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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

「オール読物」表紙の誇大表示に騙されて

2008-09-06 14:35:51 | 読書
第139回の芥川賞・直木賞は共に女性が受賞した。芥川賞受賞作品が掲載される月刊誌「文藝春秋」は二回に一度は買うが、直木賞作品の掲載される「オール読物」はこれまで手を出すことがなかった。ところが今回の受賞者の井上荒野さんが共産党員作家井上光晴さんの娘であるのが私の目を惹いた。同じく共産党員の娘、米原万里さんの作品を私は好きだったのに、彼女が亡くなってしまった今期待できそうなその後継ぎかもという、私にしか分からない理由でその受賞作の載っている「オール読物」を購入したのである。

雑誌のそのページを開いた時にドキッとした。



上の写真のようにタイトル「切羽へ」の後に(抄)の文字が入っている。ということは抜き書きということになる。急いで物語の最後にページに行ってみると、次のような断りがあった。間違いなく受賞作品の部分掲載なのである。



ところが「オール読物」の表紙は下の写真のように(抄)の文字は入っていない。これでは井上荒野『切羽へ』が丸ごと掲載されていると受け取るのが普通であろう。表紙は明らかに誇大表示である。「文藝春秋」の芥川賞の方は表紙に【受賞作全文掲載】と書いているのだから、「オール読物」もそれにならって【受賞作前半全文掲載】と表示するのが筋と言うものだ。



単行本を買わずに雑誌で安くあげようとして騙された私が悪いのだと思いながら読んだ「切羽へ」は、井上荒野さんには申し訳ないがただの女と男のにらみ合いの物語に終わってしまった。

福田和也著「昭和天皇」はゴシップの宝庫

2008-09-05 15:54:56 | 読書

福田和也さんが「昭和天皇」を「文藝春秋」に連載し始めてから時々のぞき見していて、早く単行本で出ないかなと待ちわびていたところ、その第一部と第二部が同時に発行されたので、さっそく飛びついた。

面白い。しかし読み進んでいくうちに、読むスピードを落とし始めた。あまり面白いので早く読み終わるのが惜しくなったからである。少しずつ読む。その少しずつの間にも必ずゴシップが一つ二つ顔を出す。それが面白くてたまらないのである。

たとえば戦時中、御文庫と名づけられた地上一階地下二階の防空建築が昭和天皇の住居にもなったが、その執務室の描写がある。

《机の背後に、飾り台がおかれていて、上下二段に、二つの胸像が置かれていた。(中略)上段にリンカーン、下段にダーゥインが飾ってあったのだ。》

昭和天皇の書斎にダーゥイン、リンカーン、ナポレオンの胸像が並んで飾られていたことはHerbert P. Bixの「Hirohito and the Making of Modern Japan」にも記されているが、それは1927年の頃の話としてである。ところが戦時中もリンカーの胸像が飾られていたという。福田氏はこう続ける。

《 毎夜、米軍の爆撃に遭い、地下壕に隠れるという生活をしながら、なんとか頽勢を立て直すことはできないか、と戦争指導に懊悩していた天皇が、敬慕の対象としていたのは、敵国の大統領だったのだ。》

《 ルーズベルトが、執務室の机に、ガダルカナルの米兵から送られた、日本兵の髑髏を置いていたことはよく知られている。写真も残っている。
 昭和天皇のリンカーンには、それと比較にならない凄みを感じざるをえない。》

このような話―私がいうところのゴシップ―が次から次へと出てくる。まさにゴシップの宝庫で、稀代の逸話・ゴシップ集である薄田泣菫の「茶話」を連想したくらいである。しかしこのゴシップを通して昭和天皇の深層を解きほぐす筆力の冴えは福田氏独自のものである。ほんとうはゴシップを全部紹介したいのだが、それでは福田氏に申し訳がないので、興味を持たれた方には著書をご覧いただくとして、もう一つだけ紹介させていただく。

