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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~終章~ (90)

2016年12月25日 | 俳人杉田久女(考)

英彦山高住神社(豊前坊)の参道脇にある杉田久女の句碑をはじめて見て以来、40年以上の年月が過ぎました。句碑に出会って数年後に、久女が、当時私が住んでいた北九州市の旧制小倉中学(現小倉高校)の美術教師の妻であったことを知り、以来彼女を身近に感じ、新聞、雑誌などで彼女の記事が出ると切り抜いたり、久女関係の本を読んだりしてきました。

同世代の方々の書かれたブログを読むのが好きな私は、読ませていただいているうちに、自分も好きな旅行やそれまでに調べていた杉田久女についてのブログを、書いてみたいと思う様になりました。旅行ブログは旅行に行きさえすれば書けましたが、久女についてはそんなに簡単にはいきませんでした。

久女という俳人の人生を辿るなどということが、筆力、考察力が無い私に果たして出来るのか。又久女について書くとなれば、彼女の師、高浜虚子との確執にふれない訳にはいかず、それは高浜虚子批判になるのはわかっていましたので、そこに踏み込むにはためらいがありました。その様なわけで、ブログを始めて数年経つのに久女についてのブログは書き出せないままでした。

ですが私自身もだいぶ歳をとり、これまでに久女について私が感じたことを、素直な気持ちで自分なりにまとめてみたいという思いが再び強く
湧いて来て、無謀にも俳人杉田久女(考)を書き始めることにしました。

始めると色々な意味で後悔することしきりでしたが、曲がりなりにもよく最後まで辿り着けたなぁというのが正直な気持ちです。

続けられたのは久女の俳句がますます好きになり、また他の俳人達の俳句作品を鑑賞するのが楽しくなって来たからかもしれません。これは久女が私にくれた贈り物だという思いがします。

本当に拙い道端の小石の様なブログカテゴリーの俳人杉田久女(考)ですが、天上の杉田久女の御霊に、謹んでこれ
を捧げさせて頂きたいと思います。

(平成28年12月20日 記)                   
                                                          
                                                                             
                                             【完】

 
 

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俳人杉田久女(考) ~私の久女像~ (89)

2016年12月22日 | 俳人杉田久女(考)

ブログのカテゴリーに俳人杉田久女(考)を加え、杉田久女について書き出して約1年半になりますが、書くことによりそれまで自分の中にあった久女像が、より鮮明になってきた気がします。

結果的にみると、久女は高浜虚子により育てられ、しかし身内偏重の虚子により『ホトトギス』から追放されてしまいました。久女の追放が俳句の理念上からそうなったのであれば、私が何も言うことはありません。が、これまで見てきたようにそうではありませんでした。俳句理念上からの追放ではないところに久女の悲劇がある様に思います。
                     
のんきなお嬢さん育ちだった久女(当時は久)が、芸術家の妻にという願いで、美術学校出身の青年の元に嫁ぎます。しかしいつの間にか夫は絵筆を取らず田舎の美術教師におさまっていき、手の届くところにあるとみえた将来への夢や希望はうたかたの様に消えてしまいました。

そのようなことから夫婦の間には絶えず隙間風が吹いていましたが、教師の妻として二人の娘の母として生き、満たされぬ思いを抱きながらも俳句によって生き直そうとしました。高浜虚子に師事し『ホトトギス』に投句することにより、久女は次第に俳壇で認められる存在になっていきました。

その後、俳人杉田久女として彼女の人生が完結していれば、それは一つの答えを得た生涯ということが出来、夫との間には齟齬をきたしたとしても、どこか救われる思いがします。

しかし久女の場合、俳人としての生命も『ホトトギス』除名で無残にも断たれ、次第に精彩を失い10年後に誰にも看取られることなく亡くなりました。しかもそこは鉄格子のある病室でした。

久女がほどほどで妥協し心を切り替えることが出来る人であれば、晩年の不幸は避けられたかもしれません。しかし彼女は俳句に全人生をかけ又俳句に執念を燃やす人だったが故にそれが出来ませんでした。自身の才能、才華ゆえに俳句に執念を燃やし破綻したと言えるかもしれません。

『ホトトギス』に復帰困難と感じた時、それまでに誘われていた水原秋櫻子主宰の『馬酔木』に移るとか、また非常に困難な道ですが一派を立てるとかを何故しなかったのか。そうすれば違った展望が開けてきたのではと思わずにはいられませんが、しかしあまりにも虚子に連なる俳句の世界にとらわれ過ぎていたため、それが出来なかったのでしょう。

