日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

一弦琴「明石」のこと

2007-06-07 19:59:24 | 一弦琴
根拠の程は定かではないが、来年は源氏物語1000年祭だそうである。記念のいろいろな行事が企画されているように思う。一弦琴にも源氏物語にちなんだ曲がある。詞は箏曲から取られたが作曲は真鍋豊平で、私も何年も前に一応習った。でもこの時はとにかくお師匠さんの後を追っかけるのに精一杯で、曲を楽しむとはほど遠い境地だった。

数日前にどうしたことかこの曲のお浚いをやらされた。記憶を甦らすにはよい機会なので、お師匠さんに合わせて唄ったが、なんと私のたどたどしいこと。これではなるまい、と稽古をすこしして、何はともあれ通しで唄ってみた。これから稽古を重ねていくつもりであるが、そのスタートとして今日の演奏を録音に残した。進歩の跡を検証するためのサンプルである。

全曲が長いせいか、アップロードがうまくいかない。そこで曲を前半と後半に分けた。精進を積み重ねて、紫式部と心を通わせられるようになりたいと思う。


追記(6月21日)
前半の演奏のみ差し替えて、後半の演奏は削除した。

タンパク3000プロジェクトとB29の絨毯爆撃

2007-06-04 16:11:07 | 学問・教育・研究
タンパク3000プロジェクトには私のかっての研究仲間が何人も関わっている。私は現役を退いてからは『脱研究』を目指したので、大きなプロジェクトが動き出す話も小耳にはさむ程度であった。それがこの{タンパク3000}であったようだ。5年間に578億円を費やした巨大プロジェクトであることを、朝日新聞に寄せられた中村桂子さんの記事で始めて知ったのである。「よくぞこんな大金を引っ張り出せたな」というのが私の率直な第一印象であった。研究費集めに骨身を削った経験のある人なら、等しく抱く感想ではなかろうか。

研究者にとって研究費獲得は至上命令なのである。金額の多寡に応じて、攻める相手は異なってくる。私の限られた経験ではあるが、百万から千万円程度なら学会の『実力者』を頷かせられたらなんとか行くものだ。しかし億を超えるとそうはいかない。文部事務官であるお役人が目に見えるターゲットになってくるし、それ以上になると『政治』がからんでくる。それは洋の東西を問わないようである。前のエントリータンパク3000とPerutz博士で述べた英国のMRCでも、まとまったお金が必要になると、財務省をウンと云わせるのが最大の、そして最終の関門であったようだ。

まだ私が駆け出しの助手の頃、隣の研究室の教授に研究手法のことなどを教わったり、ディスカッションに乗ってい頂いたことがきっかけで、親しくさせていただいた。ある時そのT教授が私に「○○さん、最敬礼の仕方を知っていますか。文部省のお役人にはこうするんですよ」と云われて、ご真影に対するように恭しく最敬礼を実演されたのである。文部省になにか陳情で出向かれた時の話の中でのことだった。いわゆる『ポリティックス』のことなどもいろいろ伺ったものであるが、この点では私は不肖の弟子に終わった。しかし文部省に顔のきく『実力者』と文部省のお役人との『人脈』とかなんとか、ゴシップは大いに楽しませていただいたものである。。

今回の「タンパク3000」はどういう政治力学が働いたにせよ、財務省をウンと云わせたから実現したのであろうと思う。どちらかと言えば世間知に乏しい学者集団が、そこまでやってのけたことに、私は個人的な思い入れもあって、「凄いな」と反応してしまったのである。

私はタンパクの精製・結晶化で研究生活の第一歩を踏み出した。DNAに目を向けることもなく触れることもなく、ひたすらタンパク・酵素屋としての道を歩き通した。遺伝子の構造決定が世界的にも大きなプロジェクトとなり、遺伝子の詳細が分かっても、結局それが作るタンパク分子の働きを知らないことには何も分かったことにならないよ、と気炎を上げたものである。しかし現実はタンパクではインパクトが弱くて、研究費の廻りはどちらかと言えばよくなかった。そのタンパクを主題に大きなプロジェクトが出来上がったのであるから、なにはともあれCongratulations!なのである。

