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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

鶴見俊輔/上坂冬子 「対論・異色昭和史」を読んで

2009-04-23 20:31:26 | 読書
保守派論客と言われる上坂冬子さんが亡くなった。

作家の上坂冬子さん死去
2009.4.17 13:30

 本紙「正論」の執筆メンバーで、近現代史に切り込む著作で知られるノンフィクション作家、上坂冬子(かみさか・ふゆこ、本名・丹羽ヨシコ)さんが14日、東京都内の病院で死去したことが分かった。78歳だった。
(産経ニュース)

そして本屋で見つけたのがこの本で、奥付には2009年5月1日第一版第一刷とある。メーデーに合わせて書店に並ぶはずが、訃報で急遽早まったのだろうか。それはともかく、上坂冬子さんと同世代に属する私は一気に読み上げてしまった。自分の目で物事を見ることに徹している両人のやりとりが私の共感を呼んだのである。興味を引いた箇所をピックアップしてみる。

 父への反発
上坂 父上の鶴見祐輔さんは、子どもの友達にまで挨拶するような愛想のいい方だったんですか。
鶴見 鶴見祐輔は後藤新平の女婿ですから、頭が低い(笑)。彼は一高首席の秀才なんです。後藤新平が一高の校長だった新渡戸稲造に「秀才で、人柄のいい奴はいないか」と尋ねて、推薦されたのが鶴見祐輔だった。そんな経緯があって親父は後藤家の入婿みたいな存在になった。新渡戸がいなきや、私もこの世にいなかったわけです。
(24ページ)

戦後、新制中学生のころ、鶴見祐輔氏の小説を読んだ覚えがある。確か大日本雄弁講談社が出した分厚い本で「母」と「子」だったと思う。その「子」の方だったか、健気な少年が主人公で、父親が銀行破綻の責任を負って自死するが、母親の慈愛に育まれて一高に入学し、剣道部員になって試合に臨む。足の親指の動きの細かな描写が未だに記憶の片隅に残っている。戦後、鶴見祐輔氏はすでに政界を退いていたのだろうか。そして気がつくと鶴見和子とか鶴見俊輔の名前を新聞、雑誌で散見するようになり、鶴見祐輔の子供なんだと思ったことがあった。しかしその著作に目を通すことはなかった。偉い人の子供の書いたものに単純に反発したのだろう。しかし正確に言えば次の一冊だけは読んだ。この時代の世間並みでない環境下の人間模様が面白かったからである。鶴見俊輔の「人脈」も分かってくる。



当時、いわゆる日本の上流階級に身近に接した鶴見俊輔氏と、ノンフィクション作家として取材で生身の人間に接した上坂冬子さんの対論で浮かび上がる昭和を生きた数々の人物像がこの本の骨格となっているとも言える。保守派の上坂氏と跳ねっ返りの鶴見氏の組み合わせがまた面白い。

鶴見 のちに成人した私を京都大学に引っ張ってくれたのば桑原武夫ですけど、京都で私は鬱病になって辞表を持っていった。京大助教授なんてもう耐えられないと思ったからね。桑原さんは、私と親父が縁を切ったことを知っているから、薬代を心配して「君は病気だ。学校にこないで休んで給料だけ取ったらいい」と言ってくれた。
(27ページ)

鶴見氏が京都大学人文科学研究所助教授になったのは戦後の1949年、昔の人事はこのように決まっていたようである。大らかで古き良き時代であった。

 いまならお袋は警察行き
鶴見 私は生まれた時から、お袋に蹴ったり殴ったりされて育てられてきたんです。お袋は後藤新平の娘ということで、彼女自身が毒を飲まされたような心境だったから。大きな家に生まれた子は必ず悪人になるって、まるでプロレタリア小説みたいな思想を持っているんだ。無茶な話だよ本当に。あの育て方がバレたら、いまならたぶんお袋は警察に引っ張られるよ。
(29ページ)

猛女は孟母!

鶴見 (前略)
 日本国内にも一刻な人間はいました。例えば、斎藤隆夫。いったんは議会を放逐されたけど、昭和十五年の翼賛選挙に非翼賛議員として立候補してますからね。
上坂 ええ。しかもトップ当選でしたね。
鶴見 あの時に兵庫で斎藤隆夫を当選させたのは、亡くなったユング系の心理学者で文化庁長官だった河合隼雄の親父たちです。丹波篠山にいてこの戦争はまずいとわかっていたし、そういう根っこがあったから、斎藤は非翼賛でもう一回這い上がることができたんだ。
上坂 河合隼雄さんのお父さんは何をなさる方だったんですか?
鶴見 歯科医。一方、三木武夫はね、金持ちの息子だから親父の金を使って非翼賛で出てくる。その意味では三木にも何かがありますよ。だからいまも三木睦子夫人の「(憲法)九条を守る会」が残っているでしょう。翼賛議会というのは、いまの国会よりずっと立派なんだ。というより、あの頃はいまよりまっとうな人間がいたんです。根性のある人間が。
上坂 有権者も偉かった。国家の方針に沿った大政翼賛会に入らず、入れてもらえないという人をトップ当選させちゃうんだから。
(52ページ)

世襲議員を続々作り出す今の有権者を見よ!
森田健作氏を知事に選んだ千葉県有権者を見よ!

鶴見 ともかく、日本に帰るかどうか決めた根拠は、極めて漠然としているんだ。昭和十七年に交換船で和子と私が日本へ帰ってきてから、四人のきょうだいが揃いましたが、弟と妹は、小学生と中学生だから寝てしまう。女学校なんかは挺身隊の生産を上げることに躍起になっていましたから生徒は軍国主義者。で、親父は議会から帰ってくると弟と妹が寝た後で食堂に残って英語の練習をするんだ。つまり私だちと同じ英語の本を回し読みするんです。自分の発音を直してくれと言うわけ。
 親父は一高で夏目漱石に学んでいますけど、発音は悪いんですよ。例えば、関係や結びつきを表す英語を「コンネクション」と発音する。イギリス人やアメリ力人の発音だったら「コネクション」でしょう。発音上はnは一つしかない。スペルでは二つあるけどね。そういう英語なんですよ。親父が朗読するのを聞いて、こちらが、発音の悪さを指摘すると「ああ、そうか」と言って、だんだんわかってくるわけ。食事が済んだらそれを繰り返すんです。
上坂 それが昭和十七年の話ですか。
(58ページ)

鶴見祐輔氏はさすが教養人。でも隠れてするのがずるい!