一方で、師というものは、弟子の死後までも、これ程のことをするものだろうか、という思いが私から消えません。久女没後、高浜虚子は回想文「墓に詣り度いと思ってをる」、創作「国子の手紙」、『杉田久女句集』序文などで遺族の心を逆撫でするような文章を発表し続けていました。

そしてそれらの文章を盾にした、様々な久女批判の文章も多く見られました。虚栄心が強い女、人一倍功名心が強かった、才能ある仲間を嫉妬すること甚だしかった、これらは現在でも久女を紹介する文章に時々見られる表現です。この表現は元を正せば、高浜虚子が書いたこれらの文章にかえって来ます。久女伝説などと言われるものも、おそらくこの辺りから生まれたものでしょう。

しかし近年、増田連氏、坂本宮尾氏など多くの人々の実証的研究が進み、誤りが正され、久女の実人生とフィクションが区別される様になったのは、私にとって嬉しいことです。

特に田辺聖子氏の評伝『花衣ぬぐやまつわる...』の力は大きく、そこでは従来の自己顕示的イメージから女性表現者の苦悩を真摯に生きる久女像への転換がなされています。

大正から昭和初期にかけて女流俳人の先駆けとなった杉田久女。時は流れ時代は変わっても、力強くまた優雅な久女の俳句は私達の心に訴えかけてきます。それは深い教養に裏打ちされた言語感覚、生まれながらの色彩感覚と合わせて、その句に人生の真実、ものごとの真実が詠み込まれているからだと思います。


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俳人杉田久女(考) ~私の好きな久女十五句~ (88)

2016年12月21日 | 俳人杉田久女(考)

杉田久女が生涯に残した俳句の数はそんなに多くはありません。『杉田久女句集』を紐解くと、久女といえども平凡なただごとの句も沢山ある様に思います。

しかし彼女が生み出した代表作、名吟と言われている句は、高い完成度を示し私達の胸に迫って来ます。それは執念ともいえる俳句に対する久女
の感情が、その俳句に託されているからでしょう。

「私の好きな〇〇十句」の様な表現を時々目にしますが、私の好きな久女の句はとても十句では納まりきれません。ここでは少し欲張って十五句挙げてみようと思います。

       「 花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ 」

       「 紫陽花に 秋冷いたる 信濃かな 」

       「 朝顔や 濁り初めたる 市の空 」

       「 谺して 山ほととぎす ほしいまゝ 」

       「 愛蔵す 東籬の詩あり 菊枕 」

       「 風に落つ 楊貴妃桜 房のまゝ 」

       「 灌沐の 浄法身を 拝しける 」

       「 うらゝかや 斎祀れる 瓊の帯 」 

       「 荒れ初めし 社前の灘や 星祀る 」

       「 鶴舞ふや 日は金色の 雲を得て 」

上の10句に下の5句を加えて「私の好きな久女十五句」としたいと思います。

       「 葉鶏頭の いただき躍る 驟雨かな 」

            
「 戯曲よむ 冬夜の食器 浸けしまま 」

       「 秋来ぬと サファイア色の 小鯵買う 」

       「 張りとほす 女の意地や 藍ゆかた 」

       「 甦る 春の地霊や 蕗の薹 」



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俳人杉田久女(考) ~カルテ事件~ (87)

2016年12月16日 | 俳人杉田久女(考)

杉田久女のことを調べていると、理解に苦しむ不可解な出来事に時々ぶつかるのですが、このカルテ事件もその一つです。

この事は彼女の没後に起こったことで、昭和20年10月末に県立筑紫保養院に入院した久女でしたが、その入院中の久女のカルテが、没後遺族ではない誰かによって持ち出され、さらにそれがひそかに特定の人々の手から手に渡った形跡があることです。

(62)(63)の記事に書いた増田連著『杉田久女ノート』の「その後と死」という項目の最後辺りに、〈虚子の「俳諧日記」(昭和27年8月号『玉藻』)には五月十二日 小田小石、杉田久女の病床日記を携え来るとの記載がある〉とあります。
<増田連著『杉田久女ノート』>

病床日記というと、入院中に久女がつけていた日記という意味にもとれますが、彼女が日記を書ける状態ではなかったことは誰にでもわかることです。

久女のカルテは正式には「福岡県立筑紫保養院 病牀日誌」というそうなので、虚子が『玉藻』に書いている「病床日記」と名称が非常によく似ています。

なので小田小石という人物が虚子のところに持参したのは、久女のカルテではと思われます。高浜虚子はどんな必要があって、久女のカルテを見なければならなかったのでしょうか。またどんな経緯で、遺族ではない人の手で病院から持ち出されたのでしょうか。非常に不思議に思います。