「宮中某重大事件」という章がある。云うまでもなく東宮裕仁親王(後の昭和天皇)の皇太子妃に内定していた九邇宮良子女王(香淳皇后)の色盲遺伝子をめぐる宮廷での争いである。それはともかく、大正七年東宮妃に内定した時点で良子女王は学習院女学部を退学し、御学問所で皇太子妃になるための厳しい教育がなされた。大正天皇の皇后(貞明皇后)の意志があったとされている。貞明皇后は婚礼後にはじめて皇太子妃として教育を受けたが、教育役の老女にかなりしごかれ日々泣かされたとのことである。なんせこの老女は《御所をさがって京都に戻った後、四条通を横断するとあまりの威厳に市電が思わず停車した、という伝説が残されている猛女である。》その自分と同じ愁いを、嫁にさせたくないという配慮があったのかも知れないと著者は記している。ご成婚は大正十三年、名実共に日の御子に相応しい皇太子妃の誕生であった。皇太子妃教育が始まって六年後のことである。

献身的で誠実な多くの教育係に育まれた良子女王の場合とくらべて、今の皇太子妃雅子妃殿下のありようを漏れ聞く限り、その皇太子妃教育はひょっとしてお座なりのようなものだったのではないかと思い、お可哀相な気がしてしまった。

第二部も余すところ半分を切った。


梅田でぶらぶら その一、阪急古書のまちで

2008-08-10 16:55:51 | 読書
阪急梅田では茶屋町口から外に出て阪急古書のまちに向かった。神田の古書街とは比べものにならないが、特色のある古書店が十軒以上ビルの一郭を占めている。その品揃えの豊かなことは古書目録を見ればよく分かる。何軒めにか入った杉本梁江堂で珍しい本を見つけた。理学士田邊尚雄著「増補第二版 最近科学上より見たる音楽の原理」で、奥付には大正八年六月十八日増補第二版発行とあり、発行所は昔懐かしい内田老鶴圃である。



以前私が触れた吉川英史著「日本音楽の歴史」の巻頭に「謹んで本書を 恩師 田辺尚雄先生に捧げ 亡父 吉川友之助の霊前に供える」との献辞がある。また序には「日本音楽史を初めて学校で講義されたのは田辺尚雄先生で、大正十二年國學院大學で開講されたが、東京大学での開講は昭和五年である。その時の聴講学生の一人であった私は、田辺先生の停年ご退職の後を受けて昭和二十一年四月から母校東大で日本音楽史を講じたのを振り出しに、東京音楽学校・お茶の水大学・東京芸術大学・NHK邦楽技能育成会などで講義してきた」とある。その田邊尚雄氏がなんと理学士で、著書の冒頭に理学博士長岡半太郎先生などへと感謝の言葉があるのには驚いた。五百ページを超える大著であるが、後半の「音響の音楽的関係―音階」には支那の音階、日本の音階、西洋の音階が詳しく述べられている。この辺りの知識が私には欠けているので、温故知新を実践せんものと、発行当時の千五百倍の値札をもものとせず手中に収めた。

これが縁というのか、次に入った書砦梁山泊でふたたび田邊尚雄氏の著書「改訂版 日本音楽講話」(岩波書店)を見つけた。この本の序に姉妹書として私が今買ったばかりの「最近科学上より見たる音楽の原理」を次のように紹介している。「之は一般に広く音響学及び心理学等の上から、東洋西洋の音楽の組立を研究した書であるが、此の中には日本音楽及び支那音楽の楽律音階の研究が多く記載してある。此の方面の記述は、本書に頗る欠けて居るから、音律のことを知りたいと望む方は、右の書を参考されんことを望む。」

となると「改訂版 日本音楽講話」も手元に置かずばなるまい、ということになった。



この本の初版は大正八年に同じく岩波書店から発行された。しかし大正十二年九月一日の関東大震災で紙型全部を全焼し絶版になったとのことである。それを大幅に改訂した改訂版として大正十五年に刊行されたのである。しかし私が手に入れたのは本としてはそんなに古くない。外箱の裏には定価8200円と記されている七百ページあまりの大冊である。なんだかちぐはぐだが奥付を見て疑問が氷解した。



第一刷が発行されたのは1926年11月15日、大正天皇崩御を目前にした大正十五年のことなのに、私が手にした第二刷本はそれより七十年経った1995年9月13日に発行されている。七十年前の紙型をそのまま使ったのであろう、印刷内容は大正のままでもちろん旧字旧仮名遣いなのである。覆刻本なら珍しくはないが、これがもし私が想像するように初期の紙型を使っての再刷であるのなら、出版史上注目される出来事であったのではなかろうか。この辺の事情はともかく、パラパラッとめくっているとなかなか刺激的な挿絵が目を引いた。



