先週天王寺の大阪市立美術館で開かれている佐伯祐三展にでかけた。副題に「―パリで夭折した天才画家の道―」とあった。三連休の中日で正午過ぎということもあり、入館者はほどほどで2時間ほどかけてゆっくりと作品を見て回ることができた。時間がかかったのは思いの外作品が多かったせいで、カタログによると佐伯祐三の作品だけでも139点を数える。
佐伯祐三の作品を画集で見たのは大学院の頃だったかと思う。当時からジョルジュ・ルオーの作品に惹かれていて、それと何か相通じるものを佐伯祐三の作品から受け取った記憶がある。そして佐伯祐三からモーリス・ド・ヴラマンクに辿り着いたのである。ある日、研究室に入ってきた後輩とルオーやヴラマンクの話をしていた流れで佐伯祐三の名を出すと、彼が「高校の先輩です」と誇らしげに云ったものだから、私も負けん気を出して「ああそう、うちの高校の先輩にも小磯良平に東山魁夷がいるんや」なんて子供じみたやりとりを交わした覚えがある。佐伯祐三は大阪府立北野中学校の卒業生、私の出た兵庫高校の前身が兵庫県立神戸第二中学校なのである。
小磯良平、東山魁夷にくらべて佐伯祐三の名を知る人は少ないのではないかと思う。明治31(1898)年に現在の大阪府北区中津にあった浄土真宗本願寺派の光徳寺で生まれ、昭和3(1928)年にパリ郊外の病院で30才の生涯を終えていることがその一因であろう。ところで清岡卓行著「マロニエの花が言った」は上下二巻の1200ページに及ぶ大著で、下巻の帯にあるように「輝ける時代の国際芸術都市パリへの著者一生の思いを託す渾身の大河小説」なのであるが、このなかで佐伯祐三が登場するのはただの15行なのである。しかし作者がこの15行に祐三の人生を実に見事に凝集しているのでこの部分を引用させていただくことにする。これ以上に私が口を挟むことはほとんどないのである。当時パリにいた岡鹿之助のことを事細かに述べているのであるが、1925年に鹿之助が二点の油彩をサロン・ドートンヌに出品して一点だけが入選したことを記して次のように続く。
《奇しき縁というか、同じサロン・ドートンヌに佐伯祐三の『靴屋』と『煉瓦屋』ならびに同夫人米子の『アルルのはね橋』という三点の油彩が初入選していた。祐三はそのころ、モンパルナス駅からすこし南のシャトー街十三番地にある集合住宅の四階の部屋に住んでおり、その一階入り口の横の靴屋が入選作一点の題材になっていた。
鹿之助と祐三は同年の生まれで、東京美術学校の卒業とパリ到着はどちらも祐三の方が一年早かった。二人のあいだに交際はなかったが、じつに対照的な人生行路を歩んでいる。
祐三は美校時代に肺結核となり、当時は怖ろしいものであったこの病気のためか、画業への性急な情熱に燃えた。パリでは、兄からの送金があったが、妻と幼い娘を伴った滞在の生活はあまり楽ではなかった。画題としてはとくにパリの庶民的な町や人物を好み、そうした対象への親近感に、画家内部の沈鬱や激情がさまざまな度合いで結びつく、ときに明るい逞しさや寂しさの、ときに暗い狂おしさの油彩を描きつづけた。
サロン・ドートンヌに入選した翌年に東京に戻り、その翌年またパリにやってきて、教会や町の中の広告のある石の壁などを猛烈に描きつづけるが、さらにその翌年、肺結核に精神分裂症気ぎみの兆候も加わり、精神病院で死亡する。愛した家族のうち、六歳になっていた娘はその二週間後に肺結核で死亡し、もともと松葉杖を離すことのできなかった妻だけが残る。
佐伯祐三の生涯を示す彼の絵の展覧会を眺める人はおそらく、そこに現れる悲劇的な調子に胸が痛くなってくるのを覚えないわけにはいかないだろう。彼の画業には壮烈な戦死とでも呼ぶほかはないようななにかがある。》(上巻、89-90ページ)
確かに悲劇的といえるのかも知れない。しかし萩原朔太郎が『旅上』と題した次の人口に膾炙した詩を発表したのがまさに同時代、1920年代の前半である。
旅上 萩原朔太郎
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
このことを思うと、そのフランス行きを家族三人で実現させ油彩三昧に耽ることの出来た祐三に、私は超エリートとしての幸運を羨む気持ちさえ湧いてくる。そう思ってみると祐三の残した作品群はノブレス・オブリージュの証なのである。私もあらためてこれからの自分の人生に立ち向かう勇気を得たように思う。これだけの作品を一堂に集めた主催者の努力を多とするが、個人的には石橋財団ブリジストン美術館が所蔵するはずの『テラスの広告』にお目にかかれなかったのが残念であった。