日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

偉かった昔の教授

2006-04-09 17:58:32 | 学問・教育・研究
私が卒業実験のために所属した研究室では教授は既にベンチワークから退き、実際の研究指導は助手の先生から受けた。研究室でのあらゆることから始めて実験材料、実験器具などの取り扱い、実験手技にデータのまとめ方、論文の書き方のすべてを日々の『共同生活』を通じて教わってきた。

助手の先生と書いたがその当時研究室で面と向かって先生と呼びかけたのは教授ただ一人で、助教授、講師、助手の先生方はすべて「さん」付けで呼んでいた。私の所属する研究室のみならず、他の研究室の方に対しても同じであった。これは大阪大学理学部の伝統的な習わしであったのだろうか。この当時の雰囲気についてはまた機会を改めて記したいと思う。

大学院に入ってからも同じ研究室で卒業実験の続きを修士課程の研究課題とした。修士論文は英文で書くのが決まりであったのでこの書き方も厳しい指導を受けたものである。そして修士論文に手を加えて学会誌に投稿することになった。自分の出した実験データに基づいた初めての論文で受理されて印刷物になり始めて手にしたときの興奮と感激はひとしおのものであった。

この論文の著者には助手の先生、私、教授の三名が名を連ねた。助手の先生こそ何も知らない新参者の私にテーマを与えて文字通り手を取り足を取り指導したのであるから、この論文の著者名のあり方は至極当然のことであった。その後私が博士課程に進みすべての実験を私が一人で行った研究成果を私が第一著者として論文に発表するのもまた自然の成り行きであった。

私の所属した研究室では大学院生一人一人が自分のテーマを持っていた。与えられたものもあれば自分で考えて承認を得たものもあった。従って論文の著者は三名というのが一つの標準のようになっていた。本人と直接の指導者、そして教授である。実験に関してはすべての実行責任は大学院生本人にあった。直接指導者とは一つの実験が終わるとそのデータの正しさの検討からはじまりその解析、解釈を徹底的に議論したものである。もちろん研究室セミナーで進行過程を随時報告するなどすべてがオープンであった。

論文の草稿作りから完成までも二人の密接な共同作業があり、完成した論文原稿を教授に提出して査読を受けてOKを頂くと学術誌に投稿するのが常であった。このような作業過程が研究の手順として私への『刷り込み』になったのである。ちなみに私の恩師はOK教授、OKを出すからではなくてそれがイニシアルなのである。

いつの間にか年月も経ち私が助手となって大学院生を直接指導する立場となった。ある大学院生の研究成果を何部かに分けて学術誌に投稿することになり論文原稿を教授に提出した時のことである。著者名を大学院生、私、教授とした。提出後私はある緊張感にとらわれていた。この研究テーマは私が大学院生に与えたものであるが、研究手法も新しくまたデータの解析法が数式めいたものを取り入れたことがあり、それが教授のお得意とされる分野でないだけにいろいろと不審点が出されるだろうし、それに納得していただけるためにどのように説明をすべきなのか腐心していたからである。

ことは思いがけない形で決着した。「私には内容が正しく理解できないから、私の名前を論文から外してください」と教授が私に言われたのである。この言葉をどう受け取っていいものか私にはとまどいがあった。「訳の分からない研究を私の研究室でするな」とのお叱りか、と一瞬思ったりしたからである。しかし二三年にも及ぶ研究過程で進行状況は折々の研究室セミナーでご存じであるし、方向転換を示唆されたこともなかったことを思い出し、また投稿を止められたのではないからこれは言葉通りに受け取っていいのだ、と思ったときに緊張が一度に解けてしまった。

結局この論文は謝辞を教授に献じ大学院生と私の二人の共著として発表することが出来た。実はそれまでに教授をラストオーサーとする一連の論文がシリーズものとして20編ほど発表してきたが、ここに私をラストオーサーとする新たなシリーズを始めることにしてシリーズタイトルも改めたのである。これが原著5編に結実した。その研究の集大成を博士論文とした大学院生に私はさる財団の奨学金公募に応募することを勧め、幸い審査員の評価を得て新博士は研究費を獲得したのである。一方私は招待された国際会議で講演をして私をファーストオーサーとする連名の総説を学術書に寄せた思い出がある。

「内容が正しく理解できないから私の名前を論文から外してください」と言い切れる教授こそ若い世代を育てる名伯楽になりうるのではなかろうか。

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