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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~『花衣』廃刊後~ (47)

2016年02月29日 | 俳人杉田久女(考)

久女が主宰誌『花衣』を廃刊した後、『花衣』会員の福田無声女に宛てた手紙が、無声女の没後、彼女の息子で俳人の福田蓼亭によって公開されています。

その手紙には「花衣廃刊を決意、おおどろきと存じますが何も言上できませぬ。私が女のくせに少々やり過ぎましたのと...(中略)花衣をいたせば益々世間からも嫌われ到底一人でこの上致してみてもだめですので...(後略)」とあり、下の2句が添えてあります。

廃刊決意として

      「つゆくさの しげるにまかせ こもりけり」

      「淋しさは つゆくさしぼむ 壺の秋」 

手紙の本文より俳句に久女の無念の思いが表れている気がします。しかし廃刊に至った本当の理由にはこの手紙でも触れられていません。廃刊前後の久女の心情をを綴った手紙はこれ一通だけではないと思われますし、又もしかして本当の廃刊の理由を綴った手紙など、今後新たなものが発見されるかもしれません。

久女が『花衣』を創刊し、廃刊した昭和7年に、長女昌子さんは中村汀女の夫、横浜市税関監視部長の中村喜重氏の世話で同税関長官房文書係雇として就職しました。

この頃、久女は虚子の依頼により、昭和8年(1933)10月改造社刊行の「俳句歳時記」の春の部、冬の部の資料の下調べに当たっていたようです。こうした仕事が好きな久女は、虚子の手伝いが出来ることが非常な喜びで、楽しんで熱中していたと長女昌子さんは著書に書いておられます。

久女年譜によると、この頃(『花衣』を廃刊した頃)より久女は俳句作者として生涯を打ち込む決意をするとの記述があります。そして句集出版の志を持ち序文を虚子に願うも承諾されなかったと。

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ファミマの福袋

2016年02月26日 | つれづれ

時々利用する家の近くのファミリーマート。


たまたま通りかかると、何となくいつもと違う雰囲気。

お店の前に小さなテントが張られている。

お店の中には高校生など人がいっぱい。

何だろうと入ってみると、今日はリニューアルオープンの日なんだそう。

そういえば数日前から工事中だったのを思い出した。

棚の上を見ると500円、1000円の福袋が沢山並んでいる。

500円のはお菓子、1000円のはお菓子&日用品の福袋らしい。

今まで福袋に興味がなく、買ったことがないけれど、


今回はどうしたことか500円のを買ってしまった(^-^)


金額の割に、結構重たい。

何が入っているのかな? ワクワク(^-^)

家に帰って開けてみると、こんな感じ。


重たかったのはどうやら緑茶の為らしい。

ファミチキ引換券まであり、金額にすると倍近くの物が入っていた。

すご~く得した気分、嬉しい~

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俳人杉田久女(考) ~廃刊の理由~ (46)

2016年02月24日 | 俳人杉田久女(考)

久女が俳句修行の場として丹精込めて作った俳誌『花衣』は、久女絶頂期かと思われた昭和7(1932)年9月、5号で突然廃刊になりました。

久女は廃刊の理由として〈廃刊について〉の中で、「私の健康と家庭の都合により」としか述べていませんが、廃刊の背後には様々な事情が絡んでいたことは間違いないでしょう。というのは4号には『花衣』への並々ならぬ意欲が感じられ、廃刊の予兆などまったくないからです。

久女の長女昌子さんは廃刊の理由として、久女年譜に〈家事の多忙と雑務に追われ作品の低下するのを恐れたのが理由〉と書いておられますが、一方で昌子さんの著書『杉田久女』のなかにはこんな記述もあります。「虚子先生もお嬢様の立子さんが『玉藻』という雑誌を始めていられるから、私があんまりやりすぎるべきではない。自分の余力があったら、向うをご援助すればいい」と久女が言っていたと。
<石昌子著『杉田久女』>

『花衣』創刊号に「春着」と題する近詠3句を贈った虚子でしたが、送られて来た『花衣』を実際に手に取って見ると、予想以上に充実しており、また復活した橋本多佳子、中村汀女が参加しているのも気になったかもしれません。

『玉藻』は昭和5年6月創刊で、久女が『花衣』を創刊した頃は丁度1年半から2年目に差し掛かる重要な時期でした。ちょうどその頃『玉藻』と同じ女流を中心にした『花衣』が出現したことは虚子陣営にとって喜べないことだっただろうと思います。

この頃の高浜虚子にとって、次女星野立子が俳誌『玉藻』を主宰することにより、経済的安定を得、俳人としての地位を築くことは、一番重要なことだったと思います。

地方の小さな『花衣』程度の俳誌は、脅威というほどのものではないにしても、主宰者の久女と立子を較べると、実力人気ともに久女の方が勝っていることは誰もが認めることでした。

