日々の暮らしに輝きを!

since 2011
俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

新政権に望むこと ~中国依存から脱却の時~

2020年10月30日 | つれづれ

菅新政権発足後1ヶ月半が経ちました。

これまでに私が感じていた菅さんは、官房長官時代の日に2回の定例会見で「それには当たらない」と言って度々記者の質問をさえぎり、人を小馬鹿にするような言動をしていた人という印象があり、あまりいいイメージを持っていませんでした。

なので、まさか菅さんが首相に選ばれるとは予想もしていませんでしたので、
今回の結果は自民党の派閥力学のなせる業なのだろうくらいに思っていました。が、政権発足直後の世論調査では菅政権を支持する方々が約65%だそうで、新政権へのご祝儀とはいえ、その支持の多さに驚き、人々の物の見方、考え方は千差万別なのだな~と改めて感じました。

そんな訳で菅政権は私にとって予想外の政権ですが、今日はその新政権に望むことを少し書いてみたいと思います。

まず、新型コロナ対策を着実に実行すること、コロナ禍で疲弊した経済を立て直すこと、この二つを両立させて行くこと。「Go To キャンペーン」などもそれの典型でしょう。多くの人々が街に繰り出し始めても、欧米の様に急激な感染再拡大に見舞われることなく、現在の日本の感染状況はある程度落ち着いているので、今のところ政権のかじ取りはうまくいっているのではないでしょうか。

次に、新政権には世界の中での日本の立ち位置をしっかり認識し存在感を発揮してほしい。国民総生産は日本はアジアでは中国に次いで第2位、世界でもアメリカ、中国に次いで第3位なので、自信を持ってリーダーシップを発揮できるのではと思います。

現在の日中関係は健全なものではないと感じます。東日本大震災以後落ち込んだ日本経済を立て直すために観光に力を注ぎ、中国人に対する訪日観光ビザ発給要件を大幅に緩和し、多くの中国人観光客を呼び込みました。

しばらくは経済的に潤ったけれど、今回の新型コロナウィルス禍によって一気に数が減少し窮地に陥りました。今回はコロナ禍によりこうなりましたが、中国人観光客に大部分を頼る様な観光施策は問題で、日本の観光業界が一国の観光客の動向に左右される状況は不健全だと思います。

又、様々な物や部品の製造工場が中国にあるために、何かことが起きるとたちまち、それらの入荷が止まってしまうという事態を防ぐ為にも、供給網の分散化が絶対必要と思います。中国の14億の人口は魅力的なのは理解できますが、日本国内や中国以外の国々に様々な物の生産拠点を持つことは、日本経済の安定に最も重要なことではないでしょうか。

しかし、中国のコロナ状況が落ち着きだした今、日本ではまたもや供給網の中国集中が緩やかに再度始まりだしているという、識者たちの話がチラホラ聞こえて来て、暗澹とした気持ちになりますが、新政権が様々な国々から観光客を呼び込む施策や、物の供給網の再構築を行い中国頼みの仕組みの転換を、このコロナ禍を期に、強力に推し進めてほしいというのが私の新政権への切なる願いです。

くどい様ですが、これまでの様に様々な面で中国頼みになってしまうと、尖閣諸島や香港であのようなことを引き起こしているにも関わらず、習近平主席の国賓来日という様な、大多数の国民が納得出来ない、辻褄の合わない事態が起こり、中国あるいは全世界に間違ったシグナルを送ることにもなりますからね。

菅首相は首相就任後の初外遊にベトナムとインドネシアを訪問しました。
この二国への訪問は安倍政権が掲げた「自由で開かれたインド太平洋」構想を発展させ、具体化する狙いがあるのだろうと思います。

両国ともASEANの中心国であり、日本との経済的な結びつきも強い国で、ASEAN重視の姿勢を明確にするとともに、ASEANとの関係を深めASEAN各国の発展に協力することにより、それがアジアの安定にもつながり、結果的にアジア各国の中国への発言力強化になるのだと感じます。

忘れてならないのは、日本はアメリカの同盟国であり、中国との関係では毅然とした対応と慎重な姿勢が重要であるとともに、日中双方にとって互いが経済パートナーであり、ことを荒だてることなく、言うべきことは言い、経済関係も正常化させるという非常に難しいかじ取りや手腕が、今後菅政権に求められると思います。


 


春の花のタネをまきました

2020年10月16日 | つれづれ

今日は小三の孫娘からプレゼントされた花のタネをまきました。

プレゼントされたタネはストック、スイートピー、スターチスです。


スイートピーは発芽温度が今よりも少し低いように感じるので、

今回はストック、スターチスだけをまきました。

私が時々、花のタネをまいているのを孫娘は知っているので、

タネをプレゼントしてくれたのでしょう、嬉しいですね(^-^)

以前は苗を買って来て植えるだけでしたが、

タネから育てる楽しさを知って以来、

タネまきに精を出すようになりました。

花壇のタネを蒔く場所を少し整えて
タネをまき、


薄く土をかけるだけの自己流の乱暴なやり方ですが、


極小のタネ以外はこれで何とか芽をだしてくれるようです。

さてさて、今日蒔いたタネはちゃんと発芽するでしょうか?