同じく戦時中。

鶴見 私にはもっと重要な大変な仕事があったんです。バタビアには海軍武官府の上司がいる。その人のところへ行ったらね、私に部屋を与えて、人が出入りできないようにしろと言う。で、優秀な短波放送のラジオを置いた。夜中にこれを聞いてくれ、朝になったら事務所に出て、敵が読むのと同じ新聞を作ってくれと命令されたわけ。
 ということは、彼は大本営発表を信じていないのね。あんなもので戦争なんかできるわけがないから。私一人でラジオを聞き、原稿を作って朝になると事務所に行って、できた分からタイピストに渡すわけ。私は十六歳で日本を離れているから悪筆なんだ。で、その後も書くそばから彼女が邦文で打って新聞を作る。私自身も大変な労働で、これ以外のことなんてほとんどできない。あんなに働いたことはないなあ。
上坂 面白い役目ですね。
鶴見 面白くないよ。疲れただけ。結局、もういっぺんカリエスになった。海軍流の合理主義で間違いのないようにタイピストが二人つく。その日の午後には新聞ができる。その新聞を海軍のシステムに従って太平洋に散らばったそれぞれの艦隊の司令長官と参謀長と参謀に宛てて送るんです。最新の、日本政府の知らない事実がわかったという意味ではたしかに面白かった。
上坂 さすがは海軍ですね。敵の新聞を訳して送るなんて。
(80ページ)

好奇心旺盛な日本人連綿。それにしても一般国民は低く見られていたものだ。今の北朝鮮国民並みであったことを銘記すべきである。

同じく戦時中の慰安婦のことから慰安婦補償問題の話になり、補償派の鶴見氏に対して対極にある上坂氏。

 慰安婦と被爆者
上坂 私がなぜこんなに意地悪い見方をするかと言うと、原爆の被爆者と比較するからです。「あなたは被爆者だ」という事実認定が厳しいんですよ。初期の頃はここでこう被爆しましたと必死に伝えても、認定を下すためには両親やきょうだいなど、血のつながりのある者以外に二人の証人が必要だと言われていました。偽被爆者を防ぐために必要な手立てだったんでしょうけれど、あの惨禍の中でそういう証人を捜せなんて無理な話です。
鶴見 あんな状況で、証明なんかできるものではない。
上坂 そうなの。なのに申請書を二度も三度も書き直して提出させられました。被爆者手帳をもらうためには、そんな努力が必要だったんですよ。にもかかわらず、慰安婦のほうは「榔子の木の生えたところに連れていかれました」と言うだけで、南方に送られたと認められて補償される。多い人は民間基金で四百万円ぐらいもらっているでしょう。補償金を出しだのを責めるわけではないけれど、被爆者の認定にあれほど厳しくしながら、慰安婦は自己申請だけでいいとされて戦後補償が行われるのが、私には納得がいかないですね。
(87ページ)

私は100%上坂さんの意見に同調。

上坂 日本も知恵がないじゃありませんか。あんな九条を有り難そうに奉って「九条の会」を作って集まっている人までいるんですから(「九条の会」の呼びかけ人は、井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、故・小田実、故・加藤周一、滓地久江、鶴見俊輔、三木睦子の各氏)、鶴見さん以外は私と話が通じそうにない人ばかり(笑)。本当ならサンフランシスコ講和条約の直後に、日本は日本の判断として新しい憲法を作るべきでした。あの時、日本人の判断で九条めいたものを作っていたなら、私も「九条を守れ」と言ったかもしれません。
(114ページ)

ヒアヒア!

上坂 その後、昭和四十七(一九七二)年に横井庄一さんが帰ってきます。鶴見さんは、「恥ずかしながら」帰国したけれど、「天勾践を空しゅうする莫れ」と言った横井さんのほうが、その後ルバング島から帰国した小野田寛郎さんより好きでしょ。
鶴見 よくわかるね。
上坂 鶴見さんのことは、もうだいたいわかるようになりました(笑)。横井さんのは、まさに名台詞でしかね。
鶴見 ああいう人が庶民の中から出てくるんだね。大東亜戦争云々なんて言わないんだ。国家がどうこうじゃないんだね。自分は命令されたからジャングルに龍もった、ただそれだけなんだろうなあ。兵隊として、あるべき態度だったんだろう。それなりに立派じゃない?
上坂 「天勾践を空しゅうする莫れ」には新聞記者が困ったらしいですね。「時に范蠡無きにしも非ず」と聞いて、以前にどんな”判例”があったんだって大騒ぎしたっていうけど。よく覚えてたわね、横井さんも。
鶴見 小学唱歌でしょう。唱歌から覚えたんですよ。漢文を読んだわけじゃない。
上坂 「桜の幹に十字の詩、天勾践を空しゅうする莫れ……」って、哀愁を帯びたメロディーを私はいまも口ずさめます。
鶴見 横井庄一は、あのて囲で孤島の暮らしを耐えたんだろう。
上坂 もとは『大平記』に出てくる児島高徳の話ですね。隠岐に遠流にされた天皇に対して、「天皇よ、どうか希望を失わないでください。故事に知られた范蠡のような忠臣が現れて、きっとお救い申し上げます」というような意味ですよね。こういうふうに先生と私との間では小学唱歌、小学校の国定教科書ですぐに話が通じる。戦後に国定教科書が廃止されて、国民が共通の思い出が持てないってほんと不便です。国民文化の大損害ですよ。教科書の数を増やせば言論の自由が保障されるってもんでもないでしょうに。
(196ページ)

「天勾践を空しゅうする莫れ」と横井さんが言ったことは知らなかった。私もこの歌は完全に宙で歌える。論客二人の意見が合うのもよい。いや、私も。

鶴見 若槻禮次郎です。私は敗戦の時に、伊東にいた若槻禮次郎に手紙を出して会いに行ったことがある。手紙を出しておいたから「ごめんください」と言うと、若槻禮次郎が自分で出てきた。それが裸なんだよ。褌はしてたけど(笑)。広い日本間に上げてくれて「実は私一人しかおりません。家内は夕食の準備に街のほうに行っております」と言う。老妻と彼と、二人だけで住んでいるんだよ。それが何十年か前の日本の総理大臣だったわけだよ。
 それで私が質問して彼が答えるでしょう。当時はテープレコーダーがないから、筆記です。そのはじまりが「私は捨て子です。父の名も母の名も知りません」だったの。どっかで拾われて、それから学校へやられているんだよ。そういう総理大臣がいたんだ。やっぱり感銘を受けたね。
上坂 受けますねえ。
鶴見 本当に驚いた。だからあの頃の総理大臣を見ると、若槻禮次郎や浜口雄幸、このへんはそういうふうにして上がってきた人だちなんだ。ものすごくできて、知恵もある。それが日本の総理大臣というものだった。伊藤博文だってできたでしょう。桂太郎ぐらいまではそうだろうね。だから若槻あたりは敗戦の時まで生きて、最後は天皇のそばにいて敗戦の結果を一緒に受け止めたわけだ。それはもう大変なことですよ。そういう老人の知恵が日本を救ったんです。トルーマンのあの間違った判断があったにもかかわらず。(後略)
(224ページ)

ここに名の上がった総理大臣に一人として世襲議員はいない。それに比べて今の小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎についでに小沢一郎を見よ。ああ、なさけなや、なさけなや。そして、

上坂 私はお葬式をしないつもりです。だって呼ばれるのも嫌ですもの。本人が死んじゃっているんですから、行ったって意味がない。
(中略)
上坂 死んだら燃やしてもらって骨壷に入れればそれでいいんですよ。私はきょうだいに、半年間は世間の誰にも知らせないでくれって言っているの。
鶴見 すごいね。
(233ページ)

どうしたことか上坂さんの逝去は三日後に知れ渡ることになった。ご冥福をお祈りする。最後の謦咳に接するにはぜひこの本を。

黒木登志夫著「落下傘学長奮闘記 大学法人化の現場から」を読んで

2009-03-23 23:40:51 | 読書
承前

「プロローグ」に著者の黒木登志氏がかって身を置いた研究所の雰囲気を、次のように述べている。

《伝染病研究所の伝統を引き継いだ東大医科研には、”伝研魂”ともいうべき美学があった。研究だけに没頭し、研究所の運営、政治などの雑用は所長に任せればよい、できたら教授会もなくしてほしい、というのが、当時の雰囲気であった。》