なので、『ホトトギス』(『玉藻』)陣営から何らかの働きかけが、久女にあったのかもしれません。
そんな場合でも虚子は表面には出なかったでしょうけど...。

それとは逆に(44)で書いた様に『ホトトギス』7月号で久女に初めて雑詠巻頭を与え
ています。ある研究書には、「雑詠巻頭を与える程、虚子先生は貴方を評価されているのだ。そのあなたが先生の娘の立子さんの主宰する『玉藻』に対抗して、女性俳誌を出す必要がなぜあるのですか」といったひそかなささやきが、久女の耳に入ったのではないか、などとの記述もあります。

突然の廃刊の理由は、久女が亡くなっているので永遠にわからないのですが、たとえ周りから色々な雑音が聞こえたとしても、ページ数を減らすとか、季刊にするなどして、発行し続けることが出来なかったのかと思うと、非常に残念な気がします。

廃刊してしまうのではなく、現実と折り合いをつけながら、どんな形であれ発行し続けることが出来れば、最小限でも句や文章の発表の場が確保できたと思うのです。

久女は自分の事を〈中庸のない性格〉といっていますが、『花衣』を何らかの形で続けながら、時間をかけて気長に周りの理解を得ていくことをせず、スパッとやめてしまったのは、彼女自身の言う〈中庸のない性格〉がそうさせた、というのは言い過ぎでしょうか。

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舞鶴公園の梅園

2016年02月21日 | お出かけ

春らしい明るい日差しがさしてはいるけれど風が冷たい日曜日、

舞鶴公園の梅園に行ってみました。


梅園は舞鶴公園内の福岡城址二の丸跡辺り。


坂を登り梅園に近づくと何となくいい香り。


新聞では見頃と出ていたけれど、まだ7分咲きくらいかな?

青い冬空と濃いピンクの梅花のコントラストが美しい。


梅園の向こうにチラチラとお城の石垣が見えるのも素敵!



園内にはほうじ茶や和菓子が頂ける「うめCafe」もオープンしていましたよ。

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俳人杉田久女(考) ~『花衣』突然の廃刊~ (45)

2016年02月20日 | 俳人杉田久女(考)

自身の主宰誌『花衣』1~4号に充実した評論を載せ、北九州各地を精力的に吟行し、「花衣句評」で丁寧な選を書き、読者や会員も徐々に増え、張り切っていたように見える久女でしたが、『花衣』は5号で突然廃刊になりました。

『花衣』5号は1号~4号までの充実ぶりとは違い、久女が寄稿を依頼したと思われる田中王城の「八月十六日宮津にて」と題された巻頭の3句と、橋本多佳子の「葛の雨」と題する随筆、それに大阪に転居した橋本多佳子を迎えて句会が催されたらしく、その時の句会報を載せただけで終わっています。なので5号は、あたかも久女の廃刊宣言の為に出されたような感じです。

王城や多佳子の寄稿は、久女が二人に寄稿を依頼した時点で『花衣』廃刊などまったく考えていなかったことを物語っているように思われます。この様な事から考えても『花衣』の廃刊は何故か、あわただしく決まった様に感じます。

久女の〈廃刊について〉と題したの文章の一部を見てみましょう。

  〈折角皆様のご親切なご声援にもかかわらずこの度私の健康と家庭の都合に
  より、廃刊いたすことと相成りました。
   皆様のご親切にむくいまつる間とてもなく誠に申し訳ない事ながらお許し
  下さいませ。
   私もまだまだ力足らず二人の子の母としても、又滞りがちの家庭の事をも、
  もう少し忠実にしてみたく存じて居ります〉

廃刊の理由として、久女の健康と忙しすぎて時間がないこと、そのことで夫、宇内の不興をかったらしいことが書かれているだけです。あれだけ意欲的で希望に燃えた「創刊の辞」を書いたのと同じ人が書いたとは、とても思えない紋切り型の文章です。

『花衣』4号の編集後記を書いたのが7月26日で「廃刊について」を書いたのが8月28日となっていますが、この約1ヶ月間にいったい久女に何があったのでしょう。

今回の記事の主題ではありませんが、俳句の為に家事がおろそかになり、夫に小言の言われどうしであるという様な、久女の文章を読むたびに、久女が夫の言うことなど歯牙にもかけず、自分の俳句道に精進する強靭さを何故
持ちえなかったのか、歯がゆい気がします。

それは夫と対立するとか不仲になることと少し違い、うまく表現できませんが、夫に干渉されながらも、俳句道にも精進を怠らないというような意味に於いてです。結果的にみると彼女は俳句史に残るような名吟を数多く残している人なので、実際はそうしていたのかもしれませんが、そうであれば、後々まで残る文章に夫の言動など書かなければよかったのにという気もします。

この〈廃刊について〉の文中にも、その様な箇所がチラッと出て来るので、「あぁ~、又か」という思いになりました。

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