時の運も熟していたのであろう。これも大型プロジェクトであったヒトゲノム解析プロジェクトが2003年に完了しようとしていた。一方、X線回折法によるタンパク分子の立体構造決定に、世界で最高性能を誇るSPring-8がすでに活躍しており、構造解析が今でも困難視されている巨大な膜タンパクであるチトクロム酸化酵素の立体構造を決定するなどの成果を日本人グループが挙げてきた。それに加えて、タンパク分子を結晶化せずとも溶液状態で立体構造を決定する手法が実用化してきていた。その手法を開発したスイス連邦工科大学のK.Wuthrich博士が2002年にノーベル化学賞を受賞(化学賞の半分がアメリカのFenn博士と島津製作所の田中耕一氏へ)したことも、時宜を得たものであったといえよう。それにしてもタンパクという、別に目新しくないだけに地味な存在でもあったこの生体分子が、昨今の厳しい財政事情にもかかわらず、600億円近い資金を調達し得たことは、世故に疎い科学者の政治的勝利として見るのも一つの評価でありうると私は思う。しかし私の積極的評価は今のところこ、ここ止まりなのである。

ここで原点に戻るが、「タンパク3000」の特徴というか性格な一体何だったのだろう。大型プロジェクトであったことは間違いない。しかし私の目には科学的研究と云うより単なる事業としか見えてこないのである。『事業』を新明解辞典(第五版)は《〔人・金銭・物資を集め〕一定の目的で行う社会活動》と説明する。まさに「タンパク3000」の特徴をピッタリと言い当てているのである。「一定の目的」を「3000種類のタンパクの構造を決める」と読み替えればよい。

文部科学省がタンパク3000プロジェクトをイラストで説明している。先ずこれを見てみよう。目標として掲げられているのは

《3000(全体の約1/3)種以上の蛋白質基本構造・機能解析
・蛋白質発現、解析等の関連技術の高度化、成果の適切な特許化》

である。これを成し遂げると

《ゲノム創薬の推進

活き活きとした高齢化社会の実現

期待される経済効果
・創薬に関する研究費の低コスト化
・新薬開発期間の短縮
・医薬品市場規模の拡大》

と述べられている。しかし結論から言うとこの部分は全くの『作文』で、お役人・政治家目当てに書かれたとしか私には思えない。病気に関係するタンパク分子の立体構造が分かれば、効果的な治療薬をデザインして作り出すことが出来る、というのはこういう提案書につきものの『お題目』なのである。上のお題目は創薬、すなわち新薬が開発されることが前提になっているが、この前提が、半世紀以上を費やした科学的研究によっても、立証されてないという厳しい現実があるにも拘わらず、である。

6月1日にこのブログで述べたように、Perutz博士が決定したヘモグロビンの立体構造がその後のタンパク構造研究の先駆けであった。このヘモグロビンの関与する重大な疾病に鎌状赤血球症がある。黒人の間に多くて黒人1000人のうち4人が発症すると云われている。かっては30歳になるまでに死亡していた。これは遺伝性の疾患で、ヘモグロビンを作り上げているアミノ酸が遺伝子の異常でたった一個異なるだけで生じることがすでに1954年に明らかにされている。分子病のはしりである。半世紀も前に始めて立体構造が明らかにされたヘモグロビンの異常による疾患ですら、いまだ有効な治療薬は開発されていないのが現実なのである。

こういう事実をたとえば財務省のお役人に指摘されたら、このプロジェクトの主旨説明に参上した代表者はしどろもどろになったはずである。それにもかかわらずこのプロジェクトがスタートしたのは、提案者とお役人、それに政治家が、それぞれの思惑でもって野合したからと考えるのが素直である。

