日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

能福寺 平清盛 兵庫大仏

2011-04-17 16:18:04 | Weblog
昨日は父の33回忌法要を兵庫大仏で知られる能福寺で営んだ。自宅への月参りはいつも副住職であるが、昨日は住職が勤めて下さった。父が亡くなったときはまだ副住職で、その後の月参りでは時々お目にかかったものである。30年の年の流れを感じた。

このお寺とは不思議な縁で結ばれた。明治43年生まれの母が通っていた小学校のクラスにお寺の坊さんの息子がおり、長じては大僧正・刀田山鶴林寺住職となった。幼なじみの母とは下の名前で呼び合う仲で、来神のついでに気軽に母を訪ねてこられることもあり、また母も揮毫を表装して大事に飾ったり、戒名を生前に授かっていたりした。この大僧正が比叡山で一緒に学んだのが能福寺の先代住職できわめて親しい仲であったとのことである。そのような縁で、私たちが朝鮮から引き揚げてきて神戸に移り住むようになってから、家の宗旨である天台宗のお寺ということで能福寺を引き合わせていただいたのである。

法要の後しばし雑談に時を過ごしたが、住職によると来年のNHK大河ドラマが「平清盛」ということで、その主役俳優がNHKとやって来たりしていろいろと取材を受けたとのことであった。創建1200年の記念誌「兵庫津 寶積山 能福寺記」の「能福寺の歴史概略」によると、桓武天皇の勅命により唐に留学した伝教大師最澄上人が帰途兵庫の大輪田の泊に上陸したのである。当時の庶民は大師を歓待し堂宇を建立して仏教の教えを乞うたところ、上人は薬師如来の功徳を説き、自作の像を堂に安置して、国に安泰、庶民の幸福を祈願して能福護国密寺と称したとのことである。延暦24(805)年6月のことである。その後いろんな変遷をたどるが、本朝編年録(→本朝通鑑)によると「仁安3(1168)年11月、平清盛於能福寺剃髪入道ス 養和元(1181)年2月4日西八条ニテ薨去、年64 翌日火葬トシ、圓實法眼全骨ヲ福原ニ持チ来タリ能福寺ノ東北ニ埋ム」とあって、平清盛と能福寺との深い繋がりが浮かび上がる。福原遷都の時は信仰心の厚い平家一族が能福寺に帰依したとのことである。

一方、能福寺は兵庫大仏でも知られる。明治24年5月、兵庫の豪商南條荘兵衛が発願して青銅毘廬舎那佛を建立した。その大きさと青銅製であったことから、奈良、鎌倉とともに日本三大佛の一つに数えられ、その開眼法要は天台座主をはじめ真言、浄土、臨済、真宗、曹洞、日蓮、時宗等、各宗管長によって2週間にわたって執行された。私は朝鮮に渡る前の昭和15(1940)年には神戸で幼稚園に通っていたので、この大仏さんにはお目にかかっていることと思う。しかし昭和19年5月には戦時中で金属回収令により取り壊されて供出されてしまった。現在の大仏さんは二代目で平成3年5月に再建されたものである。開眼法要は天台座主をはじめ奈良東大寺管長、鎌倉大仏貫首の臨席のもと執行されて、参詣者が4日間に6万人を数えた。私もその一人に入っている。母が亡くなってこのお寺で葬儀を営んだときは、棺から出た紐を大仏さんの左手で引っ張っていただいていた。迷わず浄土に行けるようにとの趣旨だったのだろうか。

境内には平相国廟(平清盛廟)・平清盛公墓処、ジョセフ・ヒコの能福寺縁起英文碑、神戸事件・滝善三郎正信碑などがある。また兵庫きっての豪商であった北風正造君顕彰碑というのもある。明治維新の折、姫路藩が官軍の攻撃を受けて城下町が戦場になろうとしたときに彼が仲裁に入り、軍需金15万両と引き替えに紛争を解決させて白鷺城を戦火から救い、その後実業界で大成した人物である。この後裔にあたる娘さんと研究室の後輩が縁があって結ばれ栄光教会で結婚式を挙げたときに、私の幼い長男が花びらをまきながら新郎新婦を先導するなんてことがあった。人の繋がりとはほんとうに不思議なものである。

住職と話をしていて認識を新にしたことは、今時感心なことにこのお寺は拝観料のようなものを一切取っていないのである。それだけに公衆便所の水道代がえらい高くつくのでとの住職の言葉には実感がこもっているように感じた。小銭入れに空き缶でも置いておけばよいのに、とは思ったが口には出さなかった。大河ドラマがはじまって観光客がバスでも連ねてくるようになれば大ごとである。どうなることやら、ちょっと心配になった。