私が身を置いた大学もこの通りで、その雰囲気を実感出来る。黒木博士は、その医科研の所長になることは固辞されたようであるが、岐阜大学の学長に選ばれるや意欲を示し、大学独立行政法人化前の三年と法人化後の四年の二期を学長として勤めた方である。この本を一読して、名ばかり学長ならぬプロとして学長職に励まれた方との印象を持った。大学の独立行政法人化という大きな変革の担い手として、希有の体験されたという意味では男冥利に尽きる思いをされたのではなかろうか。西郷隆盛と大久保利通を足して二で割ったような役割、というと大げさかも知れないが、それを真摯に果たされた方のメモワールとしてこの本は実に内容が豊富である。このなかで三点ほど、私がとくに関心をもったことを取り上げる。

この本で私がもっとも感銘を受けたのは、学生憲章の中身なのである。

法人化にあたり、大学としての理念を完成させる必要があるということで、岐阜大学では「教育に軸足を置いた教育・研究大学」という位置づけを行った。それは黒木博士の以下のようなしごくもっともな、そしてきわめて冷静な状況判断がその根底にある。

《岐阜大学の現況を見た場合、後にランキングで示すように、研究実績はあるものの研究大学と呼ぶには実力が不十分である。といって、教育だけをすればよいという大学でもない。「研究・教育大学」という考えは、優れた教育をするためには、優れた研究がその背後にあるべきであり、研究に打ち込む教員の姿自身が教育であるという考えによる。》

そこから学生憲章とか教員憲章とかが生まれてきたのであるが、学生憲章では学生に次のように呼びかけている。

 1.本をたくさん読み、学んでいく上での土壌をつくろう。
 2.文学と芸術を愛し、人間と自然への理解を深めよう。
 3.専門職業人として、高度な専門知識を身につけよう。
 4.自分の考えを論理的な文章にまとめ、発表できるようにしよう。
 5.国際語である英語をマスターし、十分に意思疎通できる実力をつけよう。
 6.IT技術により、正しい情報の受信と発信ができるようにしよう。
 7.長い人生を生きるための体力をつけ、健康を守ろう。

これから大学生生活を始めようとする新入生にとっては、具体的な指針であると言えばそれまでなのであるが、私はこのなかに、年のせいなのだろうか、学生に対するふつふつとした愛情を感じて感動したのである。この憲章は同時に教員に対する指導心得にもなっているのがよい。さらに、これで浮かび上がる教育理念が、実は将来の岐阜大学のあるべき姿を表しているようにも私には思えるのである。これはまた後に触れる。

ここで急に極端な言い方になるが、私がこの本を読んで希望と明るさを感じたのは、後にも先にもこの一点だけなのである。というのも、プロ学長の目を通じて浮かび上がってくるのは、廃墟と化す大学のイリュージョンなのである。

その一例が付属病院を抱えた大学の危機的状況である。それは国立大学付属病院自体の深刻な病で、法人化が発端だというのである。国立大学時代の病院建設、医療設備への投資に対して、従来は国が面倒を見てくれていたのに、法人化で大学が償還義務を負うようになった。著者の岐阜大学では病院を新築移転したために負債総額が557億円に達するそうである。国立大学付属病院全体では04年時点で、なんと1兆10億円にのぼるというのである。この借金を各大学が返していかないといけないのだが、一体どのように返していくのか。

《国立大学協会によると、05年度に大学予算を病院につぎ込まざるを得なかった大学は、ほぼ10%の4大学に上る。08年度までにはほとんどの大学が、病院のために大学の予算を削らざるを得なくなるだろう。
 大学のお金をつぎ込むのは当然と思うかもしれない。しかし、問題は金額である。大学予算の3分の1を占める病院の赤字は、規模の小さい学部など簡単につぶしてしまうほどなのだ。教育経費はゼロになるかもしれない。大学病院の病巣が大学全体に波及するところまで来ている。》

これではたまったものではない。一口に言えば、医療行政の一端というか、いや、そのかなり本質部分を、元来は教育・研究機関である大学が担うという曲芸的マヌーバーの矛盾点が露わになったのである。この矛盾点を解決するには、医療制度と医学教育制度の抜本的改革にしかその途はないと思うのだが、ここではこれ以上立ち入らない。いずれにせよ黒木博士にしてもこの問題に大きな危機感を抱くのは当然のことであろう。

気になるもう一点とは、大学への競争原理主義の持ち込みである。経済財政諮問会議の民間議員が07年2月27日に「成長力強化のための大学・大学院改革について」という3項目からなる提案をした。

 1.イノベーションの拠点として―研究予選の選択と集中を―
 2.オープンな教育システムの拠点として―大学・大学院グローバル化プランの策定―
 3.大学の努力と成果に応じた国立大学運営費交付金の配分ルール

著者は《この提案の根底にある考えは、「競争原理」、「成果主義」、「効率主義」、「選択と集中」、「グローバル化」などのキーワードで代表される、市場中心主義、競争原理主義を引き継ぐものであった。「社会的共通資産」である教育をすぐに役に立つ投資としてしかみていないのではなかろうか。》とそのスタンスを明らかにしている。

この競争原理主義を持ち込ませないために最も有効な対抗策はただ一つ、この競争原理主義が目指すものを大学側が先手を打って実現してしまえば済むのである。それは何か。大学のスクラップ・ビルドの抜本的達成である、と私は思う。

私はかねてからわが国に大学という名の大学が多すぎることの問題点を折に触れて述べている。最近にも庭仕事から大学制度へ話が飛ぶで以下のように述べている、

《大学は元来アカデミックなものでなければならない。その大学のなかに実学を目指すべき専門学校が取り込まれ、両者の境界が曖昧になるばかりではなく実学の影が薄くなるとともにアカデミック大学そのものの全般的な弱体化されてしまったと私は思う。大学が改めて実学とアカデミズムとに分かれるべき時期がすでに来ているのであり、昨今取り沙汰されている「大学の質の保証」はアカデミズムへの回帰を強調したものと受け取ればよい。そのためにはまず実学系を分離すべきなのである。以前にも私が教員にも通信簿というご時世? 自己評価制度を作る阿呆に乗る阿呆で《私は国立大学の大規模な統廃合が避けられない時期が必ずやってくると見ている。最終的には旧帝大を核としてその倍ぐらいは残るかも知れない。道州制の先行きとも密接に関連してくるだろう。》と述べたが、これはアカデミック大学を指しているのである。このアカデミック大学から脱落した大学は、名称はともかく、実体がかっての『専門学校』に戻るべきなのである。この問題はまたあらためて取り上げることにする。》

最初に述べた学生憲章に掲げられていることは、この実学を学ぶ学生に対する言葉としても実にしっくりとくる。黒木博士はすでに岐阜大学の将来あるべき姿を見据えておられたのかもしれない。もしそうなら、黒木博士が大学のスクラップ・ビルドの抜本的達成のための旗振り役としてはうってつけの人物のようにも見えてくる。と、隠居の気楽さでついつい調子に乗ってしまった。著者によると《この本は、私の基礎医学者としてのキャリアとは直接関係のない内容となったが、データを大事にし、データを元に発言するという科学者としてのトレーニングはいかされたのではなかろうか。》と述べている。私がここで述べたことが隠居の妄想に過ぎないのかどうか、この本をじっくりと読めば判断して頂けるように思う。

