日々の暮らしに輝きを!

since 2011
俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~クリスチャンの久女~ (16) 

2015年08月31日 | 俳人杉田久女(考)

俳句に向かうと熱中せずにはいられない久女は、一方で夫が俳句を嫌うなら俳句をやめるようにとの母の説得も脳裏から去らず、悶々とした日々だったでしょうが、病がなんとか癒えて、小倉に帰ってから一時期『ホトトギス』への投句をやめています。その頃の事を彼女は後に「我が子にも生き別れる様な切ない心地」と表現しています。

この様な久女と宇内の確執、苦しみを理解してくれる友人もいたようです。それは娘達の主治医で「二八会」という俳句の会の俳友でもあり、小倉では有数の大病院の院長の太田柳琴でした。

太田柳琴はクリスチャンで、貧富の差なくよく診てくれるというので、人格者として周りから尊敬されていたようです。柳琴はキリスト教的に二人の間柄を仲裁しようとしたのでしょう。

久女は柳琴や鍛冶町教会の小林牧師に導かれて教会へ通う様になり、約半年後の大正11(1922)年2月に受洗しています。約1年後に夫、宇内も受洗しました。長女昌子さんによると、宇内は勧誘を断り切れずに洗礼を受けた感じだったそうです。

久女は宗教によって再生、生き直しをしようとしたのでしょう。長女昌子さんは〈母は聖書を離さずよく読んだ。私は母の思いのこもった聖書を今日まで手元に保存しているが、読んで読みつくした痕を留めたこの聖書を見ただけでも、母の悩んだ心、魂の安らぎを祈念する姿が見えて来る〉と、そう書かれています。

久女は受洗した大正11年から5、6年の間クリスチャンでした。よきキリスト教徒であろうと、クリスマスやバザーでも活動し、教会の青年達の世話もよくしたので、若い人達からも好かれていたようです。

        「バイブルを よむ寂しさよ 花の雨」

        「雪道や 降誕祭の 窓明かり」

「バイブルを よむ寂しさよ」の表現でこの頃の久女の心の内がわかりますね。

久女を教会に導いた太田柳琴は大正14(1925)年に九大での研究の為、小倉から福岡に移り、その後、外遊の途にのぼったと伝えられているようですが、詳しいことは不明なのだそうです。

後に久女は柳琴を悼む下のような句を発表しています。

        「茎高く ほうけし石蕗(つわ)に たもとほり」

大正末期に小倉で繁盛していた病院を畳んだ理由は何だったのか、
それは久女に関係があるという噂が小倉には伝わっているらしいですが、詳細に尋ねるとさっぱりわからないとの表現が、久女関連書物によく出てきます。いわゆる噂から噂の〈久女伝説〉の一つなのでしょう。

 にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)

 

 

 


俳人杉田久女(考) ~家庭の内と外での夫、杉田宇内~ (15)  

2015年08月27日 | 俳人杉田久女(考)

久女の夫杉田宇内は家庭の中では、妻久女に対して前回述べた様であっても、〈家庭の外では学校の職務に励み、卒業生や在校生の面倒を、日曜祭日、休日もないといってもよい位、事細かによく見た。なので10人のうち9人は宇内の事を悪くいう人はいない。反面、久女は愛想が悪いとか、頭が高いなどと言われ、相手から許し難く思われたに違いない〉と長女昌子さんは、その著書で書いておられます。
<大正初期の頃 夫宇内、長女昌子 久女>

家の内と外で振るまいが違うというのは、ある程度は誰にでもあることですが、宇内の場合はそれが極端だったのでしょう。長女昌子さんの著書にある話ですが、宇内は仕事から帰って外で気に入らないことがあると、靴を履いたまま久女が火をおこしていた七輪を蹴散らす様なこともしたようで、家庭の中では感情のままに振る舞っていた姿が垣間見えます。

療養中におきた離婚話は、宇内と久女の間に大きな溝をつくることになってしまいました。久女が思い直して帰って来たことは、もう一回やり直そうという意思表示なのに、宇内はそれを許すどころか、反対に責める材料にしました。

