日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

学びの本道とは そして一弦琴「明石」の再演

2007-06-22 13:55:18 | 一弦琴
今週は一弦琴のお稽古があった。2週間前の稽古では「明石」のお浚いをさせられたことがちょっと不満だった。新しい曲に進む予定だったからである。ところが、お浚いをしているうちに、これもいいなと思った。

以前に習った曲でもどのように演奏したのか、時間が経つといい加減忘れてしまう。それをお浚いが思い出させてくれる。初めに習うときはお師匠さん(おっしょさん)の演奏を真似して覚えるだけで精一杯である。ところがお浚いでは、お師匠さんの指使いをちらちら見るゆとりがでてくる。この時はどうされるのだろう、と自分で「知りたい」ポイントで、注意を払うのである。

お師匠さんの演奏姿勢は美しい。手の動きも滑らかで、踊りのようにも見える。それでいて要所要所では手の位置がピシッと決まる。その要所をおさえるのが難しい。「ピシッと止めて」とよく注意される。私の手が「惑い箸」よろしく、フラフラ揺らいでいるからだ。

声の出し方はよく注意されていた。実は私はオペラのアリアを何曲かは歌いたい、と一念発起してヴォイストレーニングを受けている。それでついつい口を開けてしまうのだ。すると「声は前に出すのじゃないの。ここに当ててご覧なさい」と後頭部をぺたぺたと叩かれる。ところがそれがいつまで経っても出来ない。一人の人間が声を前に出したり後に当てたり、そんな器用なことができるか、と居直っていたこともあった。そしてお師匠さんに「出来ません」を連発していた。

ところがある時ふと思ったのである。我流を押し通すのなら、何もわざわざ神戸から京都までやってきて、自分の出来ないことを棚に上げて、お師匠さん議論を吹っ掛けることもないじゃないか、と。ましてや一弦琴を通じてでも昔の人と心を通わせたい、と思っている私にとって、お師匠さんは『口寄せ』ではないか。そこで、私はお師匠さんの云われることに素直に耳を傾けて、その通り実行することにした。

すると面白いもので、何を注意されているのかが分かってくる。例えば「明石」の出だし、「所から」と私が唄うと、「あなたの『ら』こう。このように出してご覧なさい」とお師匠さんが私の『ら』とご自分の『ら』を歌い分けてくださる。その違いがはっきりと区別できるのである。それでは「後に当てる」というのを自分の言葉で説明できるか、といえば、私には自信がない。それなのに説明の言葉に拘りすぎていたのである。言葉での説明で分かるのなら、本を読んでも分かることだろう。わざわざ人に教えて貰うことはないのである。

お師匠さんの発声をとにかく真似る。駄目なら直されるし、よければそのまま進む。我を出さずにひたすら真似る。学ぶとは真似ることなのであった。

日本国語大辞典(第一版)にも《まな・ぶ【学】(まねぶ(学)と同源)①ならって行う。まねてする。》とあり、《まね・ぶ【学】①他の者の言ったことやその口調をそっくりまねて言う。口まねして言う。》とある。私はその学びの本道から大きく逸れていたのであった。

出来る限り我を抑えて「明石」をお浚いした。


追記(6月29日)
後半部分をアップロードした。