田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...』によると、北九州市在住の医師、俳人の横山白虹氏が書いた「一本の鞭」という文章があり、それには彼が昭和29年5月に橋本多佳子と共に筑紫保養院に行き、〈院長は九大の後輩だったので、久女さんのカルテの写しを所望した〉との記述があり、〈終戦直後のことで病床日誌というほどのものはなく、体温表に時々症状が記載されてある程度のものだった。暫くして送られてきたものは、写しではなく本物ではないかという気がし始めた。手擦れの具合、紙の古さ、綴穴の具合などが新しいもののように思えなかったのである。『菊枕』に出て来る独語独笑というのは、その体温表の所々に記載されてあった。(中略)私の所に送られて来たものは平畑静塔、橋本多佳子と転送されているうちに、私の所には戻って来なかった〉と書かれているそうです。

上の文章を読んだ時、私は非常に驚きました。この文章を書いた横山白虹という人物が、学校の先輩後輩の間柄を使って、自分が久女のカルテを持ち出したと言っているも同然だからです。

横山白虹という人物は久女の遺族ではない第三者ですが、どんな理由があってカルテを持ちだしたのでしょうか。又医師は何故第三者にカルテを渡したのでしょうか。しかも次々に転送されているうちに自分の所にはもどってこなかったとは、なんと無責任な話でしょう。

上の文章の中にある『菊枕』は松本清張が杉田久女をモデルに書いた小説(この小説の記事を(43)で書いています)で、彼はこの小説を書くにあたり横山白虹や橋本多佳子に取材したと彼自身で書いています。その取材の折にカルテの話が出るか、又はカルテその物を見るかしてカルテに書いてあった独語独笑という言葉を小説に使ったものだと思われます。


カルテ事件を見てきて思うのは、患者の病状に対し守秘義務のある医師が、患者のカルテを遺族ではない第三者に渡したこと、また渡すことを要求した第三者がいたという事実の不可解さです。この様なことから、久女をとりまく一部の人々は、彼女の死を好奇で加虐性を帯びた目で見ていたと感じます。

田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...』によれば、戦後の一時期、病院の綴じ込みから外され無くなっていると言われていた久女のカルテは、昭和56年秋に田辺さんが
筑紫保養院(現在の太宰府病院)を訪れた時、副院長先生から「途中行方不明になっていつの間にか戻って来たのかどうかは調べようがないが、今はある」と言われたそうです。カルテは戻るべきところに戻ったということでしょうね。


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俳人杉田久女(考) ~高浜虚子の汚点~ (86)

2016年12月09日 | 俳人杉田久女(考)

高浜虚子は昭和29年に俳句界唯一の文化勲章を受章し、一国の名士にまで登りつめた人ですが、前回(85)の記事で書いた様に、この人の俳人としての人生には幾つかの汚点がある様に思います。

一つは、昭和11年に虚子自らが行った、杉田久女の『ホトトギス』からの除名処分を正当化するためであると思われますが、彼女の死後「墓に詣り度いと思ってをる」や久女の遺句集『杉田久女句集』序文で、死者に鞭打つ様に事実ではないことを書いたことです。

もう一つの汚点は、久女の死から2年8ヶ月後に、昭和9年に久女から来たとされる私信を「国子の手紙」というひどい形で公表したことです。

久女が書いた手紙は、虚子宛に出した完全な私信です。私信を、日本中の人が読むことが出来る『文体』という雑誌に、創作「国子の手紙」という形で公表するなど、常識では考えられないことです。

この手紙の公表については、虚子は久女の長女昌子さんに公表の承諾を得ているようですが、考えてみれば昌子さんは、久女の手紙の内容について承諾する時点では分らなかった訳ですし、当時昌子さんは、久女の遺句集に虚子の序文がほしくて懸命になっていたことを考えると、手紙公表の承諾をするについて、彼女の気持ちの苦しさが伝わってくるような思いがします。

高浜虚子は久女に関する3つの文章、回想文「墓に詣り度いと思ってをる」、創作「国子の手紙」、『杉田久女句集』序文を書くことにより、久女が除名前に既に狂っていたとの風説を流し、久女を『ホトトギス』から除名した自分の処置を正当化したかったようです。

が、時が経つにつれて、これらの文章が虚構文であるという資料や証言が出て来るにつれて、逆に高浜虚子側の問題点が浮き彫りになってきました。

今日、風説の流布はれっきとした犯罪なのです。私は杉田久女の生涯を辿っていくうちに、高浜虚子がこれらの虚構文を書いたこと、また久女からの私信を創作という形で発表したという二つの事実を知り、あの高浜虚子がまさかこんなことをするなんてと、驚きを禁じえませんでした。

彼の俳人としての号である、虚子の「虚」、私には「虚構の人」の「虚」の様な感じさえします。

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