黒木登志夫著「落下傘学長奮闘記 大学法人化の現場から」を飛行機内に置き忘れたと思いきや・・・

2009-03-22 18:00:34 | 読書
基礎医学者としてひたすら研究者の道を歩んできた黒木登志夫博士が、大学の独立行政法人化を契機に岐阜大学の学長となり、七年間組織の長として大学の運営に携わってきた。この間の体験記なのであるが、臨場感に満ちあふれており、独立行政法人化後の大学を知らない私にとって、現状を知る格好と手引き書とばかりに本屋に並んだ日に手に入れた。東京ぶらぶら歩きの間も持ち歩き、寝る前に睡眠薬代わりなんて不謹慎な読み方をしたのであるが、なかなか話のテンポがよくて引きずり込まれてしまう始末であった。残りは帰りの飛行機の中で読むことにしたが、確か独立行政法人化後の大学で事務局長を廃止する話のところまで来たと思う、早くも神戸空港に到着したので中断した。

帰宅してしばらくは溜まった用??を片付けていたが、二三日たって本を読み続けようとしても見あたらない。身の回りを徹底的に調べたけれど出てこない。どうも飛行機の座席の前のポケットに置き忘れたようなのである。ポケットに入れたことはしっかりと覚えている。ところが取り出した記憶がない。そこでネットで全日空のホームページの遺失物のところを検索した。搭乗日と空港、それに物件を本と指定すると14件の忘れ物が保管されていることが分かった。その先は電話でのやりとりになる。書名を告げてしばらく待ったが、残念ながら「落下傘学長奮闘記」は保管されていないとのことだった。まだ飛行機のどこかにしがみついているのかも知れない。

あと四分の一ほど残っていたと思う。ジュンク堂で座り読みでもするつもりでいる。この本はかっての大学人が独立行政法人国立大学のあらましを理解するにはうってつけだと思う。何がどのように変わってきたのかが要領よく説明されている。文部事務官にコントロールされていた時代とは異なり、とくに大学学長が生き生きと指導力を発揮する様が描かれていて、ほんとうに様変わりの印象を受けて、ついつい橋下徹大阪府知事を連想してしまった。

手元に本がないのでこれから先は私の印象だけがたよりである。優れた基礎医学者の黒木博士が、いったん研究の場を離れ大学の管理運営に携わるようになるとそこでも全力投球で、数々の目標を達成するとともに、解決すべき問題を提起するなど、それなりの成果を挙げてこられたようで、誠実に職務を遂行する信念の人、のようなイメージが浮かび上がった。

ここまで書いて中断していた。読後感を書くのに手元に肝心の本がないと、引用に差し障りがあるので、やはりもう一度買うべきか、と思案をしていたのである。稀ではあるが二度買いの経験があるからである。だんだんと記憶力が減退したのか、それとも記憶しようという意欲が薄れたのか、一度買った本をもう一度買うことが増えてきたようである。たとえば岩波新書が「シリーズ日本近現代史」を発刊してすでに全10巻中9巻まで出ているが、なんとそのうち5巻と7巻を2冊ずつ買っているのである。いつか読むつもりで買っているので、中身に目を通さないのでこういうことが起こるのだろう。だから黒木博士の本も知らずにもう一度買ったと思えばそれで済む。今日は雨だし、明日は朝鮮語教室に出かけるから、そのついでにと思っていたのである。



ところがなんと、今日は日曜日でふだんあまり座ることのないリビングの安楽椅子に腰を下ろすと、横のテーブルの上にこの本がちゃんとあるではないか。



知らない間にというか、無意識に私がこの本だけを旅行バッグのポケットから取り出して、それも読み続けようと思ったのか、リビングのテーブルに置いたのであろう。その間の行動が私の記憶から完全に欠落していた。あなおそろし!しかし「落下傘学長」は無事飛行機から降下していたので、こちらは目出度しめでたしであった。読後感の続きは改めて記す。



鄭大聲編著「朝鮮の料理書」と唐辛子

2009-03-01 19:26:51 | 読書

この本の概要は「帯」の説明の通りである。そして凡例に《本書は李時明夫人張氏(1598-1680年)の手になる「飲食知味方」(別名「閨壷是議方」)と、徐有本夫人李氏(1759-1824年)の手になる「閨閤叢書」酒食篇、及び許筠(1569-1618年)の「屠門大嚼」を訳出したものである。(中略)前二書は、女性の手になるハングル古文の記録、最期のものは男性の著書で漢文である。》とある。

この前の月曜日、韓国・朝鮮語クラスが終わり、いつものように先生を囲んで「すっから・ちょっから」で食事をしている時に料理の話になり、私がこの本の話をしたところ先生に見せて欲しいと言われたので探し出してきた。まだ目を通していなかったので、この機会にパラパラとページをめくってみた。以下は編著者の「解説」および「あとがき」にもとづいての紹介である。

「飲食知味方(ウムシクチクミバン)」も「閨閤叢書(キュハブチョンソ)」も上層階級の両班(ヤンバン)の食生活を表したもので、当時の庶民階級の食生活のものではない。前著の成立した十六~十七世紀の頃、両班階級が旅行をする時は地方の両班家を相互に利用し合うのが習わしになっていて、旅行者がその地域の班家を訪ねて玄関で「自分はどこそこの何家の者だ」と名乗ると、主人は一度も会ったことのない人でも確かに両班だと知ると丁重に客室に案内し、酒食をもてなした。この接客態度が口伝えで広まっていくので、もてなしに家門の名誉をかけて心を配った。この当時のことゆえみな不意の訪問なので、常備の食料が何らかの形で用意されていなければならないし、また早造りもするのでそのためのテキストが必要になってくる。上層階級の班家の女性たちは読み書きにも洗練された教養を備えていたからこそ、このような料理書を書き残すことが出来たのである。

「飲食知味方」が発見されたのは1960年、現代語訳が現れたのは1966年以降で、2人の訳者がいるが、内容の見解について若干の相違がある。

《「若鶏の蒸しもの」料理で、孫正子氏は野菜の材料ににらととうがらしが用いられるかのように訳されている。黄慧性氏はとうがらしは省かれている。にらは염부추(ヨムブチュ)、あるいは부추(プチュ)とも呼ぶ。とうがらしは고추(コチュ)である。原文の염교(ヨムギョ)の表記を解釈する上で、このような差となったのではないかと思われる。原文を読んでみると、黄女史の方が正しいようである。それで本訳書ではとうがらしを省いた。もう少し掘り下げて考えるならば、この時代の料理にとうがらしが材料として使用されたかどうか、甚だ疑問だからである。
 とうがらしが朝鮮や日本に伝来されたのは、十六世紀から十七世紀初頭にかけてである。もしこの書が張氏の手になるものであるならば、この料理内容は少なくとも十六世紀ごろ、いやそれ以前から、李家に連綿と受けつがれてきた伝統的な料理造りの方法が記されたものとみなければならない。つまり新しくこの時代に考え出された料理の書ではないのである。また、とうがらしがそのころに伝来したとしても、そんなに簡単に伝統料理にとり入れられることはまずないであろう。一般にとうがらしが朝鮮の家庭料理に広くとり入れられるようになるのは、十八世紀から十九世紀にかけてのことである。ここに記された班家の伝統料理に用いられたとみるのは早計だと考え、本訳書ではとうがらしはないものとしたのである。》

編著者の「解説」を長々と引用したのは理由がある。先日、朝日新聞が次のように報じた。

《「唐辛子、秀吉が持ち込み説」覆す 韓国研究所

 【ソウル=牧野愛博】唐辛子は日本から豊臣秀吉が持ち込んだものではない――。韓国食品研究院は19日付で、こんな研究結果を発表した。

 同院は、15年にわたって国内外の数百件の文献を研究。これまで唐辛子は秀吉によって、1592年に起きた第1次朝鮮出兵のときに朝鮮半島に持ち込まれたと信じられていたが、それ以前に発刊された「救急簡易方」などの文献に、唐辛子を意味する言葉が残されていたという。》(asahi.com 2009年2月22日6時0分)

