーゲ海沿いを南下してエフェソス(セルチュク)に行きました。

下の写真はハドリアヌス帝に捧げられた神殿で、そんなに大きくはないですが美しい神殿でした(AD2世紀)。ケルスス図書館前門もコリント式の柱が美しい華麗な造りでした(AD2世紀)。

Photo_4 <ハドリアヌス帝神殿>

Photo_5 <ケルスス図書館前門>

多くの人々がここで暮らしていたので、公衆トイレもありましたよ。トイレ下の溝には水が流れるようになっていて、水洗式でした!

Photo_6 <公衆トイレ>

クレオパトラとアントニウスが歩いたかもしれない(?)マーブル通り。

Photo_7 <マーブル通り>

壮大な野外劇場(AD1世紀~2世紀)

Photo_8 <野外劇場>

エフェソスは、途方もない時が流れ無人となって久しい今も、そのスケールの壮大さ、華麗さにおいて、都市興亡の哀れよりも、昔年の華やぎを感じさせる遺跡の様に思いました。

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