敗戦の日の15日、銀メダルを獲得した柔道女子78キロ超級の塚田真希選手と日本柔道男子唯一の金メダルを獲得した100キロ超級石井慧選手の表彰式を観た。女子の金メダリストは中国人で、国旗が掲揚される間、国歌の演奏に合わせて口を大きく開き、明るい表情で国歌を歌っていた。それにひきかえ男子の表彰式では君が代が流れる間、会場からはかすかな斉唱の声が聞かれたが、石井選手は口を一文字に結んだままであった。この時が表彰式の見はじめだったが、その後でも日本人選手は口を閉じたままであった。他国の選手は、たとえば男子競泳の優勝者は国歌演奏の時はちゃんと口を動かしていた。これは躾の問題だと思った。日本では子供の時から家で、学校でしかるべき時に国歌を歌うなんてことを教えてこなかったのだろう。国歌についての私の考えは以前に伴奏拒否の女性教諭に聴いて欲しい「君が代」でその一端を述べているので、興味をお持ちの方にお目通し頂ければ幸いである。
しかし、である。オリンピック憲章の「オリンピズムの根本原則」にある六つの項目を眺めてみると、オリンピック競技は当然のことであるが個人や団体により行われるものであることは明記しているが、国家を意味する言葉は出てこない。それどころか第五章「オリンピック競技大会」の「60 入賞者名簿」には国が表に顔を出すことを積極的に次のように禁止している。
《IOC とOCOG は、いかなる国別の世界ランキング表も作成してはならない。各種目でメダルを獲得した選手および賞状を授与された選手の名前を記載した入賞者名簿を、OCOG が作成する。またメダル獲得者の名前は、目立つような形でメイン・スタジアム内に常時展示されるものとする。》(強調は引用者)
私の単純な頭ではオリンピック憲章の精神と、表彰式での国旗掲揚・国歌演奏がどう結びつくのか理解できない。このようなセレモニーは止めたらすっきりする。選手は個人としてまたは団体の一員として競技しているにすぎないのだから。
止めたらどうか、といえば金・銀・銅のメダルもそうである。どうしても、というなら金メダルだけ残せばよい。昨日の女子プロレスの表彰式を観た時にその思いが高まった。格闘技のようなものは優勝者だけがはっきりしている。勝ち抜き戦で最終勝者のみが一番強いので、その勝者を金メダルで表彰するのならまあよいとしよう。銀・銅はいらない。というのは銀は敗者に対して、銅は勝者に対して与えられたメダルでではないかという釈然としない思いを私は抱いているからである。
昨日の女子レスリングで銅メダルの浜口京子選手の笑顔は本当に素晴らしかった。私が見た中の最高の笑顔である。準決勝戦では敗れて決勝戦には進めなかったけれど、3位決定戦で全力を出し切って勝ったという達成感、それがあの笑顔を生んだのであろう。それに引き替え銀は金に対する敗者なのである。銀で良かったと思う選手は一人もいなであろう。そう思ってみると金・銅は本当に嬉しそうに表情をほころばせているのに対して、銀は浮かぬ顔つきでいるか、心の底にある無念の思いが笑顔を強ばらせているようである。
記録でその優劣がはっきりしている競技でも、たとえば陸上男子100メートルの覇者ボルト選手は他を大きく引き離しての勝者であった。今朝の朝日「天声人語」は《メダルは3位にまで授与される。だが勝負の実質となると、1人の勝者とその他大勢の敗者である。ボルト選手のはしりは「1人の勝者」を強烈に印象づけた。》と記しているが、私もまったく同感である。表彰するしないにかかわらず、記録は記録として刻まれる。出場選手にはそれで十分である。表彰するのなら唯一人真の勝者を表彰すればよい。
国旗は掲揚しない、国歌も演奏しない、メダルは金だけ。
これこそオリンピック憲章に一番かなったオリンピックなのではなかろうか。これを石原東京都知事が推し進めたいと仰るのなら、応援してもいいなと思う。
追記(8月19日) 北島康介選手は国歌を歌っていたと教えてくださった方がいた。
追記(8月21日) 女子ソフトボール金メダル、おめでとう!感動の一言。表彰台で君が代を斉唱していたのが印象的だった。
しかし、である。オリンピック憲章の「オリンピズムの根本原則」にある六つの項目を眺めてみると、オリンピック競技は当然のことであるが個人や団体により行われるものであることは明記しているが、国家を意味する言葉は出てこない。それどころか第五章「オリンピック競技大会」の「60 入賞者名簿」には国が表に顔を出すことを積極的に次のように禁止している。
《IOC とOCOG は、いかなる国別の世界ランキング表も作成してはならない。各種目でメダルを獲得した選手および賞状を授与された選手の名前を記載した入賞者名簿を、OCOG が作成する。またメダル獲得者の名前は、目立つような形でメイン・スタジアム内に常時展示されるものとする。》(強調は引用者)
私の単純な頭ではオリンピック憲章の精神と、表彰式での国旗掲揚・国歌演奏がどう結びつくのか理解できない。このようなセレモニーは止めたらすっきりする。選手は個人としてまたは団体の一員として競技しているにすぎないのだから。
止めたらどうか、といえば金・銀・銅のメダルもそうである。どうしても、というなら金メダルだけ残せばよい。昨日の女子プロレスの表彰式を観た時にその思いが高まった。格闘技のようなものは優勝者だけがはっきりしている。勝ち抜き戦で最終勝者のみが一番強いので、その勝者を金メダルで表彰するのならまあよいとしよう。銀・銅はいらない。というのは銀は敗者に対して、銅は勝者に対して与えられたメダルでではないかという釈然としない思いを私は抱いているからである。
昨日の女子レスリングで銅メダルの浜口京子選手の笑顔は本当に素晴らしかった。私が見た中の最高の笑顔である。準決勝戦では敗れて決勝戦には進めなかったけれど、3位決定戦で全力を出し切って勝ったという達成感、それがあの笑顔を生んだのであろう。それに引き替え銀は金に対する敗者なのである。銀で良かったと思う選手は一人もいなであろう。そう思ってみると金・銅は本当に嬉しそうに表情をほころばせているのに対して、銀は浮かぬ顔つきでいるか、心の底にある無念の思いが笑顔を強ばらせているようである。
記録でその優劣がはっきりしている競技でも、たとえば陸上男子100メートルの覇者ボルト選手は他を大きく引き離しての勝者であった。今朝の朝日「天声人語」は《メダルは3位にまで授与される。だが勝負の実質となると、1人の勝者とその他大勢の敗者である。ボルト選手のはしりは「1人の勝者」を強烈に印象づけた。》と記しているが、私もまったく同感である。表彰するしないにかかわらず、記録は記録として刻まれる。出場選手にはそれで十分である。表彰するのなら唯一人真の勝者を表彰すればよい。
国旗は掲揚しない、国歌も演奏しない、メダルは金だけ。
これこそオリンピック憲章に一番かなったオリンピックなのではなかろうか。これを石原東京都知事が推し進めたいと仰るのなら、応援してもいいなと思う。
追記(8月19日) 北島康介選手は国歌を歌っていたと教えてくださった方がいた。
追記(8月21日) 女子ソフトボール金メダル、おめでとう!感動の一言。表彰台で君が代を斉唱していたのが印象的だった。