日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

JALにはじめてのった時の話

2010-01-20 21:39:01 | 海外旅行・海外生活
日航、会社更生法を申請 再生機構が支援を決定

 日本航空は19日、東京地裁に会社更生法の適用を申請した。官民が出資する「企業再生支援機構」が同日、日航支援を正式に決め、政府が承認した。運航や営業は平常通り続ける。機構は日航を管理下に置き、3年以内の経営再建を目指す。グループの負債総額は2兆3221億円で、事業会社では過去最大の経営破綻(はたん)になった。
(asahi.com 2010年1月19日20時34分)

これは昔流に言えば倒産、すなわち会社が潰れたと言うことだろう。とにかく日本のフラッグシップ・キャリアであったJALの株券が文字通りただの紙切れになるのを目の前で見せられたわけで、これは凄いことが起こったのだと経済音痴の私でも分かった。しかし分かるのはそこまでで、先は分からないことだらけである。倒産したら会社が潰れるわけだから残るのは精算処理だけかと思うのに、また大金を注ぎ込んで再建させるという。いろんな立場からそれぞれの思惑があってこのような処理になったのだろうが、どれほどの成算があるのやら、門外漢にはさっぱり分からない。破産したのにJALの航空機が今も世界の空を飛び回っているとのことなので、ただただ安全運行を念じるのみである。

この日航機に私がはじめて乗ったのは1968年9月27日(アメリカ西部時間)のことである。留学のために一家でアメリカに渡ったのは1966年8月であったが、その時は船と汽車の旅だったので、アメリカから帰る時にはじめて飛行機にのったのである。昔の書類がたまたま目についたので整理していたら、偶然にもそのときのJALの航空券などが見つかったので昔懐かしさに取り出してみた。Santa Barbaraの旅行社にLos AngeresからHonolulu、東京経由で大阪(伊丹)までの切符の手配を頼んだのであるがその搭乗機がJALであった。当時、国際線はJALだけだったのでほかに選択肢はなかったのである。下図はその時に貰ったJALの時刻表の表紙と、太平洋路線西回りのスケジュールに旅行社からの旅程表を重ねたもの、さらに航空券の控えである。




これらを眺めているといろいろなことが思い出された。われわれ夫婦と子ども3人、計5人のご一行様が1968年9月27日11時30分にLos AngeresをDC-8機で飛びだち、同じ日付の13時40分にHonoluluに到着、そこでレンタカーをして予約していた市内のホテルに直行した。北極回りの路線はまだなかったので、大阪まで直行すると長時間のフライトになる。そこで途中で一息入れることにしたのである。一泊して翌日真珠湾を訪れようとしたがフェンスにはばまれて中に入れなかった。そしていよいよ空港に戻りかけた時に私の視力に異常が発生したのである。交通信号の赤、青、黄の三色がすべて灰色に見えて色の識別ができなくなったのである。今から思うと疲労困憊の極に達していたのだろう。出発までの1週間ほどは睡眠もまともに取れずに、引き揚げのための諸々の準備に大童となっていたからである。しかし空港には急がなければならない。手足は幸いなんとか動いたので交差点に差し掛かると、妻に信号灯の色とGo、Stopを叫ばせながら機械的に手足を動かしてなんとか空港に滑り込んだのである。色が分からなったのはこの時限りである。

東京まで私はぐったりとなってひたすら睡眠を貪っていたが、あとで聞くと生後一年半の次男を連れた妻がスチュワーデスの扱いにかなり不満を募らせたそうである。赤ん坊をなんとなく邪魔者扱いするスチュワーデスがきわめて慇懃無礼であったと言うのである。たとえば白湯を頼んでも何回か言わないと持ってきてくれなかったとか、おむつの取り替えに冷たい視線を向けられたとか、私に言わせるとその程度のことなのであるが、妻の神経の方が繊細であったのだろう。しかし私もカチンと来ることがその後であった。羽田で伊丹行きへの乗り換え手続きにかなり時間を取られて、国際線から国内線へ子どもを引き連れ徒歩で急いだが、ようやく間際になって牽引車のようなものに拾い上げて貰ったもの間に合わず、予定の便はわれわれを置いて出発してしまった。結局一便遅れたが、連絡がないまま搭乗機からわれわれが降りてこないものだから、出迎えに来た双方の両親が心配になって問い合わせて、ようやく様子が分かるという始末であった。妻はもう二度とJALには乗らないとお冠であったが、そんなに気張るまでもなく、JALの航空券はいつも割高で貧乏学者としては敬遠せざるを得なかった。

ちなみに1966年にアメリカから帰ってきた時のチケット代はLos Angeresから大阪まで大人が397.10ドル(子どもはその半額)で、360円の時代だったから約15万円、当時の物価水準を考えると結構高価であったが、それを十分に賄える給料をアメリカが出してくれていたのだからその度量には今さらながら敬服せざるをえない。

JAL破産が何故か昔話になってしまった。