下の説明に「第一図 婦人の謡曲を罵倒せる漫画」とあって、本文の「私も所々で女子の謡を聞かされたが、耳を傾けるに足るべきものは、日本国中未だ一回も聞いたことがない」とタイアップしているのである。しかしご婦人たるものこれに柳眉を逆立ててはならない。「平安朝及び今日の西洋には、胸から出す声といふことはあるが、謡曲のように腹から出す声といふ言葉はない。その声の出し方は多少不自然である。平安朝音楽の声の出し方の方が自然であって、しかも一層精錬されている。しかしそのために謡曲の声の出し方を批難するのではない。唯かかる東夷流の武威一点張りの声を、本来優美なるべき女子が之を真似て、而も到底その妙に達せず、苦しまぎれに叫んでいるのを聞くと実に不快に堪えない。それのみならず実に勿体ない話である」、と筋道を立てて説かれているので自然と頷くことであろう。

「此の書は日本音楽に関する種々の事柄を了解せしめ、以て日本の従来の音楽に就いて正しい知識を得せしめ、従って一層面白く之を味はしむるに至らしめようとするのが目的である。」の一文でこの本が始まる。読み進めるのが大いに楽しみになってきた。私のこの古めかしい文体のブラッシュアップにもなりそうである。

古書のまちでたっぷり時間を過ごし、腹ごしらえのあとはヨドバシに直行した。


古本市で掘り出し物 富士川遊博士の著書

2008-08-03 20:01:33 | 読書
先週の金曜日(8月1日)、散髪の帰りに三宮に出たところ、7月31日から8月5日まで開かれている「さんちか古書大即売会」に出くわして、東洋文庫六冊に単行本二冊を仕入れることになった。

東洋文庫(平凡社)がかなり沢山出品されていたが、その中に私がかねてから探していた富士川遊著「日本医学史綱要1、2」と「日本疾病史」の三冊を同時に見つけたのである。前者は昭和四十九年の刊行で共に七百円、また後者は昭和四十四年の刊行で四百五十円、この原価とほぼ同じ値札がつけられていたので迷うことなく手を出した。この三冊とも現在は東洋文庫で品切れになっており、「日本医学史綱要1、2」のみはワイド版、それもオンデマンド版で入手可能、ただし二冊で六千三百円になる。



私がかって川喜田愛郎著「近代医学の史的基盤上、下」を繙いた時、西洋の医学史もさることながら、いつか日本の医学史も一通り見渡したいと思っていたがなかなか時間の余裕がなかった。この川喜田愛郎氏が佐々木力氏との共著「医学史と数学史の対話 試練の中の科学と医学」(中公新書)のなかで次のように語っておられた。




《日本の医学史界で言えば、富士川遊先生という明治の終わり頃から昭和の初めまで活動された巨匠がおられました。(中略)遊先生は広島の医学校を出られた方で、『中外医事新報』という医学雑誌の編集を長くやっておられたいわば在野の学者ですが、イエナに行って内科学のかたわら、当時のドイツ史学の研究水準をも見てこられ、そして『日本医学史』という大著を1904年(明治三十七年)に公刊されました。それは莫大な史料を収集し、発掘して、たしかな史眼で叙述した、文字どおり前人未踏の大業績です。(中略)富士川には『日本疾病史』のような名著もあります。》余談ながら私は川喜田愛郎氏と不思議なご縁があり、氏が逝去の折は弔電を送らせていただいたことを思い出した。

そのようなことで富士川遊という名前を知ったのだろうと思うが、何らかのおりに東洋文庫に医学史の著書が収められているのを知った。しかしすでに入手が難しく古本屋でもなかなかお目にかかれなかった。それなのに「さんちか古書大即売会」で三冊まとめて手に入れることが出来たのである。

国史大事典によると富士川遊とはこのような方である。



明治三十七年に刊行された『日本医学史』は全体で千二百ページを超える大冊とのことで、その八年後の明治四十五年にこの著書に対して学士院賞恩賜賞が授与された。学士院賞の制度が始まって第二回目のことである。この大冊を著者自ら抜粋して『日本医学史綱要』を昭和八年に刊行したが、東洋文庫本はその覆刻本なのである。

