日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

日本分子生物学会「論文調査ワーキンググループ報告書」の何が問題なのか

2008-10-20 20:50:23 | 学問・教育・研究
私のサイトに急にアクセスが増えたのはどうも日本分子生物学会「論文調査ワーキンググループ報告書」に失望しての記事のせいのようである。現にGoogleで『日本分子生物学会「論文調査ワーキンググループ報告書」』を検索すると次のような結果で三番目に顔を出している。一番目、二番目の分子生物学会の公式サイトにひき続いての場所なので人目を引いたのであろうか。ところが私はこの記事の中で《論評するにも値しないような出来であるのに失望した》とこの報告書に断罪を下しているのである。具体例を一つ挙げてなぜ私が失望したかを述べているので、私の意味するところは読者にご理解いただけるとは思っているものの、「論評するにも値しない」とは年甲斐もなく木で鼻を括ったような決めつけであることが気になりだした。なぜ「論評するにも値しない」のかもう少し説明をすべきではないかと思い始めたところに、都合良くこのGoogleの検索に出てきた二つの記事が私の目にとまったのである。


   (2008/10/19 17:33現在、20日午後6時25分現在ではトップに出ている。)

六番目のエントリーは「地獄のハイウェイ」さんの分子生物学会のカミングアウトという記事で、分子生物学会が《「学生の資質が低下」「学位審査が甘くなっている」とはっきりと書いてあるし自立した若手研究者の育成が、実際にはほとんど行われていない》ことなどを分子生物学会がよくぞ自ら認めたものよ、との趣旨のものである。

また七番目のエントリーは「ある理系社会人の思考」さんの大学院教育がイマイチだと学会が認めたという記事で、そのタイトルように趣旨は「地獄のハイウェイ」さんと共通するところがある。現役のお二人は報告書のこの部分の文章を違和感なく受け取られたようであるが、一昔前に現場を離れて大学事情に疎くなった私には引っかかるところだらけなのである。そういうことから論評に値しないと云いきってしまったのである。そこで「地獄のハイウェイ」さんが引用されている報告書3ページにある次の文章を例に、そのどこがどう問題なのかを順を追って述べたいと思う。

《しかし、大学院の重点化で学生の資質が相対的に低下し、自立を促すような教育が以前より難しくなっていること、および最終的な学位審査が甘くなっていることが懸念される。また、学問の専門性の深化に加え、大学の法人化等による組織の変動や研究者への職務の負荷の増大のため、研究者間の交流がより難しくなっていることは憂慮するべきことであろう。今一度、単に研究成果だけを求めるのではなく、自立心のある若手研究者の育成を可能とし、相互批判できる研究者社会の再構築を考えるべき時期にあるのではないだろうか。》(強調は引用者、以下同じ)

この文章全般の問題は、具体的な内容が伝わってこないのに、自己反省的な弁が一人歩きをして、それにほだされてか多くの人が満足してしまうところにある。

まず強調部分の『大学院の重点化で学生の資質が相対的に低下し』とはどういうことなのか。大学関係者が折に触れて仲間内でこのようなことを話しているのかも知れない。しかし国民をも視野に入れての報告書となると仲間内での言葉は通用しない。大学院の重点化で学部教育より大学院教育が重視されるようになり、大学院生のより手厚い教育が可能になったと世間では受け取るのではなかろうか。そう思っているところに『学生の資質が相対的に低下し』なんて唐突に云われると、頭脳が思考停止してしまう。しかも『相対的』とは何に対してどうだと云うのだろう。この『学生』が大学院重点化を遂げた大学の内にいるのか、外にいるのか、それとも内外を問わずなのか、それすら分からない。このように説明が絶対的に不足しているものだから、並べられた言葉が何の意味も持たないのである。

次に『自立を促すような教育が以前より難しくなっている』とはどういうことなのか。まず早い話が『自立を促すような教育』とは何を指すのか。というよりそもそも院生や若い研究者をテクニシャン代わりに使ってきた指導者に『自立を促すような教育』という意識が一欠片でもあったのだろうか。

私が博士課程の院生を指導していた頃は、研究テーマを与えてからは論文の作成、投稿に至るまで、一貫して院生が研究を主導した。その間、新しい実験結果が出る度に共に検討を行い、お互いが納得するまで実験を繰り返してそれが完成すると次の実験に移っていくのが常であった。論文執筆ももちろん院生が一から始めて原稿がまとまったところで私が査読し、徹底的に朱筆を入れる。それをもとに院生がまた書き直す。私の朱筆が気に入らないと自説を強硬に主張する院生もなかには居て、十回近くもやりとりを交わす場合もあった。全過程を通じて徹底的な議論は当然の前提であった。

これが私の行ってきた『自立を促すような教育』で、この「しごき」に堪えられた院生のみが晴れて博士の学位を得ることが出来た。私の周辺ではこのような研究指導・教育が至極当たり前のことで、指導者と院生の共通認識であった。この『自立を促すような教育』を念頭に置いて上記の文章を見ると、次のような疑問が生じてくる。

私のやり方で『自立を促すような教育』をすることが『以前より難しくなっている』とは具体的にはどういうことなのか、私には理解できない。そこで報告書の中の気になる部分に注目しよう。4ページの真ん中からやや下がったところの《PIが、筆頭著者となる大学院学生などには論文を書く実力が足らないと考え、また、研究競争に不利にならないよう、自らが効率よく複数の共著者のデータをとりまとめ論文の執筆を行うことは、昨今ではしばしば耳にする。》という文章である。

