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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

平等院雲中供養菩薩の奏でる琴が一弦琴のように見えたが・・・

2010-01-11 13:23:07 | 一弦琴
一弦琴「漁火」は私の好きな曲の一つで、最近ではこの曲を奏でて一弦琴の稽古を始めることにしている。

      「漁火」
     
     詞 不詳 曲 松島有伯

  もののふの 八十氏川の
  網代木に いざよふ波の
  音澄みて 影もかすかに
  漁火の あかつきかけて
  汀なる 平等院の 後夜の鐘に
  無明の夢や さめぬらむ

演奏時間が5分少々の曲なので腕ならし声ならしにちょうどよい。その上、演奏で心がけたいポイントがたくさんあるので、そのたびに工夫をしてみる。なかなか満足できるレベルには至らないので、おそらく永遠に試みが続くことになるだろう。その意味でも稽古始めにもってこいの曲で、だからますます愛着が湧いてくる。

「漁火」で詠われる平等院を訪れたのは、私の記憶にある限りかれこれ半世紀も前のことである。この曲を知ってからあらためて訪れたいと思いながらも、これまで機会を逸していたが、ついに一昨日、訪れることが出来た。

東面する鳳凰堂を阿字池を挟んで眺めると、その左側のやや小高いところに鐘楼が建っていた。この梵鐘の音が歌に詠まれたのであろう。しかし現在つり下げられている鐘はレプリカなので、撞いて音を聞くわけにはいかない。国宝になっている実物は鳳翔館(平等院ミュージアム)に展示されていたので、つぶさに見ることが出来た。



この鳳翔館の展示物で私の目を引いたのが雲中供養菩薩像である。雲中供養菩薩像は52体が現存しているが、元来は鳳凰堂中堂の長押上の壁を飾る浮き彫りの菩薩像なのである。飛雲に乗り空中を飛び交っている菩薩様なのである。仏師定朝とその一門の工房で製作されたもので、この菩薩像すべてが国宝だというのが凄い。鳳翔館にはその半分の26体が展示されているが、そのなかに一弦琴を弾いているような像があったのにドキッとした。北20号像なのである。


館内に備え付けられた解説用パソコンで調べてみると、この像は総高が77.3cm、木造彩色で平安時代天喜元年(1053)の製作となっている。左右になびく雲の上に置かれた蓮華座に坐り、琴を弾く姿の像です、とのことである。しかし琴の種類の説明はない。私が一弦琴かと思ったのは、まずその長さである。身体の大きさから考えると、源氏物語絵巻若菜下などに描かれている宮廷での音楽練習場面に出てくる和琴、琴、箏などにくらべるて圧倒的に短いので、このような琴と異なることは明らかである。現在私の使っている一弦琴は110cmもあるのでそれよりも短いことになるが、サイズで言うと一弦琴であってもおかしくない。しかも左手を見ると、人差し指一本で弦を押さえているようである。しかし本当に一弦琴なのだろうか。

琴を弾いている菩薩像はほかにも2体ある。北1号像と南16号像で、琴の形は両者ともよく似ているので北1号像をつぎに示す。


琴の長さは北20号像のと変わらないが、左手の指の形が違っていて、どうも複数の弦を押さえているような感じである。さらに琴の右端には5ヶないしは6ヶの穴があり、これは弦を通すためのように見える。南16号像のも同じようなので、琴の大きさは一弦琴向きであるとしても、はたしてそうなのか断言出来ない。


この雲中供養菩薩の図説から菩薩像の過半数が琴以外にも笙、拍板、琵琶、縦笛、横笛、太鼓、鼓、鉦鼓などの楽器を奏でていることが分かる。ところが北25号像の持つ蓮華を除く各像のすべての持ち物は後補であるという。何時の時代での後補であるのか分からないが、いずれにせよ元来は楽器のモデルがあったはずで、おそらくは雅楽器がそれであろうと考えられる。しかし正倉院に残されている18種類58個の楽器に一弦琴は含まれていない。さらに群馬県で出土した埴輪の弾琴男子像は菩薩像と同じく琴を膝の上に抱えており、琴のサイズも菩薩像のとよく似ている。そして琴の弦数は埴輪につけられた線条から明らかに五本で、専門家はこれを和琴と断定している(埴輪弾琴男子像及び琴に関する部分は吉川英史著「日本音楽の歴史」にもとづく。下図の写真も同じ)。