タネをまき終ってふと見ると、

花壇の外側に、こぼれ種でノースポールの芽が数本出ていました。

ラッキー!



踏まない様に印を付けて、もう少し大きくなったら、

花壇に移植しよっと!






私の「思い出のサンフランシスコ」

2020年10月11日 | 旅の思い出(ブログ開設以前の旅)

「思い出のサンフランシスコ」という曲がありましたね。前回、ゴールデンゲートブリッジの思い出を書いたので、今回はそれ以外のサンフランシスコでの思い出を綴ってみようと思います。いわば私の「思い出のサンフランシスコ」です。

サンフランシスコは思っていたよりずっと小さく美しく魅力的な街で、滞在は4日間でしたが、街をすぐ把握でき自在に歩きました。

サンフランシスコは坂の街で、急な坂道を上り下りするケーブルカーはこの街の名物ですが、私達もこれに乗ってみました。鈴なりの観光客を乗せて走り、風を感じることが出来るので、快適と言えば快適ですが、乗り心地の面では今一つでしたね。それに、発着所には長蛇の列が出来、乗るのに30分位待つことはザラでした。乗っているのは観光客が大半の様でしたけれど...。そんな訳でケーブルカーには数回乗っただけで、路面電車のストリートカーなどで移動することが多かったです。


サンフランシスコのダウンタウンの中心はユニオンスクエアと呼ばれる広場で、絵を売る露店があったり、色々な催しがあったりして、夜遅くまで多くの人々で賑わっている、そんな広場でした。ホテルがこの広場に面していたので、毎夜部屋の窓から下の広場の賑わいを見ながら過ごしたのも、今となってはよい思い出です。

ユニオンスクエアから一駅先に荘厳な雰囲気の市庁舎や、いくつかの行政機関、美術館が集まっているシビックセンターがあり、ここに、先の大戦後にサンフランシスコ講和条約が締結された、オペラハウスがあり感慨深かったですね。
<オペラハウス>

サンフランシスコといえば、絵葉書などでよく紹介されるビクトリアンハウスと呼ばれる建物があります。ビクトリアンハウスの多くは19世紀に建てられたそうですが、パルテルカラーの壁にアーチ形に張り出した窓が付いているものが多く、エレガントで美しい建物でした。
ビクトリアンハウスは市内の所々にありましたが、アラモススクエアと呼ばれる公園近くにあった6軒のビクトリアンハウスは美しく、絵になる眺めでした。ここにどの様な方々が住まわれ、どの様な生活が繰り広げられているのかな~なんて、憧れの気持ちで眺めていたのを思い出します。アラモススクエアは丘の上にあるのでビクトリアンハウスのはるか向こうにダウンタウンの摩天楼が一望出来るのも素晴しい景観でした。

<ビクトリアンハウス>

サンフランシスコの海辺のエリアはフィッシャーマンズワーフと呼ばれる場所で、ここにあるピア39は最も賑わっている場所でした。ここに長蛇の列が出来ていたので何だろうと見てみると、サンフランシスコ湾を廻るクルーズ船に乗る人々の列で、私達も最後尾に並び、クルーズを楽しみました。
<ピア39>

ピア39には100軒以上の小さなレストランやギフトショップが並んでいて、ここで名物のクラムチャウダーを食しました。酸味の効いたパンのボウルに入ったそれはなかなか美味しく、パンも全部頂いてしまいました!
<クラムチャウダー>

また、ある日の午後は路線バスに乗って隣街のオークランド市のジャズライブに行ったりしました。ジャズにあまり関心がない私は、ライブ会場でノリノリのアメリカ人の様子を観察するのも楽しく、今でも時々彼らの動作や表情を思い出しますよ(笑)。

連日ガイドブック片手に徒歩や電車に乗って
街を歩き回りましたが、ノブヒルやロシアンヒル等の丘からは風光明媚な街や美しいサンフランシスコ湾が見渡せ、今でもまぶたに浮かんで来ます。