一方『日本疾病史』は明治四十五年、恩賜賞を頂く直前にその上巻が刊行されたが、その後下巻は刊行されることなく、日本疫病史としてまとまっている上巻が『日本疾病史』として東洋文庫に覆刻されているのである。『日本疾病史』を開いてみて、この本と私がかって勤務していた京大医学部と深い関係のあることが分かった。

まず「日本疾病史序」を寄せているのが《明治四十四年十二月京都医科大学病理学教室ニ於テ識ス 医学博士 藤浪鑑》で、それによると富士川博士が明治四十二年五月から《京都帝国大学ノ聘ニ応ジテ日本医学史ヲ医科大学ニ講ズル》ために、週に一度東京から通われた旨の記述がある。今でいう非常勤講師として講義されたのだろうが、新幹線もない時代に何回ぐらい通われたのだろうか。その熱意のほどがうかがわれる。そして大正四年三月、京都帝国大学がこの著書に対して医学博士の学位を授けた。ちなみに大正三年七月には東京帝国大学が文学博士の学位を授与している。

富士川博士は古い医書の蒐集に莫大なエネルギーを注ぎ、浩瀚な著書を産んだ二万冊の和漢の古医書は現在富士川文庫として京都大学と慶應義塾大学の図書館に保管されているとのことである。インターネットも複写機もない時代に、すべて手作業でことを運ばねばならなかった時代の大仕事であった。その先人のご苦労に思いを馳せつつ、粛然とこれらの書に向かいたいと思っている。


「パイプのけむり」から溲瓶 

2008-07-31 18:47:49 | 読書
6月のブログ高齢者に医者離れのすすめのなかで立川昭二著「病と人間の文化史」、「いのちの文化史」(ともに新潮選書)の記事を引用させていただいたが、その立川さんの新しい著書を本屋で見つけた。タイトルは「年をとって、初めてわかること」(新潮選書)で、帯には「老い」の愉悦が喧伝されている。私はまだそういうことが分かる年齢ではないので、どんな愉悦が待ってくれているのか気になり本を買ってしまった。「老い」が基調にある文学作品の紹介にもなっており、私もまだ知らない作家、湯本香樹実さんの「夏の庭」や青山七恵さんの「ひとり日和」を読みたくなった。



斎藤茂吉の最後の歌集「つきかげ」の紹介は次のように始まる。《斎藤茂吉は老化にともなう頻尿症であった。六十五歳の彼が左手に「極楽」と名づけた溲瓶がわりのバケツを提げ、右手にこうもり傘を杖がわりにして、東京の家に帰りついたのは昭和二十二年十一月四日の朝のことであった。》この溲瓶という文字から私は作曲家の團伊久磨さんを連想してしまった。

團伊久磨さんは随筆家としても世に知られていた。週刊誌だったろうか、かって朝日新聞が出していた「アサヒグラフ」という雑誌に團さんが「パイプのけむり」という欄で随筆を連載しており、ある程度まとまったら単行本として出版されていた。團さんもこの執筆のために毎週木曜日と金曜日は机の前で時間を過ごすという力の入れ方で、世評も高く次々と「パイプのけむり」シリーズがが少しずつ表題を変えながら続刊された。そのかなりが今も私の書棚の一角を占めている。



團さんは言葉遣い文字遣いに一家言があり、その厳しさが魅力的であった。文章にえもいわれぬ味と気品があり、私も文章と人生の師として私淑したものである。そして私の人生を大きく変えたのが次の一文であった。まずその出だしを声を出して朗読すれば、簡にして要をえ、科学者のように正確に事柄を説明していることが実感できる。



なぜ文頭にあるように各室に溲瓶を具えることになったのかといえば、アメリカが月ロケットの打ち上げに成功したのがきっかけになっているのである。その箇所を少々長くなるが引用する。

《あの日、正確に言えば去年の7月31日の夜、僕はトイレットの中に蹲りながら、こうも原子力の開発が進み、今日はロケットさえもが月に届いたという現代において、人間が、いちいち尿意、もしくは糞意を催す度にトイレットに通うなどという、全く以て原始的な行為を続けていて良いものであるかどうかに、深く考えを致したのである。世間一般の人々は、一方では宇宙旅行を論じながら、他方、自分の行っている日常生活の中の愚行に気づかずに、昔ながらのトイレ通いを続けて平気であるようだが、どうもこれは可笑しい。よし、この際、月ロケットが月面に到着したことを記念して、小生は、本日只今より、小用のために厠に赴くという陋習を自宅においては全廃して、以後、随時随所、居ながらにして用を足すことに使用と決心をして、急遽、家人を薬屋に走らせ、計四個の溲瓶を入手、客間、居間、書斎、寝所の四室にそれを一つずつしつらえたのである。(中略)
この日以来、僕は溲瓶愛用者となり、文明生活を送っている。》、と理路整然に論を進める。