ネットに増田修氏による論考「古代の琴(こと) 正倉院の和琴(わごん)への飛躍」が公開されており、木製の琴や埴輪の琴の52件の遺跡からの出土例が紹介されている。線条などから分かるものでは四弦、五弦のものがほとんどで、少数であるが二弦もある。そして

13 天理市荒蒔古墳 埴輪 (一絃) 粘土紐 六世紀前半 天理市教委 弓琴であろう

と一絃琴が紹介されているが、弓琴と記されているので明らかに板琴である一弦琴とは異なる。

しかし一方、日本後記に一弦琴の伝来が次のように記されており、その当時、弓琴か板琴かは定かではないが、一弦琴が入ってきていたことは確かであろう。

《卷八延暦十八年(七九九)七月是月》○是月。有一人乘小船。漂着參河國。以布覆背。有犢鼻。不着袴。左肩著紺布。形似袈裟。年可廿。身長五尺五分。耳長三寸餘。言語不通。不知何國人。大唐人等見之。僉曰。崑崙人。後頗習中國語。自謂天竺人。常彈一弦琴。歌聲哀楚。閲其資物。有如草實者。謂之綿種。依其願令住川原寺。即賣隨身物。立屋西郭外路邊。令窮人休息焉。後遷住近江國國分寺。(強調は私)

あとは想像である。小舟で參河國に漂着した印度人が板の一弦琴を携えていたことが、承和七(八四0)年に完成していた日本後記により上流階級には知られていたとすると、それに定朝とその一門仏師の想像力が刺戟され、印度渡来の菩薩様に和琴に加えて一弦琴を持たせてやろうということになった可能性はありうる。それが北20号像に結実したのではなかろうか。

そうだとしたら面白いなと思いながら「漁火」を奏でてみた。


菅直人財務相の登場に期待

2010-01-08 17:48:17 | Weblog
菅直人副総理が財務相に就任し、初登庁しての記者会見で述べた言葉がよかった。「十数年前、厚相になった時にも言ったが、大臣は役所の代表ではなく、国民が役所に送り込んだ国民の代表だ」というのである(強調は私)。久しぶりに信念を貫く政治家の言葉を聞かされた思いがした。また就任会見に先立ち、「財務省は良い意味でも悪い意味でも霞が関の象徴的な役所だから、より公開されたかたちで、意味のある仕事をできるような役所に変えられれば、霞が関を変える一つのモデルになるんじゃないか」とも、「広い意味で言えば情報公開。予算をつくるまでが仕事ではない。予算が本当に国民のためにきちんと効果的に使われているか、予算の執行の管理をする」とも述べたことが伝えられている。本気でやりそうだ、と感じさせるところがいい。

それにしても経済のことが私には分からない。菅財務相が「もう少し円安の方向に進めばいいなと思う」と言っただけで、これを口先介入と言うそうであるが、外国為替市場で円売りが加速し、経済人は「財務相の発言としては直接的過ぎる。市場との対話に不安を抱かせる」(野村證券の木内登英経済調査部長)と批判するし、鳩山首相も「為替は安定が望ましい。急激な変動は望ましくない。政府としては基本的に、為替に関しては少なくとも私は言及すべきではないと思っている」と批判している。財務相のちょっとした一言で大げさに反応する市場のほうがおっちょこちょいだろう、と私は言いたいのに、それが世間には通用しそうもないからである。