私は長い間、唐辛子は朝鮮から日本にやって来たと思っていた。子供の頃、朝鮮で始めてあの唐辛子にお目にかかった印象が強かったのであろう。それに唐と名のつく品物が朝鮮を経て日本にやって来ることになんの違和感もなかったからである。それが逆に日本から朝鮮に持ち込まれたという話をなにかで知った時には奇異に感じた。だから私にとって「唐辛子は日本から豊臣秀吉が持ち込んだものではない」なんて、「ああ、やっぱり」で済む話なのである。しかし実際にとうがらしが朝鮮でどう使われていたのかには興味があり、それでたまたま上の解説に目が向いたのである。

鄭大聲氏の「解説(1982年)」に「とうがらしが朝鮮や日本に伝来されたのは、十六世紀から十七世紀初頭にかけてである」と記されているのみであるし、またこの本にまとめられた「食生活史参考年表」には《壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)。 とうがらしは、この戦争のときかそれ以前に伝来したとみられる。》とあって、「秀吉が持ち込み説」のあることを示唆しつつも、それ以外の可能性をも考慮に入れている。ただ鄭氏が「飲食知味方」からとうがらしを省くに至った推論の過程は私も納得できる。また壬辰倭乱の終結の年に生まれた張氏の「飲食知味方」に、とうがらしを使った料理の記載のないことは十六世紀から十七世紀初頭にかけて、朝鮮でとうがらしが一般的でなかったことの証と受け取れる。事実、十八世紀から十九世紀に記された李氏の「閨閤叢書」には섞박지(ソクパクチ、まぜ合わせ漬物)としていわゆるキムチの漬け方が出ているが、そこには《まず、大根、白菜累の水のきれたものを入れ、次いでなす・きゅうり・とうがんを入れた上に、塩辛を一重敷く。その上から青角(海藻のみる)・ねぎ・にんにく・とうがらしなどをいっぱいふるかける。》とあって、とうがらしが堂々とまかり通っている。

では「救急簡易方」にどのように「とうがらし」が現れるか、である。現代韓国語で唐辛子は고추である。それが「救急簡易方」では「椒」なる漢字に対応して現れるハングル文字고쵸が「とうがらし」のことと主張されている。しかし明らかに고추と異なる고쵸がどうして「とうがらし」でありうるのか、私にはこのあたりの論法が理解できないのである。



「椒」が「とうがらし」であることの根拠も私には分かりにくい。「椒」は「字通」によると《椒に草・木の二類があり、ともに辛気の強烈なものである。》とあるだけで、「山椒」が例に取り上げられているものの「とうがらし」はどこにも出てこない。「椒」が「とうがらし」でないのなら고쵸も「とうがらし」であり得るはずがなく、もし고쵸は明らかに現在のとうがらしを指す고추と同じものであるのなら、どこでどうなって고쵸が고추になったのか、文字の変遷についての説明が欲しいものである。

さらに言えば「救急簡易方」は1489年の書籍のようである。すなわちコロンブスがアメリカ大陸に辿り着く前である。と言うことは朝鮮にとうがらしがもともと自生していたことになる。私は唐辛子の原産地は中南米かと思っていた。下の本にはこのように出てくる。



《カリブ諸島があらゆる種類のトウガラシの原産地であることが推察される。アメリカの植民地化以降もトウガラシの品種は多様化しつづけた。(中略)スペイン人とポルトガル人はすぐにトウガラシを旧世界に持ち帰った。ヨーロッパではあまりにも刺激が強すぎてすぐには受け入れられなかったが、アフリカ、アラブ、アジアではまさに天啓のように歓迎された。人々はトウガラシを大量に使い、インド洋や太平洋の島々の住民もこれにならった。十六世紀にはあまりにも急激に普及したために、・・・》と中米産起源説を紹介している。

現在韓国で使われているとうがらしの起源が中米でなく朝鮮自生のものであることが生物学的に証明されたら、秀吉持ち込み説なんてかすんでしまうビッグニュースではないか。韓国の生物学者に国威発揚?のためにも頑張っていただきたいものである。明日「朝鮮の料理書」を先生にお見せする時に少し挑発してみよう。



春節祭の後は本屋へ

2009-01-29 20:14:39 | 読書
陽気に誘われてお昼前に家を出た。ブラブラと歩いているうちに元町で春節祭を催していることを思い出して南京街に向かった。ついでに用事も思い出したからである。3時から出し物があるとのことだったが、それには1時間以上もあるので見物は諦めて用を足すことだけにした。



最近妻が南京街で買ってきた中国茶が、これまでは500グラムが2100円だったのに、300グラムが2100円になり味も変わっていたので、その変わった理由を聞いてみようと思ったのである。ところがお茶屋さんの手前にある漢方薬局の前を通りかかってあれっと思った。確かにその中国茶が300グラム2100円で売られているのだが、いつも買う店ではないのである。そこで二三軒先のお茶屋さんに行くといつも買う銘柄の中国茶が500グラムが2100円で並んでいる。妻が買う店を間違えたのである。いわば隣同士のような店で同じ銘柄の中国茶でありながら、品質も値段も違うのを目の当たりにして驚いた。薬局の中国茶の方がなにか良いのだろうか。今ある分を飲み終えるまでに結論がでればよいのだが・・・。

その足で元町の海文堂に向かい次の二冊を買った。塩野七生さんの本はその上巻を年の暮れに買ったので下巻が出るのは一年先かと思っていたら早くもお目見えである。せっつかれているようで大変大変である。もう一冊は寿命のことを生物学者がまともに論じていて面白そうな内容だったので手を出した。最近園芸をはじめて一年草とか多年草とかにお目にかかりその名前の意味することを生物学的に理解したいと思っていたら、ちゃんと説明が出ているのがよかった。

そして因縁好みの私を喜ばせることがあった。今日は1月29日なのにこの二冊とも奥付きの出版日が明日の2009年1月30日となっていたのである。こう言う偶然の一致が私には何か意味ありげに感じられるのである。






KEN FOLLETTの「WORLD WITHOUT END」を半額で

2009-01-27 20:57:14 | 読書

思いがけず「ボヘミアン」の次男と梅田のヨドバシで待ち合わせることになった。用事を済ませてから10日ほど前に訪れたばかりの伊達屋でタンシチュー定食をご馳走した。この息子は以前ハリー・ポッターで獲らぬ狸の皮算用で登場させたが不遇のゲイジツカなのである。身過ぎ世過ぎもままならない日々を、自ら湧き上がってくる衝動にかき立てられて創作に励むとは感心なことと思わぬではないが、日々の糧を切らしてはいないだろうかと気がかりなものである。親としては作品が第三者の共感を呼び、願わくは生計の途につながればと念じるのみなのである。その息子にちょっと嬉しい話があったことを今日聞かされた。

日本で資本金ベスト20にはいる大会社の会社案内冊子を息子のイラストが飾っているのである。50ページあまりの冊子を手に取ると、表紙裏表紙続きの一枚絵に加えて、イメージキャラクターがあちらこちらに顔を出してなかなか良い雰囲気を作り上げている。会社のイメージアップに寄与していることは疑いなかろう。こういう形で第三者に評価されたことが機縁になって、この不況にもかかわらず新しい仕事が持ち込まれるようになって欲しいものである。(親ばかの巻はおわり)