昌子さんの書いたものによると、宇内は妻に来た手紙を水で濡らして開封し、ひそかに読んで又ポストに入れておくという事もしたそうで、男尊女卑の時代背景といってもそれは許されないことでしょう。

久女の育った家庭は沖縄、台湾の外地生活が長く、見聞も広かっただろうと思われます。父は女の子にも学問は必要と考え、久女にも姉にも高等教育を受けさせています。

宇内は反対に閉鎖的な山深い奥三河の生まれです。娘が本を読むのも「生意気になる」と言って好まなかったそうで、長女昌子さんは隠れて本を読んだと言っておられます。

育った環境の違いから、あるいは当時の時代背景から
来たようにも思われる夫婦の性格、考え方の違いは、後々まで二人の生き方に影響を及ぼしたように思われます。

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)

 

 



ニューヒーロー誕生!

2015年08月25日 | お出かけ

午前中に台風15号が九州北部を直撃した日の夜

ヤフオクドームでソフトバンクvsロッテ戦を観戦

こんなお天気なのに予想外に多い観客

ソフトバンクは3:4のビハインドで迎えた6回裏

2アウトから3つの四球で満塁に

次のバッターは今日がプロ2試合目のスタメン出場の上林

彼は3回裏にプロ初安打を放ったばかりの若武者

が、こんなプレッシャーのかかる場面で大丈夫かと、みんな思ったはず

ところが、ところが

1ストライク3ボールからライトスタンドに入る逆転満塁ホームランを放った

劇的な展開にドーム内は総立ちに

ベンチから選手達が飛び出し上林に抱き付いて手荒な祝福

上林選手は仙台育英高出身でプロ2年目、8月1日に20才になったばかり
<上林選手>

優勝へまっしぐらのソフトバンクにニューヒーロー誕生!

このゲームでホークスは4連勝

マジックを23に減らした


(上の写真はネットよりお借りしました)

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)


 

 




 


俳人杉田久女(考) ~夫婦間の溝~ (14)

2015年08月25日 | 俳人杉田久女(考)

年譜によると、東京の実家での約1年にわたる腎臓病治療の療養をどうにか終えて久女が小倉に戻って来たのは、大正10年(1921)7月でした。この時、彼女は31歳になっていました。
<大正10年頃の久女と次女光子>

久女の長女昌子さんはこの時期のことを、久女年譜にこう書かれています。〈里方滞在中、母さよから子供のために辛抱して、夫が俳句を嫌うなら俳句をやめるように説得された。自分の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持ちを昼夜責め立てた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった。宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。〉

怒れば久女の方が強かった、というのは面白いですね。久女が居住まいを正して説明すると、おそらく宇内は答えに窮したのでしょう。

この文章に限らず、長女昌子さんが書いた他の文章を読むと、久女の夫宇内には妻への寛大さ、思いやり、妻の人格への配慮がなく、代わりに人を責めたがる酷薄さ、ゆがんだ嫉妬などが感じられ、ため息が出る程です。


(写真はネットよりお借りしました)

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)



 

 


俳人杉田久女(考) ~信州吟~ (13)  

2015年08月22日 | 俳人杉田久女(考)

信州では病中吟も合わせると165句の信州吟が生れました。前回書いた紫陽花の句もそうですが、ほかの幾つかをあげてみましょう。

              
「八月の 雨に蕎麦咲く 高地かな」

          「浅間曇れば 小諸は雨よ 蕎麦の花」

          「簾巻かせて 銀河見てゐる 病婦かな」

東京の実家に戻っても久女の病いは癒えず、入退院をくり返したようです。腎臓病は長引くと言われますが、彼女の場合も治るまでに1年近くかかっています。

どうにか病が癒えた頃、久女の実家で、森田恒友画伯、長谷川零余子かな女夫婦、阿部みどり女などを招いて送別句会が開かれました。お題は”柿の花”でした。

       「障子しめて 雨音しげし 柿の花」

この送別句会の後、大正10(1921)
の7月、久女は離婚話のしこりを残したまま、約1年ぶりに小倉に戻って来ました。この時の事を彼女は〈私が東京をたつ時は、都落ちのような寂しい心境だった〉と後に「葡萄一房の思い出」の中で回想しています。     

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)