溲瓶の取り扱いにベテランとなった團さんは、教えたいことが山ほどあるが、と言いながら《上品な本書の紙面をこれ以上汚すのもなにかと思い、止めることにする。ただ書き物のために机に向かっている時と、掘り炬燵に客と対座している時に、トイレに立たなくて済む便利さは筆舌に尽くし難いということだけは御伝えしたく思う。》と気を配っておられる。

この文章を目にした当時、私は両親と同居しており、二階で寝起きしていた。ところが寝所から一部屋横切り階段を下り、さらに鍵型に廊下を伝いトイレに通うのは、とくに寒い季節は苦行であった。しかし團さんの一文が私に衝撃を与えた。私が急行した薬屋で手に入れたのはプラスティック製であったが、性能は陶器製、ガラス製に引けを取らなかった。しかし寝所で使うことだけはと、妻の懇願に負けて廊下に持ち出すことにした。まさにパラダイムシフトであった。10年前に陋屋を新たに構えた際には各階にトイレを作り、残念ながら溲瓶から遠ざかることになった。現在唯一の溲瓶は車のグローブボックスに収まっているMade in USAである。



これまでに一度だけ役立たせたことがある。渋滞にひっかかり二進も三進も行かなくなった時のことである。ナルゲン製できわめて頑丈、容量は1リットルで口も広くて安心して用を足せる。この時は車内に一週間も置き忘れていたが、その間液体は毫も変化せず全く透明のまま残っていたのにはなんて清浄なんだろうと感激した。今でも車内という限られた空間であるが、溲瓶を身近に置いている安堵感はなにものにも代え難い。ちなみに斎藤茂吉の「極楽」は山形県上山市の斎藤茂吉記念館に展示されているそうである。



「深海のイール」を読んで

2008-07-20 22:51:14 | 読書

お断り この本を読み終えた方、途中で諦めた方、または読む気のない方のみどうぞ。

私は海を舞台とした小説(釣りの話は除く)が好きなので、この本も書店で平積みにされているのを見てすぐに手を出しそうになった。しかし文庫本とはいえ上中下の三巻に分かれて総ページ数が1600ページを超える。終わりまで読み通せるかどうか分からないのでとりあえず上巻だけを買った。

私は鯨が可哀相と鯨に同情したことがあったが、この物語の中ではカナダ・バンクーバー島の沖合でホエール・ウオッチングの船を鯨が襲いかかり船は沈没し犠牲者も生じる。この異常な事件をはじめとして世界各地の海でいろんな異変が起き、それが高じて地球滅亡の危機が迫る。その異変を引き起こしているのが・・・・、ということで作者は今までにない新種の「エーリアン」を創造する。その正体のヒントがこの本の原名「Der Schwarm」(群れ)で、著者はドイツ、ケルン市生まれのフランク・シェッツィング。だからドイツ語からの翻訳であろう。

上巻は面白かった。悲劇の幕は既に切って落とされたのであるが、海洋の描写がたっぷりと出てくる。最近大阪天保山にある海遊館で二匹のジンベエザメをはじめいろんな種類の魚の群れが回遊する様子、また「海底」を動き回る生き物を見てきたばかりなので、海の中の描写に海遊館でのイメージをダブらせることが出来た。(ちなみにこのブログのProfileに示した「なまけもの」の写真は海遊館で撮ったものである。)そこで中、下巻も買ってしまった。しめて2400円也。