その足でジュンク堂の梅田ヒルトンプラザ店に向かう。昨年11月15日に5階6階を占めるようになってから初めてであるが、確かに品揃えもよくなっている。これならわざわざ堂島の大阪本店まで行かなくてもたいていの用は足せそうである。その洋書売り場で目に入る品物が皆半額になっている。そこでKen Follettの新作「World Without End」のハードカバーを見つけた。2000円ちょっとでペーパーバックの倍の値段になるが、ゆったりとした気分で読んでみようかとこれに手をだした。Ken Follettも私の好きな作家で、ほとんどペーパーバックで読んでいる。「大聖堂」だけは新潮文庫で読んだが、これが12世紀のイングランドを舞台に建築職人トムが大聖堂を復活させていく物語であったのに対して、「World Without End」はそれから2世紀後の同じ町が舞台になっての大歴史絵巻だとのこと。1000ページを超える大冊だが引きずり込まれそうな予感がする。何週間後になるか分からないけれど、読み終わったと大いばりで報告したいものである。

山本一力著「道三堀のさくら」 江戸の水事情

2009-01-21 16:13:20 | 読書

山本一力さんの時代小説はもともと好きなんだけれど、さらに文庫本に縄田一男さんの解説が付いていたら儲けものをした気になる。縄田さんの感性と作品に対する眼力に触れるのが楽しいのである。その縄田さんの解説を借用すると「道三堀のさくら」の支えになっているのが次のような江戸の町人の暮らしなのである。

《本書の主人公である龍太郎の職業は「水売り」。一〇〇万人都市江戸はベニスと並ぶ水の都でもあったが、こと飲料水となると、どんな水でもいいというわけにはいかない。山本さんが多くの作品の舞台にしている深川は埋め立て地であり、井戸水にはどうしても海水が入ってきて飲みにくい。従って口に入れる水はどうしても買わなければならない。そのために「水売り」という職業が必要なわけだが、「水売り」たちは、道三堀に架かる銭瓶橋と一石橋のたもとから流れる水道の余り水を樽にため、水船で運んで、主に飲料水のない待ちの人々や料理屋に売ることになる。》

《主人公である龍太郎の元締め虎吉の、金儲けではない、水売りを人の暮らしを支える稼業とわきまえる覚悟のほどが綴られる。それは、降っても晴れても、そして天気や季節にもかかわりなく、一年同じ水を売り続ける、と心に決めた男の見事生での肚のくくり方である。》

龍太郎は水船を船着き場につけると、水船の水槽から水桶二つに汲み入れ、これを天秤棒の前後に担ぎ得意先まで運ぶ。前後の桶で一荷、水で満たすと50キロ近くなる。それを毎日百回往き来するのだから骨身にこたえる。

水売りから買った水を長屋の連中は始末して使った。洗い物などには井戸水を使い、買った水は飲み水と料理用に使った。どれほど貧しい家にも一荷入りの水がめがあり、数日おきに水を買った。というのも夏場なら二日、冬場でも四日しかもたないからである。使い残したとしても日が経つと水が傷んだ。急場の折は川の水を煮沸して使うとか、水の中のゴミを白木綿の水こしで除くなど、江戸時代の庶民は自分の五感で判断するという智恵に加えて数々の工夫を凝らしていたのである。

私はここしばらく伊藤ハム「シアン問題」に関連して水の問題を考えてきたが、一つはっきりしたことは、東京工場で井戸水を汲み上げてそのまま使っておれば今回の問題は起きるはずもなかったと言うことである。汲み上げた井戸水にわざわざ塩素を含んだ薬剤を加え、そのために値の張る分析装置を使い余計な費用をかけて水質を検査する、挙げ句の果てにもともと井戸水にはなかったシアンを分析の過程で作り出し(もしくは混入させ)、役所が暇つぶし?に作った規制に見かけ上引っかかったと言うだけで大騒ぎをしては貴重な食品を無駄にしてしまう。このような現代文明がもたらした愚行を目の当たりにしたばかりだったので、この小説に出てくる江戸時代の水事情の話がとても面白かった。

もちろん龍太郎とおあきの恋物語も大切な筋書きである。二人の結婚に機は十分に熟していたのに、おあきが簡単に心変わりをしてしまう。それを傍から眺めている龍太郎にはおあきの片思いであることがみえみえであるだけに、余計にやるせない。龍太郎は天職と信じる水売り商売に精を出すことで気持ちを整理できたが、話がどう展開するのか、「道三堀のさくら」に聞かないと分からない。耐える男の健気さが爽やかな読後感を残す。



源氏物語千年紀と大塚ひかり全訳「源氏物語」

2008-12-25 22:49:48 | 読書
今年も残り一週間を切った。この一年、源氏物語が一千年を迎えたとかで京都を中心にいろんな行事が催されたようである。私が嗜んでいる一弦琴にも源氏物語にゆかりのある「明石」という曲があり、私の演奏を公開しているので、興味を持たれる方はお立ち寄りあれ。

真鍋豊平が箏曲から採譜して一弦琴の演奏に仕立てたのである。身辺に不穏な動きを感じて自ら須磨に身を逃れたものの、光源氏はわび住まいに落ち着くことも出来ず、母方の縁者である明石入道の誘いに従って移った明石で明石の君と契る。やがて懐妊した明石の君を残してひとり都に戻るが、その間の光源氏の心情をうたっている。

ところで源氏物語が一千年を迎えたと言われても、作品の成立時期すら分からないのにどのようにして年月を数えたのか疑問に思っていた。すると源氏物語千年紀委員会のホームページで《2008年(平成20年)は、源氏物語が記録のうえで確認されるときからちょうど一千年を迎えます。(紫式部日記の寛弘5年(1008年)11月1日の条には、「若紫」や「源氏」などの記述があり、この時点で源氏物語が読まれていたことが確認できます。)》と出ていたので、なるほど、とそれなりに納得した。

日本古典文学全集「和泉式部日記・紫式部日記・更級日記・讃岐典侍日記」(小学館刊)で調べてみると、確かに紫式部日記御五十日の祝い―十一月一日の項にその行がある。

   左衛門の督、「あなかしこ、このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」
   と、うかがひたまふ。源氏にかかるべき人も見えたまはぬに、かのうへは、
   まいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。(201ページ)

(訳)左衛門の督(かみ)が、「失礼ですが、このあたりに若紫はおいででしょうか」
   と、几帳の間からおのぞきになる。源氏物語にかかわりありそうなほどのお方も
   お見えにならないのに、ましてあの紫の上などがどうしてここにいらっしゃる
   ものですか、と思って、聞き流していた。

紫式部日記は寛弘5年(1008年)から三年間のことが記されており、初出の月日が七月十九日でその続きの十一月一日のことだから、この日(もちろん旧暦である)にすくなくとも源氏なる文言が出ていることは間違いなさそうである。それにしてもこのような記述を見つけて、それを源氏物語千年紀という発想につなげるなんて、知恵者はいるものである。

その千年紀にかこつけてであろうか源氏物語関連の出版物もよく目についた。書店によっては源氏物語コーナーを設けているところもある。そして最近私の目を引いたのが大塚ひかり全訳「源氏物語」(ちくま文庫)で、1桐壷~賢木、2花散里~少女の二冊がすでに刊行されていて、六冊で完結のようである。何が目を引いたかというとその帯の宣伝文句である。第一巻の帯は紛失してしまったが第二巻の帯の文言と似たようなものではなかったか。源氏物語は日本が世界に誇る文化遺産、古典文学であると奉っておけば波風は立たないが、一方ではエロ文学の極致との風評もあり、大塚ひかり訳はどうもこの路線にあるようなので好奇心がそそられたのである。



