私の入っている一弦琴の会は毎年10月、最後の日曜日に演奏会を開くことになっている。今年も去る26日、京都三十三間堂の近くにある法住寺陵と隣り合わせた法住寺で演奏会が開かれた。平安の昔、この辺りは法住寺殿という後白河上皇の院政御所であった。後白河帝は平清盛の台頭から源頼朝への覇権の移り変わりの激動期における強かな政治活動でよく知られている一方、遊び好きが高じて今様を集めて『梁塵秘抄』を編纂されたとのこと、邦楽の流れに繋がる一弦琴と縁がなくもないと云えそうである。
この演奏会が終わって、私はかねてから心に温めていたことであるが、師匠に一弦琴の会からの退会を申し出た。そして昨日(10月30日)稽古場にうかがい、あらためて退会の挨拶をしてご了承いただいた。入会させていただいたのが2000年だったから、丸八年在籍したことになる。四年制大学で云えば裏表在学したことに相当し、それ以上は居残りを望んでも強制的に追い出されてしまう歳月である。ところが一弦琴の会では年限の決まりがないので自分で決まりをつけることにしたのである。
2000年春にNHKが宮尾登美子原作『一絃の琴』の連続ドラマを公開するのに先立って宮尾さんとの対談番組を放映したが、その時に流れた一弦琴の音色に引かれたのがこの道に入るきっかけとなった。インターネットで調べて私の師匠に辿り着き、それ以来師匠の編纂になる『一絃琴清虚洞新譜』を巻一から巻四まで、それに別巻とさらにいくつかの現代曲を学んできた。一通り習い終えてからは復習に移り今日まで続けてきた。そしてこの復習段階で、これまでなにかと引っかかっていた問題点がいくつか浮上してきた。最大の問題点は私の弾き方が明らかに『我流』になってきたことである。しかもその『我流』を改めようとするどころか、さらに磨きをかけたいと思うようになったのである。その経緯を自分なりに整理すると次ようになる。
これまでも折に触れて述べてきたことであるが、私はまず楽譜ありき、の立場を貫きたいと思っている。国立国会図書館で徳弘時聾(太)著『清虚洞一絃琴譜』にお目にかかっり、その複製を手にしてからはますますその思いを強くした。録音機の無かった時代には伝承がこの楽譜に結実していると思ったからである。師匠の『一絃琴清虚洞新譜』の元になったものだし、これまでも『新譜』について私が疑義をただすと、師匠は『清虚洞一絃琴譜』に戻って照合されるのが常だった。そこで私は師匠にもお断りして復習を『清虚洞一絃琴譜』で始めることにしたのである。稽古を始めた頃は毎週師匠宅に通っていたが何年か経つと月二回になり、お浚い(復習)に入ってからは月一回となった。自分なりに納得のいく演奏ができてからみていただくつもりだったのである。
師匠と差し向かいで稽古をつけていただく時の録音は残していない。だから記憶に留めるだけだったが、たとえば翌日、一人で弾き始めると、肝心なところでその記憶がもう曖昧になっている。すると否応なしに楽譜を相手に自分なりに会得した演奏をするようになる。それを録音しては聴き、また修正する。この稽古を納得いくまで繰り返していると、まさに私流の演奏に落ち着いていくのである。それでも始めの頃は差し向かいで師匠の演奏をなぞることにしていた。いわば面従腹背の構えである。しかしこれでは稽古に通う意味がない、とばかりに『我流』を披露し始めた。師匠のスタンスは私の入門当時から振れることなく、ご自分がその昔大師匠から習得された演奏を暗譜でなさる。これではまず楽譜ありき、でお浚いを重ねてきた私の演奏とは油と水で稽古にはならない。そこでまず私一人の演奏を聴いていただいた上でご意見をくださるようにお願いしたこともあったが、ついつい『口三味線』をはさんで私の演奏リズムをで変えようとなさったりする。
師匠は折に触れて私の演奏を○○節とか○○流と呼ばれる。実は二年前の私のエントリー一弦琴「漁火」 あるお遊びで、《いつも師匠から「あなたのは○○(私の姓名)流」と注意される私》と書いているくらいだから、○○流も結構年季が入っている。○○流なる云い方を肯定的に受け取ると、私がすでに一派を作るぐらい腕を上げたと云うことになるのだろうが、私もそれほどの世間知らずではないので、やはり我流を押し通すことが師匠の気に入らないのだな、と受け取る。では○○流から脱するにはどうすればいいかと云えば、師匠流になるしか他に手がなさそうである。手っ取り早いのは師匠の完璧な物まねなのだろうか。○○節とか○○流のように十把一絡げの云い方をされては、こういう気の廻し方しか出来なくなってしまう。このようにいわば師匠流と○○流がぶつかり合うようになった現状で、身を引くのは弟子の方であろうと思い退会するにいたったのである。
一弦琴を始めた頃は一対一の差し向かいの教授法というのはなかなか新鮮で、また得るところがきわめて多かった。問題はどれぐらい続けられるかにあると思う。最初は学ぶとは真似ることであると言い聞かせて、師匠の演奏を真似ることに集中した。これまではまったく縁のない世界でのことであるので、邦楽を習うとはそういうものであると割り切ったのである。しかし上に述べたように師匠の『口移し唱法』か楽譜のいずれを取るかで、楽譜を私が選んだ時点で『差し向かい』が意味を失ってしまったと云える。