でも1600ページ超の物語は私には長すぎた。現役時代の論文書きでいかに冗長さを排するかに骨身を削ってきたものだから、私なら半分、いや4分の1に短縮するな、と考えたり、これを翻訳した北川和代さんてなんとパワーのある人だろうと感心したりした。それにこの「エーリアン」の本体を突き止めようとする登場人物の間で科学的な会話、とくに分子生物学的な話が交わされるのであるが、そうなるとなまじっか私も分子生物学をかじっていただけにもういけない。通常の科学論文なら読めば筋書きが一応見えてくるが、この物語はフィクションだからそうはいかない。「何を言っているんだろう」という疑問が随所で湧いてくる。「フィクションだから細かいことにとらわれずに読み飛ばせばいい」とは思いつつも、この科学用語はおかしい、使い方も変だなんて思うと、原文は一体どうなっていたんだろうと気になったりする。私にはサイエンスとフィクションを区別する能力が欠けているのだろう。

地球滅亡を回避するためにアメリカが主導して全世界からそれぞれの分野のエキスパートが呼び集められてプロジェクトチームが作られる。ところがそのチームの中で政治的野心を抱くあるリーダーを取り巻くグループが秘密めいた存在となる。科学的知識を土台とする物語の組み立ては良くできているのに、この秘密グループの存在を必然とする理由立てが説得力を欠くものだから、がぜん物語が作り物めいてきて興が削がれてしまった。ダン・ブラウン、マイクル・クライトンとの違いがこの点では際だっていた。ハリウッド映画化を意識してかと思ったら、どうもそのようで映画化が決定している、と「訳者あとがき」にあった。

この長い長い物語を読み終わって、私は物語そのものよりもこれを読み通す気力がこの私に健在であることに感動した。そういう意味では読み応えのある本であった。

明日7月21日の「海の日」を前に。

追記(7月21日) 異変をちょっぴり味わうにはFrank Schätzing - Der Schwarmを。しかし、行きはよいよい帰りは恐い。


老人におすすめ 近藤史恵著「賢者はベンチで思索する」(文春文庫)

2008-06-14 12:13:36 | 読書

文春文庫のこのタイトルを見て哲学者土屋賢二さんの新しい本かと一瞬思ったが名前が違う。私にはお初の著者で推理小説のようである。裏表紙を見るとファミレス常連の老人がある連続事件の解決に乗り出した、と紹介している。「老人」というのがいささか気がかりではあるが、私がかねてからなりたいとあこがれている素人探偵のようなので、いいお手本になるかもと思い、迷うことなく手を出してしまった。面白い。一気に読み上げた。

「老人」の年が分かった。七十二歳である。私よりすこしだけ若い。しかし正体不明。この老人と服飾関係の専門学校を出て目下フリーター、ファミレスでアルバイトをしている二十一歳の久美子が主人公である。話が三つに分かれていて、最初は公園に毒入り犬の餌がばらまかれ、被害を受ける犬が続出、それを解決する話で、二番目は久美子の勤めるファミレスで、食中毒とまでは至らないが客に出した料理に絡んでの事件が起きる。これらの事件を二人が協力して解決するのである。このような事件にからんで久美子も自宅に二匹の犬を飼う羽目になるのだが、この犬たちがまた可愛く脇役を演じる。

第一話では久美子がこう述懐する。「焦らなくても人生は長い。国枝(老人)と同じ景色が見えるようになるのには、気の遠くなるほどの時間があるのだ」。老人に対する偏見がこれっぽちも久美子にないのがよい。また第二話では老人が久美子にこう語りかける。「世の中にはもちろん、たくさんのルールがあって、それを守らなくてはならないが、だからといって、小さなルールを破ったくらいで、大きな罪を犯したのと同じ罰を受けるべきでないというのも、大切なルールのひとつだろうね」

こんな「老人」ならなってもいいな。ファミレスに行って可愛い、でも賢い女の子の注意をまず引くのが肝心。物語ではこの老人は一ヶ月前の古新聞を後生大事に持ち歩いたりして注意を喚起するのであるが、その代わりに英字新聞を国語辞典を引き引き読んでみるのもいいかな、と思ったりする。ところがこの正体不明の老人の正体が第三話、子供失踪事件から思いがけない形で明らかになっていくのだが、大団円の一歩手前で話が終わってしまう。乞う次回ご期待なのである。それが待ち遠しくなるなかなか上質の老人向けのエンターテイメントであるといえよう。

おことわり。写真の本の上に置いたナイフは殺人事件の起こることを暗示しているのではない。写真を撮るつもりで手にし二三ページ読み出したら止まらなくなり、そのまま読んでしまったので表紙がめくれ上がり、写真撮影に重しが必要になったからである。これはただのペーパーナイフである。