この文庫本では現代語訳が一区切りしたところで「ひかりナビ」と称する解説文の続くのが特徴になっている。たとえば桐壷の冒頭に続く「ひかりナビ」では、《女は、ミカドの「寵愛ゆえに」、他の女御・更衣ににらまれる。当然です。ミカドの子を生んでなんぼ、愛されてなんぼ、いわば「セックス政治」が行われていた当時、「性愛」のもつ意味はとてつもなく重いからです。》などの説明が出てくる。しかし現代訳はあからさまに表現しない原文の持ち味を生かしたものになっている。内容はエロいのかもしれないが、言葉に振り回されることはなかろう。

(原)源氏の君は、御あたり去りたまはぬを、ましてしげく渡らせたまふ御方は、
   え恥ぢあへたまはず。いづれの御方も、我人に劣らむと思いたるやにはある。
   とりどりにいとめでたけれど、うち大人びたまへるに、いと若ううつくしげ
   にて、せちに隠れたまへど、おのづから漏り見たてまつる。

(訳)"源氏の君”は、ミカドのおそばを離れることはないので、ミカドがたまに
   お通いのお妃はもちろん、ましてしげしげとお通いになるお妃は、君に対し
   て恥じらってばかりもいられません。いずれのお方も、自分が人に劣ってい
   ようと思うはずはありません。それぞれにとてもお綺麗なのですが、いささか
   お年を召している中で、この藤壺はとても若くて愛らしく、一生懸命、
   源氏の君からかくれるものの、君はしぜんとお姿をかいま見てしまいます。

瀬戸内寂聴さんの現代訳をややくだいたような感じできわめて素直である。これなら「ひかりナビ」を楽しみながら一週間に一帖進めば、ほぼ一年間で全五十四帖を読み上げることが出来そうである。ちなみに大塚ひかりさんは女性である。

ところがクリスマスプレゼントではないが昨日届けられた源氏物語は一風変わっていた。上の部分を次のように訳しているのである。

   源氏の君が帝のまわりから離れないことを しょっ中 帝の寝所に通い
   Hしに行く女御・更衣はなおさら恥ずかしがってはいられない
   どの女御・更衣も 私は他の人に劣っているのでは などと思っている
   だろうか それはないだろう 女御・更衣それぞれに 大変すばらし
   かったが いい加減老けて大人になっているところに すごく若く
   かわいげで しきりと 素肌を見せないようにしているが 自然と
   漏れてくるものを見る(父と藤壺の性行為も自然と漏れてくるものを
   見る)

確かにその通りなのだろうが「Hしに行く」とまで書いては身も蓋もない。幼児が「うんこおしっこ」と大声をあげているようなものである。また源氏の君が桐壷帝から離れずに御簾のなかまで入っていくのだから、几帳のはずれや隙間からなにかが漏れ出ても不思議ではない。その気になれば「漏り見たてまつる」がああにもこうにも読み取れるのである。これはこれで面白いが、好みに合う人も合わない人もいるだろう。

実はこれはマンガ本で、必然的に絵が(私の感覚では)きわめて過激なのである。想像力の欠如した人間の増えている世相を反映してか、言葉がより直截かつ明確になる分、ますます想像力の出番を奪ってしまう、そういう作品である。あるマンガ作者が大塚ひかりさんと文庫本に付いてくる「源氏物語新聞」上で対談しており、それに触発されてこの作者のマンガ本を取り寄せたが、少々の想像力が残っておりそうな私にはそこまで描いていただかなくても、の代物であった。ふとこれを種本にした生徒に解釈のぜひを問われて立ち往生する国語の教師を想像してしまった。挑発の片棒を担ぎたくないので表紙の一部だけをお目にかけるが、ぜひにと仰る方は自力で見つけ出していただきたい。



お口直しには次の源氏物語絵詞がよい。




石川英輔著「2050年は江戸時代」をお勧め

2008-12-17 14:25:40 | 読書

12月5日の記事ビッグ3も日本の自動車産業もしょせんは虚業?で《これから数十年先、日本の総人口が6千500万人になった頃の車の使われ方を描いた物語が手元にあるある。『虚業』の行く末を暗示しているようでなかなか示唆に富んでいる。また折りがあれば紹介しようかと思う》と書いたまま忘れていたのを思い出してので、ここで紹介する。石川英輔著「2050年は江戸時代」である。この本の奥付には「1995年1月27日 第一版第一冊発行」とあるから出版はかれこれ14年前になる。その後1998年に講談社文庫から出ているが、もう多分書店では見つけられないだろうから、興味を持たれたとしても図書館か古本屋で見ていただくことになりそうである。

目次の最初が「税金のない村」で、何故税金がないのかが次の話で分かる。

《何万台あるのか、正確な数は今となっては誰にもわからないが、古い自動車とエンジンが、この涸谷(かれだに)の大部分を埋め尽くしている。金属、中でもアルミニウムは非常に貴重な資源なので、最近では、アルミ部分の多い古エンジンを月に二十個も売れば村の経費がまかなえるため、五年前から、この桃園村では村税がなくなった。また、古タイヤは石油の原料になるので、必要に応じて業者に渡して石油と交換している。》

何故このように古い自動車などが蓄えられていたのかは本を読めばわかるが、時代はすでに明治維新、昭和敗戦を遙か以前に通り越え大刷新に突入しているのである。「便利な生活、いのち取り・・・・・田畑を耕し、生き残れ」がこの時代に入りがけの頃の囃子言葉だったそうだが、昭和敗戦前に私たち世代が唱えていた「欲しがりません勝つまでは」のようなものであろう。

この時代の若者が大刷新に入る前の東京時代の生活を村の古老から教わるという仕掛けになっていて、今の時代の文明批判が次から次へと出てきて、それが面白い。その話を聞いた人の感想もまじわるが、私の気に入ったところを少々長くなるが引用させていただく。

《今と違って、新聞は毎日来たし、ケーブルテレビというものがあって、何時でも何十もの番組を放映していたから、断片的なことはいくらでもわかった。ところが、この当時、新聞やテレビ番組を作っていた人は、はじめから頭の中に結論を持っていて、それに合った社会現象だけを報道するという実に奇妙な性癖があったから、本当は何が起きていたのかよくわからないのだ。》(64ページ)

《東京時代の繁栄を支えたのは、みんなが揃って同じようにきちんと働ける均質の国民性だったが、工業が発展してある段階に達すると、今度は、その国民性が工業の進歩にブレーキをかけてしまったのだな。(中略)この世では、一方的に良いだけのことはない。あらゆることがあらゆることと複雑に関連し合っているから、その一部だけを取り出して、人間のつごうだけに合わせて突出させれば、いずれはどこかにしわ寄せがきてひどい目に遭うことがわかったのが、東京時代の大きな収穫だった。》(129ページ)

《東京時代の最盛期だった1980年代に、当時の農林水産省が発表したデータによれば、日本人一人に対する一日当たりの食料供給量は、約二、六00キロカロリーだったのに対して、食料摂取量は約二、一五0キロカロリーだった。その差四五0キロカロリー分は、どうやら残飯として捨てていたらしい。四五0キロカロリーを当時の人口の一億二千万倍し、さらに三六五倍すると、ざっと二0兆キロカロリーというとてつもない数字になる。この食品熱量を米に換算すれば、約五五0万トン。三千万人以上の人が一年間食べられる量を、毎年捨てていたことになる。》(143ページ)