2010年度の予算案にしてもそうである。歳出が92.3兆円にもなるのに、財源となる租税及印紙収入が37.4兆円(これ以外にその他収入が10.6兆円)しかないものだから、残りの44.3兆円を国債で賄おうというのであるから大胆としか言いようがない。家のローン資金を銀行から借りるのなら担保は要るし返済計画は厳しくチェックされるのに、考えてみたら国に長期の返済プランなんて無いではないか。それなのに債券を刷るだけで金を簡単に調達できるところがまた私には分からない。借金を返すには長期にわたる景気浮揚策の策定が欠かせないのに、それが国民の前に示されていないから不安になるのである。民主党政権はもうばらまきはほどほどにして、歳入の確保に説得力のある現実的な施策を示すべきであろう。鳩山首相が頼りないだけに、副総理でもある菅財務相のさらなるリーダーシップを期待したいものである。

郵便不正事件の行方 村木厚子元雇用均等・児童家庭局長が無罪であれかし

2010-01-06 20:57:02 | Weblog
郵便不正事件の被告人の一人で、虚偽有印公文書作成・同行使罪で起訴されている厚生労働省元雇用均等・児童家庭局長の村木厚子さん(起訴休職)の初公判がこの27日に開かれるとのことである。一貫して無罪を訴え続けてきた村木さんが昨年11月25日、5ヶ月ぶりに大阪拘置所から保釈された時にも、記者会見で「偽の文書を作成するよう依頼されたことも、引き受けたことも、部下に命じて作らせたことも一切ない」(産経新聞 2009年11月26日 09:28)と関与を完全に否定した。

この事件の概要を1月6日付けの読売新聞は次のようにまとめている。


この事件が最初報道された時に私はまだ「藪の中」の郵便不正事件で次のように述べた。

逮捕された村木厚子前雇用均等・児童家庭局長が虚偽有印公文書作成・同行使容疑を全面否定しているということなので、今のところマスメディアの伝える話ではつじつまが合わない。最初は全面否認でもやがては全面降伏という事態も考えられるが、私としては全面否認が真実であってほしいという気がある。私なりに高級官僚に対するイメージなるものがあって、このような程度の低い事案でそのイメージを崩されたくないからである。

本省の課長・局長と言えばエリート官僚の最たるもので、刻苦精励のみで手に出来るポストではなかろう。村木前局長にしても見識ある女性キャリアー官僚としての自覚は当然あったはずで、「議員案件」がどれほどのものなのか知らないが、たとえ元部長からの指示があったにせよ、理に合わぬ指示に唯々諾々と従ったとは到底考えられない、と私は常識的に思ってしまう。女性のかたくなさに信を置きたいとの私の願望なのかも知れないが・・・。

私は現役時代を国家公務員として過ごしたこともあって、いわゆる「高級官僚たたき」に他人事のような顔をして付和雷同できがたいところがある。天下りとか渡りとかには批判的な立場をとるが、その一方、公僕としてのプロの仕事ぶりを期待するところが大きいのである。こういうずさんな仕事ぶりで、期待を裏切られたくないとの思いが強い。ところが初公判を前にして、事態が大きく変わろうとしている。村木元局長に指示されて偽の証明書を作成し、村木さんに手渡したとされている元係長が、伝えられるところでは来る公判で次のように証言するらしいのである。

 関係者によると、上村被告は捜査段階で、村木被告から指示を受けて偽の証明書を作成し、村木被告に渡したと供述。しかし、村木被告の公判に証人出廷し、指示や手渡したことを否定する方針で、「検察官に誘導され、うその供述をした」と主張するとみられる。
(毎日新聞 2010年1月6日 11時37分(最終更新 1月6日 12時45分))

しかし謎もいぜんとして残る。

自身の公印が押された証明書が発行された点は「ハンコは私自身が押すわけではない。誰の手でどうやってとは、想像では申し上げられない」と話した。
(産経新聞 2009年11月26日)

と村木さんが述べているのであるから、どこでどのように公印が捺されたのかが不明であるし、またこの証明書が、ではどのような経路でそれを作成した元係長から凜の会元会長に渡ったのか、実証されなければならないなどの問題は残るが、村木元局長の無罪の可能性が高まったように素人目には見える。さて、どうなるのだろう。

面白くなかった第53回NHKニューイヤー・オペラコンサート

2010-01-04 10:40:33 | 音楽・美術
一月三日に催されるNHKニューイヤー・オペラコンサートを私は毎年楽しみにしているのに、今年は面白くなかった。去年もそのような印象を持ったが、今年はますますその思いが強まったのである。

