日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

日本分子生物学会「論文調査ワーキンググループ報告書」に失望して

2008-10-16 12:18:03 | 学問・教育・研究
科学論文のデータの捏造と改竄を教授自らが行ったという特異なケースとして注目を浴びたいわゆる阪大杉野事件が表沙汰になったさいに、私は阪大杉野事件への関連学会の対応は?で、以下のような問題提起を行った。

《今回は杉野教授がJBCに発表した論文の『不正』がことの発端であったが、「Genes to Cells」にも杉野研究室からの論文が掲載されている。私は日本分子生物学会がこれらの論文についても信憑性を独自に検討するべきだと考えるが、現在のところかりに動きがあるにしても外部には伝わってきていない。

日本分子生物学会といえば、同じ仕事仲間同士が集まっている、その意味ではもっとも血の濃いいもの同士の集団である。なにか『徴候』を感じる人が一人ぐらいはおってもいいような気がするが、今はそのことを深く問わない。しかし現実に他誌への投稿論文に不正があったことが判明した以上は、この学会誌への掲載論文について学会として何らかの対応をなすべきである。自浄能力は大学だけに問われているのではないことを、学会員は心に銘記すべきなのである。

日本分子生物学会は何がどの程度まで明らかにされうるかはさておいても、阪大杉野事件にそれなりのコメントがあってしかるべきだろう。極めて難しい問題ではあるが、関係者の前向きの取り組みがお互いの信頼感をより強めることになることは間違いない。》

この10月10日に日本分子生物学会が「論文調査ワーキンググループ報告書」ならびに「意見書(杉野元教授)」を公開したのである種の期待をもって目を通したが、結果を先に述べると、論評するにも値しないような出来であるのに失望した。その不誠実さの一つを取り上げると、なぜ私が失望したかお分かりいただけると思う。

5人のメンバーからなる「日本分子生物学会論文調査ワーキンググループ」が設置されたのは、私の問題提起から半年以上も過ぎた2007年4月である。《杉野元教授を主要著者としてこれまで発表された論文について、あらためて共著者への聞き取り等をもとにして調査した》ところ、《最近発表された下に掲げる論文5 報の図のいくつかについて疑義が呈された》というのである。その論文とは以下の5編である。

  1. JBC. 2006, Epub on July 12 (already withdrawn)
  2. JBC. 2006, 281; 21422-21432. (already withdrawn)
  3. JBC. 2002, 277; 28099-28108: Fig. 1E, 3, 5C
  4. JBC. 2002, 277; 37422-37429: Fig. 2, Table 3
  5. Genes Cells 2005, 10; 297-309: Fig. 3, 6, 7

5番目の「Genes Cells」は正しくは「Genes to Cells」ではないかと思うが、それはともかく、これが日本分子生物学会の学会誌であるので、ここに掲載された杉野氏の発表論文の信憑性の追求を私は望んでいたのである。この論文に関する報告書の部分は次の通りである。

《論文5に関しては、共著者から提出された資料にもとづいて、本WGで内容に誤りがあると判断し、ここに新たに報告する。杉野元教授は、実験データの一部が何者かに持ち去られてしまったので有効に反論できないと主張されている。》(強調は引用者、以下同じ)

「ここに新たに報告する」とあるから、大阪大学大学院生命機能研究科研究公正委員会の行ったような精緻な調査報告が続くのかと思ったら、なんとなんと、ただこれだけで終わりなのである。あまりの呆気なさに私は目をぱちくりとさせてしまった。日本分子生物学会はこの報告書の「はじめに」で《杉野元教授の論文問題に対する説明責任を果たす》と宣言している。その答えがもう一度引用するが後にも先にも、《論文5に関しては、共著者から提出された資料にもとづいて、本WGで内容に誤りがあると判断し、ここに新たに報告する》、ただこれだけなのである。杉野氏の「Genes to Cells」に掲載された論文が何編で、それを全部調査したのかどうかも分からないが、論文5の内容に誤りがあったことだけを鬼の首でも取ったかのように吹聴してそれで終わり、これには杉野氏も反論のしようがないだろう。

以上はこの報告書のクオリティを示すほんの一例で、全般的に科学者の報告書とは思えない曖昧さを多く残したままにしており、稚拙な論理の組立と国語能力の欠如と相まって、この報告書は真面目に読もうとするものを苛立たせるだけなのである。嘘だと思ったらどうぞ論文調査ワーキンググループ報告書にお目通しあれ!杉野氏の意見書も含めて9ページのPDFファイルである。