このプロジェクトでお題目を除くと、結局残るのは3000種類のタンパクの構造決定という仕事だけである。研究室では『銅鉄実験』とか『牛豚実験』とか、ある研究を揶揄する云い方がある。銅を使って成功したから次は鉄を使おうとか、牛でうまく行ったから次は豚で行こう、というような類の仕事である。3000種類もタンパクの構造を決めるというのも似たようなもの、一つ済んだらまた一つ、それの繰り返しである。一度構造が決まったことになれば、同じことを繰り返すことは先ずやらないから、間違いがあってもそのまま残る。そのデータを使った仕事をして、どうしても辻褄の合わないことが出て来てその構造を見直したら間違いがあった、ということが絶無とは云えない。その場合はまさに「賽の河原の石積み」である。その様な仕事の一体どこが楽しいのだろう、とこれは現場で働いた人に尋ねてみたくなる。出来上がった分子構造の数を数えてはグラフに書き込み満足の笑みを浮かべるのは、現場から離れたほんの一握りの人であろう。これはあくまでも『事業』であって、科学研究の範疇に入るものではない。

話に聞くと、あるところではNMR装置をズラリと並べて次から次へと構造を決めていったそうである。かって『軍国少年』であった私は、前の戦争でアメリカが国力をかけてB29を大量生産した工場の光景を思い出してしまった。圧倒的に優位なアメリカの工業生産力の前に敗れ去った日本人として、今やアメリカをも凌駕せんばかりに高価なNMR装置を並べ立てた壮観を想像すると、思わず喝采したくなる。♪勝ったぞ日本、断じて勝ったぞ、米英今こそ撃滅だ! と軍歌が口をついて出て来る。私はそういう厄介な世代に属する人間なのである。しかし一方、B29の絨毯爆撃よろしく、出来るものは手当たり次第にタンパクの構造を決める手法に、力でねじ伏せる野蛮性を感じてしまったりするのである。

構造決定された3000種のタンパクてどのようなものだろう。いずれ総括的な報告で明らかにされるのであろうが、この中にこれまで難攻不落であった挑戦的なタンパクが、一つでも含まれていたのだろうか。私の直感では、意地悪い云い方で恐縮ではあるが、数を稼ぐために決めやすいタンパクだけを決めたような気がする。絨毯爆撃でも破壊されたのは地表に出ているものだけ、堅牢な地下壕のなかのものは無傷で残るようなものである。地表にあるのは可溶性タンパク、地下壕に隠されたのが膜タンパクと考えるとよい。

そして、構造決定だけでは中途半端なのである。

たまたま夕べ(6月3日)NHKの番組「ダーウィンが来た!」で面白いシーンを目にした。フクロウの一種であるが、擬態というのだろうか、敵がやってくると、コロッと狐のようになったりライオンのようになったり、ものの見事に変身するのである。タンパク分子の場合も同じようなことが考えられる。すなわち結晶の構造解析で明らかになった立体構造はあくまでも普段の姿、餌である基質が近づいたり、好きな相手、嫌な相手が近づくと立体構造を変えるのが普通である。薬の作用機構を理解するにはこのような動態解析が欠かせないが、「タンパク3000」でうたわれている『機能解析』はどの程度まで本格的に取り組まれたのだろうか。

今、目に見える限られた範囲では、「タンパク3000」の事業としての側面は容易に見えるが、科学研究の側面が見えにくい。見えにくいところをも見えるようにするためには、第三者による徹底的な事後検証というか、事後評価が行われるべきであると思う。578億円の出費の中には、今の今、その効果を期待できないものの、5年後10年後の大木を育てるようなものがあるのかも知れない。昔は良い意味で『ボス』がいたものである。自分の裁量で研究費をさらに将来有望なる若手研究者に投入する。支出名目はどうでもよい(なんて云うと、今どきの国会では大変なことになりそうであるが)、たとえ年間200万でも300万でも何年か投入し続ける、その様な使われ方が隠されていたりするとそれは面白い。

私は国家プロジェクトとでも云える大型プロジェクト自体は、科学研究そのものではあり得ないと思う。そもそも国家総動員のような科学者の集中化は、それこそレーダーの完成とか原爆をつくりあげるような明確な目標達成には有効であっても、そもそもが個人の営みである研究の促進とはまったく相容れないものである。国家プロジェクトそのものではなくて、そのおこぼれにこそ、研究を飛躍させる駆動力があるのだ。