『昨今ではしばしば耳にする』とはまるで他人事のようであるが、この報告書を作成した委員全員が自分の行っていることをこのように婉曲に表現したとしよう(反論があればどうぞ)。とするとこの強調部分は私が云う『自立を促すような教育』なんて、もともとから分子生物学会関連研究室では行われていなかった、と云っているようなものである。『自立を促すような教育が以前より難しくなっている』の『より』は「比較」の基準を示す格助詞ではなく、時間的起点を示す格助詞と受け取って『以前から難しくなっている』と解するべきなのであろうか。それはそれなりに意味が通じることになる。しかし報告書を読む者に、このように「一体何を云いたいのだろう」とあれやこれやと考えさせる文章なんて最低で、これが私が以前のエントリーで《国語能力の欠如》と指摘したものの一例である。

『最終的な学位審査が甘くなっている』のは、当たり前のこと。上の強調部分にあるようにPIが自分の欲望追求のために研究指導・教育をないがしろにし、PIが執筆した論文で院生に学位を取らせているのだから。

これではっきりしているのは、研究指導者がまともに研究指導・教育を行っていないことが『自立を促すような教育』の欠如になっていることなのである。まさにそれを裏付けるように報告書の引用部分で『学問の専門性の深化に加え、大学の法人化等による組織の変動や研究者への職務の負荷の増大のため、研究者間の交流がより難しくなっていることは憂慮するべきこと』と述べ、外的環境の変化を研究指導・教育に十分時間を取ることの出来ない言い訳としている。

しかしこの引用箇所も具体的に何を云っているのか理解しにくい。『学問の専門性の深化』とは何を意味するのか。私が現役時代の昔でも『学問の専門性の深化』は存在していた。たとえば実験で新しい測定技術を導入する。それも自分で工夫したその当時は世界でただ一つしか存在しない装置で新しい現象を発見する。これこそ『学問の専門性の深化』で、私自身それを成し遂げたという些かの自負はある。それにより世界のあちこちから共同研究を申し込まれる機会が増えたのだから、『学問の専門性の深化』で『研究者間の交流がより難しくなっている』とは私の経験とは真っ向に相反していることになる。だからこの報告書を素直に受け取れないのである。報告者は一体何を云いたかったのだろう。

同じく『大学の法人化等による組織の変動や研究者への職務の負荷の増大』とは何を指すのか、これも具体的な事例で昔の大学人にも分かるように説明していただきたいものである。最近私にもよく理解が出来るある酵素に関して特許申請がされていて、たまたま私は申請書に目を通すことが出来た。私は研究結果を特許の種にすることにはもともと反対なのであるが、その立場を離れたとしても、なんと無駄、無益なことに今の研究者がエネルギーと時間を浪費しているのかとの思いを深くした。そしてそのような駆り立てられる研究者に一面では同情の念を抱いた。しかしそのような行為がただ特許申請という実績作りのためだけのもので、いかにその申請内容、申請行為が馬鹿げているかは申請者自身が一番よくご存じのことであろうと私は確信している。となればそのような馬鹿げたことを自分でやらなければ済む話である。今の評価システムで研究者の評価を上げることにはならないが、そんなことはどうでも良いではないか。自分が何をなすべきか、それを真摯に考えれば、研究や教育を阻害しかねない一切の余計なことを勇敢に廃することが出来るではないか(機会があればこのような特許申請がいかに愚行であるのか詳しく論じたいと思う)。

また新しいご時世というのか、大型予算が組まれるようになり旅費が潤沢になったせいだろうか、研究室を留守にして出張にあけくれる研究者をけっこう見聞する。私の大学時代の恩師はそれこそ海外には一度もお出かけにならなかった。その代わり外国からノーベル賞クラス(実際の受賞者も)の学者が多く訪れてきた。もうすでに恩師は実験はされなかったが、教授室には居られるのが普通のことであったので、教授室の前を通る時は足音を忍ばせたものである。ノーベル物理学賞の益川博士がパスポートを持たれたことがなかったことが大きな話題になったが、私の恩師はまさしくその先駆者でもある。このような教授を身近に見て私は育ったものだから、研究室を留守にすることの多い教授の存在が理解できないのである。この報告書では《杉野元教授は、米国NIEHS/NIH に長期的に出張し、研究室を不在にすることが多かった。例えばここ数年は、数名の学生とともに夏に1ヶ月以上滞在していた。》と、教授の研究室からの不在を問題視しているが、教室員に教授の勤務評定をさせたら杉野氏なみに、もしくはそれ以上に、研究室を留守にすることの多い教授が続出するのではなかろうか。

話がやや横に逸れたが、要するに研究指導者が研究・教育以外の『雑務』を切り捨てる勇気があれば、私が云うところの『自立を促すような教育』に真正面から立ち向かえる時間てら十分にひねり出せるであろうと私は云いたいのである。それなのに『大学の法人化等による組織の変動や研究者への職務の負荷の増大のため、研究者間の交流がより難しくなって』なんてただ受け身となって託っているようでは不甲斐ないとしか云いようがない。

日本分子生物学会「論文調査ワーキンググループ報告書」は今ここに取り上げた数行の文章に対してすら、これだけの疑問を私は抱くのである。もしこの報告書全体を私が閲読するとすれば無数のクエスチョンマークと朱筆で埋め尽くされること必定である。これでもって私が以前のエントリーで《全般的に科学者の報告書とは思えない曖昧さを多く残したままにしており、稚拙な論理の組立と国語能力の欠如と相まって、この報告書は真面目に読もうとするものを苛立たせるだけなのである》と述べたことの理由をご理解いただけたかと思う。