日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

先生は偉いのだ、が教育の原点

2007-06-24 17:10:45 | 学問・教育・研究
中央公論7月号の内田 樹、諏訪哲二両氏の対談記事「”時代遅れ”の学校が子どもの下流化を食い止める」を読んだ。内田さんは『下流志向』(講談社)の著者(私はまだ読んでいない)で、諏訪さんは高校教師を定年退職後、「プロ教師の会」会長を務めておられる。一昨日、学ぶことについて一文を書いたあとだったので、私の考えを整理していただいたかのように感じた。その上、教育問題の専門家として数々のご意見に目を開かれる思いがした。

小学校で給食の時間、児童が一斉に「いただきます」と言って食事を始める。「ちゃんと給食費を払っているのに、何故いただきます、と言わないといけないのか」と学校にねじ込んだ親がいる、という話を聞いたことがある。『モンスター・ペアレンツ』の一例であろう。私の感覚では「変なことをいう親」なのだが、そのような親がいつ頃から出て来たのか、昔の学校しか知らない私には理解できないことであった。ところが内田・諏訪対談にその経緯が出ていたのである。その辺りの意見をピックアップしてみよう。「・・・」は私が省略した部分である。

《・・・教育行政が教育を「商品」と考えている・・・。そして今は、親や教育行政だけでなく、子どもたちまで、学校をお金を払って教育サービスを受けるところ、つまり「等価交換」をする場所だとおもっている・・・。》(諏訪)

《その意識の転換があったのは、一九八0年代です。七0年代までは、教師も生徒も、教育は国家や共同体から国民に与えられる「贈与」だと思っていました。あくまでも教師は「上」であり、生徒は教師から「贈与」を受けることで学ぶことができ、その積み重ねでより良い近代が作られると思っていたんです。》(諏訪)

なるほど、である。

六0年代末にあった学園闘争で学校、とくに大学が大きく揺れたが、それについても

《学生が教師に反抗するにしても、「こうすればもっと教育が良くなる」という主張なわけで、結局、「教育によってより良い共同体を作る」という教師と同じ目標を持っていた。それが八0年代に入ってからは、お互いの言葉がまったく通じなくなった・・・。》(諏訪)

そう、立場は異なっても学生と教師のあいだに連帯意識があったと私は思う。それが八0年代に入り、私語を注意すると、「私語なんかしていない」と平然というが、それも当然、この子たちが嘘をついてしまったと心を痛めたりはしていない、というのである。

《今から考えれば、「認める」よりも「認めない」ほうが自己利益になると本気で思っている。》(諏訪)

そういえば私が六0年代の半ば過ぎにアメリカに留学した際、先輩連に「アメリカではどんなことでも自分の非を認めたらそれで終わりやて」といわれたことがある。

諏訪さんはそのような子どもたちの変容に接して絶句し、最近になって、これは「等価価値」をしようとしているんだという一つの仮説を思いついたのである。

ではその変容がなぜ起こったかであるが、「社会的イデオロギーに大きな変化があった」というのが内田さんの見方で、諏訪さんは「イデオロギー的な変化というより、やはり消費社会になったことが一番の原因」と考える。

《子ども自身がイデオロギー的に判断を下したのではないと思います。でも、社会全体として、「自立しろ」「家族単位で行動するな」といったイデオロギー的な圧力はあったと思うんです。》(内田)

そして結果として

《「それぞれ部屋を借りて、自分のライフスタイルにこだわりましょう」というふうに風向きが変わった。(中略)この風潮をマーケットは歓迎した。消費単位が細分化すれば、マーケットは拡大しますから、当然といえば当然です。そういう風潮の中で、「集団でいることは悪いこと」「個人でいた方が自己利益が増す」という感覚が刷り込まれていった・・・。》(内田)

《・・・家庭と地域そして学校までもが消費社会に取り込まれてしまった。家事労働がなくなって、家の中のこともすべてお金でやりとりするようになり・・・、子どもがまったく保護されずに社会の風にさらされるという状況・・・。》(諏訪)

になったのである。

私なりに把握できたことは、損得勘定で子どもも大人も判断し動くようになったのであるが、問題は、

《今の消費社会は、きわめて幼児的な価値基準しか持っていない子供にも、自分で価値判断できるし、しなければならないと教えています。だから構造的に成長できるはずがない。実年齢は三十歳でも論理や情緒は小学生並みと言う人がいくらもいる。》(内田)

というところある。

問題の解決はこれからである。

このようになってしまった子どもは

《教師との間に非対称的な垂直的な関係を構築することに耐えられないから、学校がもたらす最良のリソースを拒否してしまう。基本から始めて順番に階梯を登り、知識や技芸を習得しつつ自己変革するという学びの原理そのものが理解できない。》(内田)

なるほど、と納得である。それを別の言葉でこう語る。

《先生に出会って師事するとき、弟子はこの先生がどう「すごい」のかを自分の言葉では説明できない。その先生の「すごさ」を計量する度量衡をまだ持っていないんですから。学びはこの「自分の度量衡が使いものにならない」という不能の覚知からしか始まらないんです。》(内田)

まったく同感である。やはり教育の原点は『先生は偉い』にある。その偉さが見えると先生を尊敬する気持ちに自然に繋がっていく。しかし小学生にそれを期待するのは無理のような気がする。『先生は偉い』を親が子どもに躾けなければならない。それには親自身が先生という職業に敬意を払うことがまず肝要であろう。何かあると先生を論うのは百害あった一利無し、先ずそういう親に退場していただかねばならないのかと思う。『モンスター・ペアレンツ』退治に教育者側が積極的に立ち上がりそうな最近の流れを歓迎する。

『モンスター・ペアレンツ』なる言葉が歩き始め、マスメディアも取り上げる。珍しいから、また異常だからニュースになるのだと思えば、私は大騒ぎすることもあるまいと思う。現場の教師の教育にかける情熱と、それに応える健全な家庭がまだまだ多数だと信じているからである。