清虚洞の流れを汲む師匠クラスの方が何人か演奏を残しておられる。耳を傾けていると共感するところがある一方、ちょっと違うなと思うところもある。根底に『清虚洞一絃琴譜』のあることが共通しているが、結局それぞれの方が自分流で演奏しておられるのである。となると私だけが遠慮することもあるまい。そう自分で言い切れるところまで導いてくださった師匠のご薫陶を多としつつも、思えば師匠離れの時期がやって来たのである。古希過ぎて立つ、まさに古来稀なり。(^^)
この演奏会が終わって、私はかねてから心に温めていたことであるが、師匠に一弦琴の会からの退会を申し出た。そして昨日(10月30日)稽古場にうかがい、あらためて退会の挨拶をしてご了承いただいた。入会させていただいたのが2000年だったから、丸八年在籍したことになる。四年制大学で云えば裏表在学したことに相当し、それ以上は居残りを望んでも強制的に追い出されてしまう歳月である。ところが一弦琴の会では年限の決まりがないので自分で決まりをつけることにしたのである。
2000年春にNHKが宮尾登美子原作『一絃の琴』の連続ドラマを公開するのに先立って宮尾さんとの対談番組を放映したが、その時に流れた一弦琴の音色に引かれたのがこの道に入るきっかけとなった。インターネットで調べて私の師匠に辿り着き、それ以来師匠の編纂になる『一絃琴清虚洞新譜』を巻一から巻四まで、それに別巻とさらにいくつかの現代曲を学んできた。一通り習い終えてからは復習に移り今日まで続けてきた。そしてこの復習段階で、これまでなにかと引っかかっていた問題点がいくつか浮上してきた。最大の問題点は私の弾き方が明らかに『我流』になってきたことである。しかもその『我流』を改めようとするどころか、さらに磨きをかけたいと思うようになったのである。その経緯を自分なりに整理すると次ようになる。
これまでも折に触れて述べてきたことであるが、私はまず楽譜ありき、の立場を貫きたいと思っている。国立国会図書館で徳弘時聾(太)著『清虚洞一絃琴譜』にお目にかかっり、その複製を手にしてからはますますその思いを強くした。録音機の無かった時代には伝承がこの楽譜に結実していると思ったからである。師匠の『一絃琴清虚洞新譜』の元になったものだし、これまでも『新譜』について私が疑義をただすと、師匠は『清虚洞一絃琴譜』に戻って照合されるのが常だった。そこで私は師匠にもお断りして復習を『清虚洞一絃琴譜』で始めることにしたのである。稽古を始めた頃は毎週師匠宅に通っていたが何年か経つと月二回になり、お浚い(復習)に入ってからは月一回となった。自分なりに納得のいく演奏ができてからみていただくつもりだったのである。
師匠と差し向かいで稽古をつけていただく時の録音は残していない。だから記憶に留めるだけだったが、たとえば翌日、一人で弾き始めると、肝心なところでその記憶がもう曖昧になっている。すると否応なしに楽譜を相手に自分なりに会得した演奏をするようになる。それを録音しては聴き、また修正する。この稽古を納得いくまで繰り返していると、まさに私流の演奏に落ち着いていくのである。それでも始めの頃は差し向かいで師匠の演奏をなぞることにしていた。いわば面従腹背の構えである。しかしこれでは稽古に通う意味がない、とばかりに『我流』を披露し始めた。師匠のスタンスは私の入門当時から振れることなく、ご自分がその昔大師匠から習得された演奏を暗譜でなさる。これではまず楽譜ありき、でお浚いを重ねてきた私の演奏とは油と水で稽古にはならない。そこでまず私一人の演奏を聴いていただいた上でご意見をくださるようにお願いしたこともあったが、ついつい『口三味線』をはさんで私の演奏リズムをで変えようとなさったりする。
師匠は折に触れて私の演奏を○○節とか○○流と呼ばれる。実は二年前の私のエントリー一弦琴「漁火」 あるお遊びで、《いつも師匠から「あなたのは○○(私の姓名)流」と注意される私》と書いているくらいだから、○○流も結構年季が入っている。○○流なる云い方を肯定的に受け取ると、私がすでに一派を作るぐらい腕を上げたと云うことになるのだろうが、私もそれほどの世間知らずではないので、やはり我流を押し通すことが師匠の気に入らないのだな、と受け取る。では○○流から脱するにはどうすればいいかと云えば、師匠流になるしか他に手がなさそうである。手っ取り早いのは師匠の完璧な物まねなのだろうか。○○節とか○○流のように十把一絡げの云い方をされては、こういう気の廻し方しか出来なくなってしまう。このようにいわば師匠流と○○流がぶつかり合うようになった現状で、身を引くのは弟子の方であろうと思い退会するにいたったのである。
一弦琴を始めた頃は一対一の差し向かいの教授法というのはなかなか新鮮で、また得るところがきわめて多かった。問題はどれぐらい続けられるかにあると思う。最初は学ぶとは真似ることであると言い聞かせて、師匠の演奏を真似ることに集中した。これまではまったく縁のない世界でのことであるので、邦楽を習うとはそういうものであると割り切ったのである。しかし上に述べたように師匠の『口移し唱法』か楽譜のいずれを取るかで、楽譜を私が選んだ時点で『差し向かい』が意味を失ってしまったと云える。
清虚洞の流れを汲む師匠クラスの方が何人か演奏を残しておられる。耳を傾けていると共感するところがある一方、ちょっと違うなと思うところもある。根底に『清虚洞一絃琴譜』のあることが共通しているが、結局それぞれの方が自分流で演奏しておられるのである。となると私だけが遠慮することもあるまい。そう自分で言い切れるところまで導いてくださった師匠のご薫陶を多としつつも、思えば師匠離れの時期がやって来たのである。古希過ぎて立つ、まさに古来稀なり。(^^)