自分の好きなアリア、重唱をこれまた好きなベテラン歌手が、また未来の大器が歌う。もちろんこれにオーケストラによる序曲や合唱が加わってもいいし、バレーのシーンがあったもよい。悲劇も喜劇もあるがそれは演劇のうえでのこと、この舞台を彩るのは新春の華やぎ、そして主役はあくまでも歌手と歌なのである。思いつくままに往年の歌手を挙げるとすると伊藤京子、中沢桂、東敦子、中丸三千繪(現役だけれど)、五十嵐喜芳、立川 清登、栗林義信、山路芳久、栗本尊子、伊原直子、岡村喬生、・・・・などなど、常連のごとく登場する歌手がいる一方、ゆるやかな新陳代謝が進んで新しいスターの現れるのを楽しんだものである。

今年の幕開けでは未来工場のような舞台装置が重々しくて暗く、新春早々冥界に連れて行かれたような気分にさせられて、期待がはやくも萎えかけた。そして場違いな進行役が登場する。変に役者ぶるくせに、予言者めいた扮装とアップにされた顔面での顔料の刷毛模様がずさんで、おまけに宇宙人の角かと思ったらその先にマイクがついていて、それでまた興ざめである。それが、進行役だから当然と言えば当然だが、はじめから終わりまで大きな顔(時には画面一杯)で一人合点の抑揚よろしく、くどくどご託をならべる。はようひっこめ!はよう歌を聴かせろ!と何遍叫んだことか。歌手と歌さえあれば私には十分、大げさな舞台装置や目障りだけの狂言廻しはまったく要らない(役者さんに個人的な恨みがあるわけではない、念のため)のに、なぜNHKはこんな演出をするのだろう。ついでに言えば歌手もだれそれとすぐに分かる程度の顔作りで出て欲しかった。佐野成宏なんてこちらがキョトンとしてしまったし、森麻季も生気を感じさせなかったではないか。女性歌手は限りなく美しくあれ、である。中途半端な役作りはかえって興を削ぐだけではないか。

第53回 NHKニューイヤーオペラコンサートにはイベント概要として次のような説明がある。

始まりの歌声、終わらない世界。
新春恒例の「NHKニューイヤーオペラコンサート」。
53回目となる今回のテーマは、「歌の起源、オペラを超える劇空間」。
国内外で活躍する豪華ソリストを招き、オペラの400年にわたる時の流れを、スペクタクルで官能的に表現し、新年を飾るにふさわしい贅沢なステージを繰り広げます。

こんな下手な筋書きはまったく不要である。なにが「スペクタクルで官能的」だ。なにが「贅沢なステージを繰り広げます」だ。夾雑物を大げさに持ち込んだだけなのに、独りよがりにもほどがある。歌手の顔見せこそすべてなのである。来年こそNHKニューイヤー・オペラコンサートの原点に立ち返り「乾杯の歌」をぜひ復活して欲しいものである。

歌はよかった(まだ拗ねている)。以上、妄言多謝。


「師」ならではの本 内田樹著「日本辺境論」

2010-01-03 15:09:13 | 読書

かって先生は偉いのだ、が教育の原点(2007-06-24)と文学者の文章 MetaphorがJargonを生む(2009-02-22)で内田樹さんを取り上げたことがあり、この方のお名前はよく存じているが、その著作を読んだことはなかった。書店では「内田樹コーナー」が出来るほどの売れっ子で、またけっこう多作の方なので「天才は多作である」の逆も真、ひょっとして天才?との思い込みで敬遠していた。それなのに年の暮れ、ついに「日本辺境論」(新潮新書)に手を出してしまった。やはりよく売れているとみえて、2009年11月20日発行で1ヶ月後の12月20日には早くも第5刷となっていた。

決して読みやすいという本ではないが、一日でとにかくおわりまで読み通したものだから大したものである。「終わりに」の始めにでてくるが、「最後までお読みくださってありがとうございます」との挨拶を受けるだけの資格はありそうだと誇らしげな気分になれた。