最後を昔話で締めくくりたいと思う。



この写真は1975年の秋、琵琶湖湖畔の東洋紡の保養所で開かれた第一回谷口シンポジウムでの一齣である。国内外の若手研究者が20人ほど数日間寝食を共にして、お互いの研究を話し合い、将来の国際的研究交流の基礎を築くというのがその主旨であった。外国から招かれた一人が上に述べたK.Wuthrich博士で、そして話しかけているのが阪大基礎工学部に生物工学科を創設された小谷正雄先生である。このシンポジウムの実質的なオーガナイザーであった。周りの意見も聞かれたのであろうが、今回の「タンパク3000」の大きな推進力の源にもなったWuthrich博士の将来性を見抜かれた小谷先生の慧眼はさすがであると思う。日本からの参加者も、自ら第一級の業績を残すと共に優秀な後継者を育て上げた人が多い。もう30年も昔の話であるから、結果が出ているのである。そこで云えること、やはり研究は人なのである。その人を育てるメカニズムを国家的プロジェクトにも織り込ませる努力を、指導的研究者にぜひ心がけていただきたいものである。

タンパク3000とPerutz博士

2007-06-01 19:00:26 | 学問・教育・研究
もう2週間前になるが5月17日付朝日新聞に中村桂子氏が「文部科学省タンパク3000プロジェクト」に対する批判を寄せられていた。このプロジェクトは5年間で578億円という巨額の費用を投入したまさに大型プロジェクトであったが、中村さんは《米国が行っているような必要性や実現可能性の検討なしにいきなり大型プロジェクトを始め、評価が的確に生かされず次に進んでいく日本のプロジェクトのありようを考え直したいのである》と述べておられる。《科学の本質を深く考える研究者が育たない》とか《本来研究は個人的なものであることを忘れてはならない》と指摘されていることは、わが意を得たりなのであるが、プロジェクトそのものに対して私は異なった視点での意見を持っている。しかしそれを述べるのがこの小文の目的ではない。

このプロジェクトの中心課題は、主要と思われるタンパク質約3000種の基本構造と機能の解析だそうである。この基本構造という言葉が私の休止状態にある脳細胞を刺激したので、ここでは昔ばなしを始めることにする。

1962年、WatsonとCrickがDNAの二重らせん構造の研究でノーベル生理学医学賞を受賞したが、化学賞はPerutzとKendrewがヘモグロビンとミオグロビンという球状タンパク質の構造に関する研究で受賞した。これがX線回折法による生体分子の立体構造を決定する研究の草分けとなった。私がかってこのPerutz博士にお目にかかったときに、ある因縁を覚える話を伺ったのである。

1987年の夏、イギリスのCambridgeを訪れた。旧知のN博士にCambridgeのとあるとこへの案内をお願いしていたのである。N博士は当時分子生物研究のメッカMRC分子生物研究所の研究員であった。Perutz博士はすでに所長を辞めておられたが、私が訪れた日はたまたま研究所に来ておられて、N博士の計らいで私のために少し時間を割いてくださることになった。私が自分の研究内容のことをお話したところ、思いがけない方の名前が博士の口から飛び出したのである。Professor Keilinなのである。

ここに一冊の本がある。私が1968年にアメリカ留学から阪大の研究室に戻ってきた時に恩師から頂いた。本の見返しには私に下さった旨がわざわざ記されている。この本に恩師の蔵書印が捺されていたので気を遣ってくださったのだと思う。ご自分でこの本を買い求められた後で、すでに亡くなられた著者の娘さんからこの著書が贈られて2冊になったからとのことであった。





この本の著者David Keilin博士のことをPerutz博士が語られたのである。ちなみにKeilin博士は1887年生まれでPerutz博士は1914年生まれ、だからKeilin博士の方が27歳年長になる。私がCambridgeを訪れた最大の目的はKeilin博士の研究の拠点であったMolteno Instituteの探訪であったのである。しかし今はこの話には触れない。

