日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

タンパク3000とPerutz博士

2007-06-01 19:00:26 | 学問・教育・研究
もう2週間前になるが5月17日付朝日新聞に中村桂子氏が「文部科学省タンパク3000プロジェクト」に対する批判を寄せられていた。このプロジェクトは5年間で578億円という巨額の費用を投入したまさに大型プロジェクトであったが、中村さんは《米国が行っているような必要性や実現可能性の検討なしにいきなり大型プロジェクトを始め、評価が的確に生かされず次に進んでいく日本のプロジェクトのありようを考え直したいのである》と述べておられる。《科学の本質を深く考える研究者が育たない》とか《本来研究は個人的なものであることを忘れてはならない》と指摘されていることは、わが意を得たりなのであるが、プロジェクトそのものに対して私は異なった視点での意見を持っている。しかしそれを述べるのがこの小文の目的ではない。

このプロジェクトの中心課題は、主要と思われるタンパク質約3000種の基本構造と機能の解析だそうである。この基本構造という言葉が私の休止状態にある脳細胞を刺激したので、ここでは昔ばなしを始めることにする。

1962年、WatsonとCrickがDNAの二重らせん構造の研究でノーベル生理学医学賞を受賞したが、化学賞はPerutzとKendrewがヘモグロビンとミオグロビンという球状タンパク質の構造に関する研究で受賞した。これがX線回折法による生体分子の立体構造を決定する研究の草分けとなった。私がかってこのPerutz博士にお目にかかったときに、ある因縁を覚える話を伺ったのである。

1987年の夏、イギリスのCambridgeを訪れた。旧知のN博士にCambridgeのとあるとこへの案内をお願いしていたのである。N博士は当時分子生物研究のメッカMRC分子生物研究所の研究員であった。Perutz博士はすでに所長を辞めておられたが、私が訪れた日はたまたま研究所に来ておられて、N博士の計らいで私のために少し時間を割いてくださることになった。私が自分の研究内容のことをお話したところ、思いがけない方の名前が博士の口から飛び出したのである。Professor Keilinなのである。

ここに一冊の本がある。私が1968年にアメリカ留学から阪大の研究室に戻ってきた時に恩師から頂いた。本の見返しには私に下さった旨がわざわざ記されている。この本に恩師の蔵書印が捺されていたので気を遣ってくださったのだと思う。ご自分でこの本を買い求められた後で、すでに亡くなられた著者の娘さんからこの著書が贈られて2冊になったからとのことであった。





この本の著者David Keilin博士のことをPerutz博士が語られたのである。ちなみにKeilin博士は1887年生まれでPerutz博士は1914年生まれ、だからKeilin博士の方が27歳年長になる。私がCambridgeを訪れた最大の目的はKeilin博士の研究の拠点であったMolteno Instituteの探訪であったのである。しかし今はこの話には触れない。

ウィーンで化学を専攻したPerutzは1936年にCambridgeへやってきた。結晶学を学ぶのが目的でBernalに師事した。Bernalは科学歴史家として著名で、彼の著書「歴史における科学」(みすず書房刊)を学生時代に読んだものである。翌1937年にPerutzはヘモグロビンの構造研究を博士号のための研究テーマとした。ところがその年のおわりにBernalがロンドンの新しいポストに移ることになったが、PerutzはCambridgeに留まり、X線結晶解析の基礎を築いたことで同じ物理学者の父とともにノーベル物理学賞を1915年に受賞したBraggに師事することになった。1938年にオーストリアがヒトラー・ドイツに併合されるとPerutzは亡命者となり、Braggがアメリカのロックフェラー財団から研究費を得てPerutzを助手にするなど、彼の生活をも支援したのである。しかしヘモグロビンの立体構造決定の本格的な研究が始まったのは戦後である。

第二次大戦のあと、英国では国民がこぞって科学をとても高く評価した。ドーバー海峡を渡り押し寄せてくるドイツ軍の飛行機を早期に発見するレーダーを科学者が発明したおかげで、ヒトラーに英国を占領されずに済んだ、と国民が科学の力を本心で認めたのである。さらにペニシリンの発見が医学にたいする国民の信頼を高め、また原爆の開発への英国研究者の寄与が大きく評価されたのである。

国民の科学に対する評価が大いに高まったのを契機として、そして一方、とくに核物理で開発・利用された技術を平和的利用に転用する気運が、生命の物理学としての生物物理学を生み出す大きな原動力となった。その動きの中心がMedical Research Council(MRC、医学研究審議会)である。ここで『医学』という用語について一言付け加えておくと、MRCの云う医学研究とは、人類に価値のあることの研究を意味するのであって、単に病気とか健康障害のような狭い範囲での研究ではない。これはその当時MRC長官であったEdward Mellanbyが確言していることである。

PerutzはBraggが教授であるCavendish Laboratoryでヘモグロビンの仕事を始めたものの、暖かい支持のみに囲まれていたのではなかった。ヘモグロビンのようななまものを精製して結晶化する場所がスペースの限られたこの研究所ではなかったのである。そこへ救いの手を出したのがKeilin教授で、Perutz博士はCavendish LaboratoryとMolteno Instituteとの間を自転車で始終往き来したものだと私に話してくれた。

Keilinの援助はそれのみに留まらなかった。必ずしも政治力があるとは云えなかったBraggを説得してPerutuz(とKendrew)のための研究費をMRCに申請させたのである。そしてMRC長官のMellanbyに、このプロジェクトはCavendish LaboratoryとMolteno Instituteとの共同研究であって、生物学の基本に関わる重要性を持つと力説したのである。その働きかけが実を結び、1947年にPerutzを責任者とする生体系分子構造のMRC研究グループが誕生したのである。

学問的には私はKeilin教授の孫弟子筋にあたると云えよう。直系の弟子に招かれて共同研究もしているからだ。そのKeilin教授とPerutz博士がこれほど近い関係があったとはその時が初耳であった。そのうえ博士は素晴らしいプレゼントを私に与えてくださった。



上の写真はKeilin教授の著書から取った。顕微鏡のようなものを覗き込んでおられる。実は顕微鏡の鏡筒の上にプリズムをセットしたもので、戴物台上の試料のスペクトルを観察するもので、本の表紙のような像が目に映る。私が研究室で最初に教えられたのはこの装置の使い方で、ハンドスペクトルと簡単に呼んでいた。卒業式の後だと思うがこの横で撮った記念写真が下にある。



Keilin教授が使っておられたこのハンドスペクトルを、なんと、私が貰ったとPerutz博士が云われるのである。興奮してしまった私が博士にお願いしてそれを見せていただき、覗き込だのが下の写真である。科学の歴史に直に触れる思いがした。



Perutz博士は2002年2月6日に亡くなられた。その2002年に「文部科学省タンパク3000プロジェクト」がスタートしたことになにか因縁のようなものを感じるのは私だけではあるまい。そして私にとって身近な阪大蛋白質研究所で、日本におけるタンパク分子の立体構造研究が開始されたときから注目をしてきた私に、中村桂子氏とはまた違った視点があったとしても不思議ではあるまい。折を見てタンパク3000への感想を述べようと思う。