《われわれ漢民族にとって、親孝行は絶対です。もちろん、誰でもちゃんと親孝行が出来るとは限らないけれど、その場合は自責の気持ちが強いし、少なくとも、誰かに親孝行の代わりをして貰うのが良いことだとは思いません。ところがアチラ病とクニガ病を併発すれば、親孝行は封建的で愚かな行為だ。子供は、親に頼んで産んでもらったわけではないから、権利義務の関係はなく、老人の面倒は国がみるべきだ、といい始めます。もちろん、それはそれで十分説得力はあります。ところが国家事業の経済効率はむちゃくちゃに悪いから、子供が親孝行をする代わりに、国が老人の世話をするようになれば、底なし沼に落ちたように、際限なしに国家予算が膨張します。いずれは・・・・・》(186ページ)

ここに出てくるアチラ病とは《自分の国に自信がなくなると見境無しに外国崇拝をして、外国の欠点までが長所に見えるようになる病気》、またクニガ病とは《何でも国がやれ、国がやるのが進歩だといっているうちに、行政がやたらと肥大して複雑になり、規制だらけになって、身動きが取れなくなってしま》う病のことである。

《官庁といっても、別に超能力があるわけじゃなくて、要するに、税金を集めて目的別にばらまく権限があるだけのことでしょう。ところが、十年も続けて税収ががた落ちで、予算の縮小が続いているし、今の落ち目の貧乏国の日本じゃ、国債なんて発行しても引き受けてはどこにまいないし、お金のないところに権限もない。予算をつけられない官庁なんて、こわくも何ともないから、誰もいうことをきかないというわかだよ。》(227ページ)

《みんなでせっせと働いて、良い品物を売って世界から金を集め、その金で石油を買って電気を起こし、世界中から資源や食べ物を買ってぬくぬくとやっていたのに、どこかの歯車が一つ狂えば、全部ががたがたになってしまうのだな。》(228ページ)

医者までがこういうことをいい始める。《私が医大で教育を受けた偉い先生たちが、次々に現れる新しい病気を相手に苦労しておられたのに、私の世代の医者なら、そういう病気の患者さんを診る機会があったのは、駆け出し医者だった頃だけで、最近では、次から次へと新種の病気が現れることはありません。今は、病気の種類がかなり減少傾向にあって、単純化しています。》(246ページ)

《工業社会では、いくら働いたところで会社は他人のもので、退職すればおしまいだ。大刷新後の農業社会では、大刷新の嵐の中で、東京時代のような西洋式の社会保障は消し飛んでしまったが、働けば収穫の九十%はじぶんのものになる。しかも、それだけではなくて、自分の田畑をせっせと手入れして土を肥やせば、結果として来年から収穫が増えるのだから、張り合いがまるで違う。》(250ページ)

政治も変わった。村の長老が決めるのである。《上から天下ってきた民主主義と、昔ながらの民主主義のどちらが村に合っているのかわからないが、とにかく、桃園村では、政府の締め付けがゆるむと、いつの間にか古いやり方に戻ってしまった。》(252ページ)

この古老とは昭和敗戦時には十代で私よりは数年上だろうか。そういえば著者の石川さんも昭和八年生まれで天皇さんと同い年である。石川さんは印刷会社で技術者として、また経営者として勤められる傍ら、江戸時代についての造詣が深くてその浩瀚な学識にもとづいた江戸時代の社会生活に関する著書も多い。私は小説「大江戸神仙伝」以来のお付き合いであるが、これが現代と江戸時代にそれぞれぞくっとするような女性を妻として時空を超えて往き来する製薬会社勤めの男の物語だから、これはこれでこたえられない。それはともかく、今から14前に今われわれが直面している世界の混乱の根源をすでに見抜かれていたとは恐れ入る。健全な常識の大切さを心得ておられる方にぜひ一読をお勧めする次第である。

井形慶子著「少ないお金で夢がかなうイギリス小さな家」を読んで

2008-10-03 18:11:30 | 読書

刊行されたばかりの新潮文庫の中にこの本があった。この著者による5冊目の文庫本であるが、買ったのはこれが初めてである。「イギリス小さな家」に引かれたのである。

著者は「おわりに 小さな空間を大切にすると上質な暮らしが手に入る」で次のように述べている。《イギリスに行くたび、貴族の館や立派なカントリーハウスより小さな家に憧れ続けてきました。そんな私がイギリスの一般労働者の住宅の平均延床面積が、わずか五十㎡(約十五坪)以下であると聞いたのは、つい最近のことでした。その時、自分の憧れ続けてきた小さな家の中に、イギリス人が考える豊かさの本質があるのではないかという思いを強く持ったのです》。

日本では不動産として土地の価値に重きを置くが、イギリス人は家に価値を見出す。なぜそのような価値観の違いが生じるのか、それを著者がこの本の中で追求しているので、なかなか読み応えがある。イギリス人が住まいに「くつろぎ」と「上質」を求めるとはどういうことなのか。たとえばリビングルームでは《そこには座り心地のいい椅子やソファが不規則に置かれていたのです。一見ごちゃごちゃとテーブルや椅子がひしめく小さいけれどホッとする空間で、人々はたわいもないおしゃべりをして、自分たちを人間関係のストレスから解放していました。》と云うことになる。著者はこれを「ホームリー」とも表現している。

そのためにはだだっ広い場所は必要でない。そういえば私が泊まったピンからキリまでのB&Bの部屋は、わが家の部屋と比べても広いという感じはしなかった。「ハズリットホテル」でもそうであったし、また私の手元にある「Living in London」(著者の云う「コーヒテーブルブック」)という本にもいくつもの落ち着きのある部屋が紹介されているが、部屋のサイズをテーブルの大きさと比べるとさほど広くないことがよく分かる。日本流に云うと6畳から8畳で、せいぜい広くても10畳ぐらいではなかろうか。




著者はリビングに大人が横になれるような大きくて柔らかいソファを置くことが上質な部屋作りのポイント云っている。さらにリビングには本がなくてはならないとも。実は私が隠宅を作るに当たりポイントとしたことがこの二点で、ぴったり一致しているのが面白い。これから家を作ろうとする人、とくに老後の生活に入る世代の人々がこの本に目を通されるといろんなヒントがあるのではと思う。

この本の主題とはすこし離れるが、私がもっとも感銘を受けたのはイギリスで多い20代の住宅購入者のことであった。著者はロンドンの不動産会社社長の言葉をこう伝える。

《「成人したイギリスの若者が最優先で成し遂げることは二つある。一つは仕事を探すこと。そしてもう一つが自分の家を買うことだ。イギリスでは親が子どもに家も含めた資産を残そうとしないため、子どもたちは自力で住まいを手に入れるんです」》。そしてこう続ける。

《イギリスでは、かっては五%前後だった大学進学率が今では四十五%に上昇しています。そして、自らが借金して大学を卒業し、就職後、返済していく若者の平均借入額は五千九百ポンド(約百十八万円)にものぼるのです。
 二十代という若さで、けっして高くない給料の中から学資を返済しながら家を買って住宅ローンまで背負っていくイギリスの若者たち。彼らがフリーターにならず正規の仕事に就こうとする動機はここにありました。》

親の過保護が日本の若者をスポイルしたと云われているようである。