好きなことに熱中するタイプの久女はこの頃(大正8年頃)の事を、大正11(1922)年に『ホトトギス』に載った随筆「夜明け前に書きし手紙」の中で〈雑詠に何句出るという様なことのためにはげみ、句数の少ない時は食事もすすまず、やつれて心の沈むほど、むこうみずに進み作ってきました〉と書いています。次第に作句に没頭する様子がわかりますね。
久女が趣味で俳句を楽しんでいた間は、多少の家事の滞りなども見過ごしていた夫宇内は、久女がしだいに趣味の範囲を超えるようになると、不快に思うようになり少しずつ家庭生活がきしみ始めた様です。この頃のことを久女はこんな風に俳句に読んでいます。
「争ひやすく なれる夫婦や 花曇り」
「或る時は 憎む貧あり 花曇り」
花曇りという表現で、何となくこの時期の杉田夫婦のたたずまいがわかる様な気がします。
この時期、久女は身近なもの、日々の暮らしをたくさん詠んでいます。
「春寒や 刻み鋭き 小菊の芽」
「葉鶏頭の いただき躍る 驟雨かな」
「バナナ下げて 子等に帰りし 日暮れかな」
「刻み鋭き」「いただき躍る」などホントにその通りだな~と感じる句で、これが『ホトトギス』流の写生なのだろうなと思わせられます。
久女年譜によると、大正8年頃の久女は二八会研究会開催、八幡俳句会出席、二八句会出席、下関での虚子歓迎俳句大会出席、小倉二八句会出席など、文章では大阪毎日新聞懸賞小説募集に『河畔に棲みて』を応募、随筆「漂作り」、「窓」、「思い出の山と水」、「黒い翅の蝶々」、「私の畠」、「九州の婦人十句集に就いて」などを書いています。俳句関係のことにかなりの時間を割いているようで、俳句ずけと言っていいのかもしれません。
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卓球サークルの友人達とお洒落カフェに行って来ました
友人が車に乗せてくれて
市街地から30分も走ると、もうこんな景色が... やわらかい緑が心地よい
背振山ふもとの三瀬峠を越え佐賀県側へ
車内が緑に染まる山また山
ほとんど車も通らない
脇の森からサッと何かが前を横切ったと思ったら狸だった
さらに車が離合できない程の細い脇道に入る
10分位進むと視界が少し明るくなって、そこに古民家風カフェが
周りには別荘らしき建物が2、3軒
川のせせらぎと私達の話声以外物音一つしない
カフェに入ると驚いたことに先客が一組
まずピスタチオ添えのミニミニ水出しコーヒー
メニューには世界各地の珈琲が並ぶ
珈琲豆の生豆を丁寧に石清水で洗い別棟の工房で自家焙煎されているそう
ブレンドコーヒーを頼む
お洒落なトレーとコースターに少しビターなチョコレートを添えたブレンド珈琲
すっきりとバランスのとれた爽やかなお味
店内はこんな感じ
川のせせらぎが心地よい、こんなテラス席も
この清流を使って珈琲豆を洗うのかな?
この他にお茶室や4、5人用の個室も
忙しい日常を忘れて、つかの間の心の洗濯でした
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杉田夫婦は大正7(1918)年の夏にそれまで住んでいた板櫃村日明2535の家から、小倉市堺町111(現小倉北区紺屋町13-13)に転居しています。転居の理由として学齢期に達した長女昌子を堺町小学校(今の小倉小学校)に通わせる為、日明の家が宇内の勤務先の小倉中学校に近く、昌子が生徒達にからかわれるのが煩わしかった為などと言われているようです。
大正7(1918)年12月には、久女はそれまで心の支えであった実父赤堀廉蔵を喪くすという、思いがけない悲運が待っていました。
「父逝くや 明星霜の 松になほ」
「湯婆みな はづし奉り 北枕」
「み仏に 母に別るゝ 時雨かな」
最初の句は実父を亡くすという悲しみを内に秘め、霜のかかった松の梢には明星が光っていると詠っています。「なほ」に久女の悲しみがこめられている様で、非常に格調高い永訣の句だと思います。
上の父との永訣の句3句は、翌大正8(1919)年2月の『ホトトギス』雑詠欄に入選しました。『ホトトギス』の雑詠欄には、毎月のように載るようになり、句作に関しては大正8年は実りの多い年でした。
父を亡くした久女は、頼るものは俳句しかないという気持ちになったのではと思われます。大正8年のお正月は喪に服している間に、大阪毎日新聞懸賞小説に応募する為に『河畔に棲みて』を書き続けました。