ウィーンで化学を専攻したPerutzは1936年にCambridgeへやってきた。結晶学を学ぶのが目的でBernalに師事した。Bernalは科学歴史家として著名で、彼の著書「歴史における科学」(みすず書房刊)を学生時代に読んだものである。翌1937年にPerutzはヘモグロビンの構造研究を博士号のための研究テーマとした。ところがその年のおわりにBernalがロンドンの新しいポストに移ることになったが、PerutzはCambridgeに留まり、X線結晶解析の基礎を築いたことで同じ物理学者の父とともにノーベル物理学賞を1915年に受賞したBraggに師事することになった。1938年にオーストリアがヒトラー・ドイツに併合されるとPerutzは亡命者となり、Braggがアメリカのロックフェラー財団から研究費を得てPerutzを助手にするなど、彼の生活をも支援したのである。しかしヘモグロビンの立体構造決定の本格的な研究が始まったのは戦後である。

第二次大戦のあと、英国では国民がこぞって科学をとても高く評価した。ドーバー海峡を渡り押し寄せてくるドイツ軍の飛行機を早期に発見するレーダーを科学者が発明したおかげで、ヒトラーに英国を占領されずに済んだ、と国民が科学の力を本心で認めたのである。さらにペニシリンの発見が医学にたいする国民の信頼を高め、また原爆の開発への英国研究者の寄与が大きく評価されたのである。

国民の科学に対する評価が大いに高まったのを契機として、そして一方、とくに核物理で開発・利用された技術を平和的利用に転用する気運が、生命の物理学としての生物物理学を生み出す大きな原動力となった。その動きの中心がMedical Research Council(MRC、医学研究審議会)である。ここで『医学』という用語について一言付け加えておくと、MRCの云う医学研究とは、人類に価値のあることの研究を意味するのであって、単に病気とか健康障害のような狭い範囲での研究ではない。これはその当時MRC長官であったEdward Mellanbyが確言していることである。

PerutzはBraggが教授であるCavendish Laboratoryでヘモグロビンの仕事を始めたものの、暖かい支持のみに囲まれていたのではなかった。ヘモグロビンのようななまものを精製して結晶化する場所がスペースの限られたこの研究所ではなかったのである。そこへ救いの手を出したのがKeilin教授で、Perutz博士はCavendish LaboratoryとMolteno Instituteとの間を自転車で始終往き来したものだと私に話してくれた。

Keilinの援助はそれのみに留まらなかった。必ずしも政治力があるとは云えなかったBraggを説得してPerutuz(とKendrew)のための研究費をMRCに申請させたのである。そしてMRC長官のMellanbyに、このプロジェクトはCavendish LaboratoryとMolteno Instituteとの共同研究であって、生物学の基本に関わる重要性を持つと力説したのである。その働きかけが実を結び、1947年にPerutzを責任者とする生体系分子構造のMRC研究グループが誕生したのである。

学問的には私はKeilin教授の孫弟子筋にあたると云えよう。直系の弟子に招かれて共同研究もしているからだ。そのKeilin教授とPerutz博士がこれほど近い関係があったとはその時が初耳であった。そのうえ博士は素晴らしいプレゼントを私に与えてくださった。



上の写真はKeilin教授の著書から取った。顕微鏡のようなものを覗き込んでおられる。実は顕微鏡の鏡筒の上にプリズムをセットしたもので、戴物台上の試料のスペクトルを観察するもので、本の表紙のような像が目に映る。私が研究室で最初に教えられたのはこの装置の使い方で、ハンドスペクトルと簡単に呼んでいた。卒業式の後だと思うがこの横で撮った記念写真が下にある。



Keilin教授が使っておられたこのハンドスペクトルを、なんと、私が貰ったとPerutz博士が云われるのである。興奮してしまった私が博士にお願いしてそれを見せていただき、覗き込だのが下の写真である。科学の歴史に直に触れる思いがした。



Perutz博士は2002年2月6日に亡くなられた。その2002年に「文部科学省タンパク3000プロジェクト」がスタートしたことになにか因縁のようなものを感じるのは私だけではあるまい。そして私にとって身近な阪大蛋白質研究所で、日本におけるタンパク分子の立体構造研究が開始されたときから注目をしてきた私に、中村桂子氏とはまた違った視点があったとしても不思議ではあるまい。折を見てタンパク3000への感想を述べようと思う。