かって村上春樹さんがエルサレム賞を受賞した時、その受賞スピーチが何を言いたいのか、私にははっきりしないので、他の人がどのように受け取っているのだろうかと思っていたところ、内田さんのブログ記事に出会ったのである。その文章を読んだ私は内田さんを村上春樹さんの「伝道者」役をかってでているように思い、文学者の文章 MetaphorがJargonを生むで次のように述べた。意は通じると思うので、このやや長い引用を読み飛ばしていただいても結構である。

私は言葉というものは伝えたいメッセージを一義的に相手に伝えるための道具であると思っている。言葉の受取手がそのメッセージを一義的に了解してこそ言葉が言葉たる機能を発揮したと思っている。ところが私には村上氏のメッセージが彼の言葉を介して一義的に伝わってこないものだから、何を言いたいのか分からないと述べたのである。では他の人はどのように村上氏の言葉を正しく受け取った(と主張できる)のだろうかと疑問に思っていたら、内田樹さんの文章「壁と卵(つづき)」にぶち当たった。私のように村上氏の「たとえ話」が分かりにく人が多いと思われたのか、「伝道者」役を買って出られたようである。この中で内田さんは

System というのは端的には「言語」あるいは「記号体系」のことだ.
私はこのスピーチをそう理解した。
「政治」とは「記号の最たるもの」である。
現に、このスピーチの中の「システム」を「記号」に置き換えても意味が通じる。》と述べている。

この方は凄いと思った。独自の文章解析眼でもって私が理解をあきらめた「wall」の「metaphor」である「The System」を「言語」あるいは「記号体系」のことだと理解されたのである。ところが、である。「The System」がさらに「言語」あるいは「記号体系」あるいは「記号」と言葉を換えたものだから、「The System」だけでチンプンカンプンな私にはますますお手上げでなのである。でも私が世間の人に比べて文章理解力がそれほど劣っていることはあるまいとの自負心も多少はある。と思ったら「The System」も「言語」も「記号体系」も「記号」も、「metaphor」ではなくて「jargon」に見えてきたのである。

「日本辺境論」にも「はじめに」のところで

最初にお断りしておきますけれど、本書のコンテンツにはあまり(というかほとんど)新味がありません。(「辺境人の性格論」は丸山眞男からの、「辺境人の時間論」は澤庵禅師からの、「辺境人の言語論」は養老孟司先生からの受け売りです。この場を借りて、先賢に謝意を表しておきます)。
とあるので、このところを一応文字どおり受け取ると、ここでも内田さんは先賢の「伝道者」を自認しているとも言えよう。

多くの先賢からの引用が随所に出てくる。アルベール・カミュ、カール・マルクス、ローレンス・トープ、司馬遼太郎、梅棹忠夫、川島武宣、吉田満、ルース・ベネディクト、池部良、山本七平、等々である。あえて告白すると、私はここで引用されている文章はもちろんのこと、これらの著書(小説を除く)に目を通したこともない。だからこそどのような小さなことでも、すべて私が頭の中で組み立てた考えを自分の言葉で語らざるをえないのであるが、そのような思考・表現行動が身についてしまっている私には、先賢の言葉を一々気にしないといけない「伝道者」がとても窮屈な存在に見えてきて、その思考過程について行くのも面倒になる。ところが私が読みづらいと思うこの本にも多くの読者がついているのである。不思議に思ったが、その謎には秘密がありそれを私は解き明かすことができたのである。いや、実は謎でもなんでもなく、この著書で内田さん自身が公開しているのである。学びの極意としてこのようなことを述べている。

 弟子はどんな師に就いても、そこから学びを起動させることができる。仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であっても、その人を「師」と思い定めて、衷心から仕えれば、自学自習のメカニズムは発動する。(149ページ)

さらに『こんにゃく問答』という落語を持ち出して、

 奥の深い落語です。『こんにゃく問答』のすごいところは、この学僧はこんにゃく屋の六兵衛さんから実際に深遠な宗教的知見を学んでしまったということです。弟子は師が教えたつもりのないことを学ぶことができる。(強調は著者)これがダイナミズムの玄妙なところです。(150ページ)