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杉田久女が高浜虚子に初めて会ったのは、久女28歳の大正6(1917)年5月、東京の実家に里帰りしていた時、飯島みさ子邸で行われた句会ででした。この時、虚子44歳、俳壇の巨人ともいうべき存在でした。<高浜虚子1874-1959>
そして『ホトトギス』誌上でみる二人の先輩女流俳人の長谷川かな女、阿部みどり女にもそこで初めて会っています。その句会でどのような会話が交わされたのでしょうね。
おそらく久女は虚子や長谷川かな女、阿部ミドリ女に実際に会い話すことによって、俳句を一層身近に感じ、又「台所雑詠」など虚子が女性に期待していることを肌で知るという、嬉しい収穫をもって小倉に帰って来たのではないかと思います。
俳誌『ホトトギス』は俳句だけではなく小説や随筆も載せていた為、大正6年から7年にかけての久女は俳句をつくるだけではなく、散文執筆にも意欲的に取り組みました。そして『ホトトギス』誌上に「提上の家より」「小倉の祇園祭」「秋雨日記」「南国人の思い出」「梟啼く」などが載りました。
大正7(1918)年4月は、久女にとって嬉しい月でした。それは長女昌子の小学校入学と、『ホトトギス』雑詠欄に虚子選で初めて一句採られたのです(下の句)。虚子選に入ったということは、地方俳檀では俳人と認められたことだそうで、久女の記念すべき一句です。
「艫の霜に 枯れ枝舞ひ下りし 烏かな」
さらに、この年の8月には、娘を詠んだ前回あげた句
「仮名かき うみし子に そらまめをむかせけり」
など3句が雑詠欄に入選しました。平仮名の多い表記方法が子供を詠んだこの句にふさわしいですね。
久女は好きなことには熱中するタイプで、この頃からわき目も振らず、一日の大部分を俳句のことを考えながら、過ごしたのではないかと思われます。
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梅雨真っ盛りで、連日はっきりしない蒸し暑い日々のリラ地方です。いつも拙いブログ記事を閲覧下さり、ありがとうございます。ブログ村では60歳代のバナーだけを貼っていましたが、少し前から俳人杉田久女の記事を載せるようになり、俳句バナーも貼ってみました。俳句バナーが貼ってある記事は、殆どが俳句を実作される方々の記事の様で、身がすくむような思いが致しますが、よろしくお願いします。
杉田久女は、大正5(1916)年秋に次兄月蟾の手ほどきで俳句を始めました。家事の合間に初めて出会った俳句という表現方法を楽しみながら作句し、またたく間にその才能を開花させました。<大正初期の杉田宇内、久女、長女昌子>
久女年譜を見ると、俳句を初めてまだ半年もたたない、大正6(1917)年1月の『ホトトギス』第2回「台所雑詠」に
「鯛を料るに 俎板せまき 師走かな」
「皿破りし 婢のわびごとや 年の暮れ」
など、6句が初めて載りました。「台所雑詠」というのは、高浜虚子が女性の俳句作家を育てようとした取組みの一つで、投句者を女性に限定し、内容も台所に関するもの、例えば俎板、包丁、味噌などを詠みました。その連載が始まったのは大正5年の『ホトトギス』12月号からで、久女が俳句を始めたのは丁度その頃だったのです。
とにかく上達するには俳句をつくることだと、目に入るものを次々俳句に詠みました。俳句を初めて間もない大正6(1917)年から7年にかけては夫や娘もよく詠んでいます。
「まろ寝して 熱ある子かな 秋の暮れ」
「六つなるは 父の布団に ねせてけり」
「仮名かき うみし子に そらまめをむかせけり」
小さい娘達を詠んだこれらの句は母親らしい情愛に満ちていて、幼子の柔らかい肌の感触まで伝わって来るような気がします。最初の句のまろ寝とは、着物を着たまま寝ることをいうのだそうです。
後に久女が俳句をすることがもとで反目しあった夫婦ではあったけれど、この頃はまだ夫宇内もやさしく詠まれています。
「うかぬ顔して 夫帰り来ぬ 秋の暮れ」
「獺にもとられず 小鮎釣り来し 夫をかし」
この様な句から、この時期の杉田家の平和な様子が浮かんできます。俳句を始めた大正6、7年頃は、久女にとって俳句は極めて楽しいものであって、家庭の平穏を揺るがすようなものではなかったようです。
(写真はネットよりお借りしました)