本当はこれで終わりにしたかったのであるが、ひとつ見逃すことの出来ない次のような言説があったので取り上げる。その言説とは「おわりに」に出てくる以下の部分である。

《今回の論文問題を含め、昨今研究社会で稀ならず露見する研究不正問題は、研究の競争環境も背景にあり、もし今後、競争的研究環境が強まる中で研究者社会が性善説で成り立っていかない状況になれば、上記のような事後処理的なしくみだけでは不十分であるということになるおそれがある。そのような場合には、内部告発に頼ることなく、研究者による調査機関、あるいは第3者の調査機関が、定期的に研究グループの研究体制を調査し、また発表論文については抜き打ち的に研究者の保有する生データと発表内容を対比するような調査をすることが必要となることも考えられないことではない。》

強調の部分は、たとえば永井荷風の「断腸亭日乗」などに出てくるが、戦前、私娼窟の取り締まりを抜き打ち的に行っていた警察の臨検を思い出させるものがある。こういうことを連想する私も古いが、その私が驚く学問・思想の自由に真っ向から対立する『臨検』なる発想を研究の場に持ち込む可能性をこの報告書は示唆しているのである。そのような報告書を公表する日本分子生物学会の体質とは一体なんだろうか。

「杉野元教授の論文問題の背景についての考察」の冒頭に《杉野研究室における個々の研究指導は、一般的な研究室のものと大きくかけ離れてはいなかったと思われる。》と記しておきながら、その数行後には研究指導の実態として《1つの研究課題に必要な実験を細分化して複数の学生や若手研究者に分担遂行させる研究体制》とも、《研究の全体構成を把握しているのは杉野元教授だけであることが多く(ただし、杉野元教授は、説明はしていたと主張している)、個々の担当者の研究内容は必ずしも系統的でなく、その時に必要な実験を場当たり的に分担する状態であったようである。また、共同研究者や学生が全体構成を把握しているか否かにかかわらず、このような分担の指示があった場合には、立場上、断れない状況であったとの関係者の指摘もあった。》とも述べられている。また「PI (principal investigator;研究責任者)を中心とした研究グループ」では、それに続いて《今回の事例では、特有の背景を指摘することもできるであろうが、グループ構成員とPIとの議論や研究進行中のグループ内の交流は確保されていたことも認められる。その点ではごく一般的な状態の研究室で起きた事件であり、今後の研究者の姿勢について多くの教訓を示している。》とも記されている。

私がかねてから指摘しているように学生や若手研究者をテクニシャン代わりに使っているとしか思えない杉野元教授の研究指導が、分子生物の「一般的な研究室のものと大きくかけ離れてはいなかった」とか、「ごく一般的な状態の研究室で起きた事件であり」と云うのであれば、これはこれでおおごとである。これが『臨検』的発想が日本分子生物学会内ですんなりとまかり通る風土ということになるからである。

論評するに値しないといいながら、ついつい筆が滑ってしまったので、もう一つ当今の学者・研究者のだらしなさを指摘しておこう。それはこの報告書につけられた杉野元教授の意見書の次の一文にある。

《今回の件で最も致命的なことは、阪大調査委員会の為の資料提出の準備中、大学の私の教授室の書架に置いていた1999年から2006年までの私の実験ノートファイルが紛失しているのが判明したことです。2006年8月11日以降(8月10日には書架に実験ノートファイルがあったことを私の秘書が確認しています)、私がアメリカ出張から帰国して大学に出勤した8月31日迄の間に何者かがこれらを持ち去ったと考えられます。このノート紛失がこれら全ての件に関して私が行った実験の生データの証拠提出が不可能となり、私の立場がより一層不利になってしまいました。》

Dan BrownやMichael CrichtonのSFでもあるまいに、このレベルの弁明で世間が納得するとでも思っているとしたら杉野氏は文字どおりの学者馬鹿である。当然警察へは盗難届が出されていることと思うが、捜査の進捗具合を知りたいものである。これに対して報告書はなにも触れていないので読む者にフラストレーションを残すだけとなっている。

学問・思想の自由を守ることに鈍感な日本分子生物学会の会員から、これからも不祥事が露呈したとしても私は少しも不思議には思わないだろう。若い将来のある学問の担い手が不祥事に巻き込まれないよう、ただそれを祈るのみである。

阪大杉野事件に関して、私なりの考えは阪大杉野事件の結末・・・にまとめたつもりである。


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