師弟関係が成立しておればこのように弟子は師が教えたつもりのないことを学ぶことができるのである。この真理さえ心得ておけば「師」は「師」らしく振る舞うだけでよい。その極意は、数語で表現できる真理を引用やMetaphor、Jargonで飾り立てることで、要するに何を書こうと中身は問題ではない、ただ弟子の考えようとするモチベーションをかき立てればそれでよいのである。「師」が何を宣おうとファンは、いや「弟子」は自ら会得したことを「師」の教えとあがめ奉る仕組みとなっているのである。この仕組みを早々と見抜き、あまつさえそれを堂々と開陳する内田さんはなんと自信に充ち満ちたお方であろう。敬服に値する。しかしその仕組みが分かったからには、今後本のタイトルと帯の文句を目にするだけで満足するファンも増えることだろう。

私の初遊びはこれでおしまい。




「ぜいたくは(素)敵だ」 そして「欲しがりません勝つまでは」の呪文

2010-01-02 16:45:40 | Weblog
ぴりっとした冷たさに新たな年の到来を感じつつ、元旦は地元の神社と生田神社に初詣をした。参詣客がかなり詰めかけているようにみえたが、人の流れに身を任せると思いの外すいすいと拝殿に近づくことができた。世界平和、人類共存共栄、知己家族の健康、ついでに私もあと5年ぐらいは健康に生かしていただくよう祈願する。

夜は例年のごとくウイーンフィルのニューイヤーコンサートを楽しむ。ちょっとおめかししたようなお祭り騒ぎがいい。世界70カ国ほどに同時衛星中継されているというから巨大ビジネスである。ワルツに合わせて踊るバレリーナ一人ひとりのコスチュームを、世界の名だたるデザイナーがデザインし、仕上げるまでの実に手間のかかる工程を紹介していたが、こういう贅沢のできるのも資金が豊富だからであろう。このデザイナーは自家用ジェット機に何匹もの犬を連れて乗り込み、あちらこちらに移動するような人なのである。まさに贅沢の極みと言えよう。やはり贅沢は素敵だなのである。この言葉をわざわざ強調にしたのには理由がある。戦前・戦時中、軍費調達に狂奔した時の政府は「ぜいたくは敵だ」とのスローガンで国民に窮乏生活を強いた。街の目につくところに立てかけられた立て看板のその「敵」なる文字の前に、「素」と書き加えた素晴らしい諧謔精神の持ち主がいたと言う話に私が心惹かれるからである。

贅沢と言えばこの観客の中に毎年必ず日本人女性が何人もいる。着物をまとっているから日本女性とすぐに分かる。このコンサートのチケットを入手にするのは大変だと聞くから前もって計画し、そしてはるばる日本から来たのだろうか。それだけでも贅沢なのに、このような場でそれなりの身なりであるからには着物・帯・履き物など一式で相当なものになるのだろうと想像する。海外で、かっての薩摩治郎八に及ばずとも、洗練された贅沢をさりげなく楽しむ日本人の存在は嬉しい。贅沢は素敵なのである。

今日、元日二日の正午のニュースでは東京の老舗デパートで福袋の初売りに8千人の行列が出来たと報じていた。食費を切り詰めてでも福袋を、と買いに来た人が言っていたが、これも考えようによれば贅沢なのかも知れない。私の世代はそれこそ戦時中で「欲しがりません勝つまでは」と吹き込まれ、そのまま戦争に負けてしまったものだから、いわば呪文がかけられっぱなしの状態になっている。そのおかげでものに対する執着が薄いのは有難い。無いならないで諦める、が身についてしまっている。その上、自分で出来ないものだから、ものにお金を使うという他者の行為に寛容になれるのである。その代わりというか、お金で買えないものへの傾斜が大きいようである。物欲が精神文明希求に転化したといえば格好が良すぎるが、お正月に免じて少々の大口を許していただこう。

ますます自由な心でこの一年を送りたいと思う。