岩戸佐智夫著「著作権という魔物」を読んで

2008-05-13 19:54:13 | 読書

私は「恥ずかしながら・・・」というサイトで恥ずかしげもなく自分の歌を披露するようなことをやっている。一弦琴の演奏がおもで、精進の成果を自分でも確認できるようにその時々の演奏を残すのが目的で、と格好をつけて言ったりしているが、実は単なる嬉しがりやで、こんなお遊びをしていますよ、と吹聴しているだけのことである。ところが、なんとネット上に自分の演奏を公開することで私の意志にかかわらず自動的に著作権が発生して、私がその著作権の保持者になっているのである。

ところが一方、私がある歌手のCDを購入して好きな歌をCDに合わせて歌い、それを録音してインターネットに公開すると、著作権の侵害になりうるということで、そのサイトの管理者から削除を求められたことがある。その経緯を音楽著作権が死後50年とは厚かましいに記した。そうしたことから私は著作権なるものにそれなりの関心があったので、この本を店頭で見かけて反射的に買ってしまった。

ノンフィクション作家の岩戸氏がこれまで「週刊アスキー」に連載した記事に加筆・修正したのがこの新書とのことである。ネットがいわゆるコンテンツ売買ビジネスの大きな市場となりうるものの、それにに立ちはだかる著作権とのせめぎ合いをいろんな角度からそれぞれ専門家とのインタビューなどを通じて浮き彫りしようとしている。本のタイトルと帯の文句からこの本のある傾向が読み取れそうであるが、正直言って読みやすい本ではなかった。と言うのは著作権についてかなりの予備知識があるとか、現在著作権がらみで問題になっていること、たとえば「デジタル放送のコピーワンス緩和策」のようなことにある程度精通していないと、なかなか論点を把握しにくいからである。それでも私が「音楽著作権が死後50年とは厚かましい」で述べたことを、ある音楽グループのプロデューサーに語らせているところなどは気に入った。それこそ著作権法に引っかからないと確信を持って引用させていただく。この方は著作権がフリーなものを世の中に出したいという考えをそもそもお持ちなのである。

《最初からフリーというものも出していきたいんです。誰もが使えて、結果的に世の役に立つことができたらいいなと。それから著作者の死後50年続く権利が、感覚として僕には腑に落ちない。少なくとも大衆音楽で死後の権利まではあり得ないという感覚なんですよ。生きている間に新たに次の創造物を作るため必要も思うけれども、自分の著作物の権利が、亡くなった後に僕の子供たちに遺産として残るのは『えっ』という感じですよ》(142ページ)

同じ創造者として全く同感である。それなのに著作権を声高に言いつのる「金の亡者」が何故この現世に徘徊するかといえば、この方によれば「創造する側と商業道徳のせめぎ合い」のせいになりそうである。

《究極の闘いって、実は内側にあるんですけれどね。つまり権利者という形でくくられていますけれども、音楽を創造する側の人たち、制作をする側の人たちの志と、それを形にする上で、なぜなら大衆音楽は常に商業主義と共にあるんで、商売にしている人たちの商業道徳とのせめぎ合いですよね》(145ページ)

分かった、悪いのは商業主義に凝り固まったJASRACなんだ!と私は反応してしまった。

紙による出版物の時代に起こりのある現在の著作権法が時代について行けないのは、常識のある人なら誰も感じていることである。

著者は指摘する。《インターネットの仕組みはコピーが次々にコピーを作り上げていくことに依存している。そもそもパソコンとはそういう存在だ。そこに著作権があるか無いかなど、考えることすら馬鹿馬鹿しい》(228ページ)そして、このようにも言う。

《インターネットはコピーというものから逃れることは出来ない。データを送る時、そのデータはサーバーから次ぎのサーバーへ移動するわけだが、固定的なものが移動するのではなく、データをサーバーごとにコピーされるということを繰り返すことになる。ここにいちいち著作物の著作権を見いだしていては、物事は進まなくなることはあきらかだ。》(248ページ)

著作権そのものの存在は私も否定はしない。それどころか利用者により尊重されるべきであると思う。しかしその利用者の立場をほとんど無視して運用されるところに著作権法のあり方が問われてもよいと思う。知的創造に携わっていると自負される方はこの本に目を通されて、それぞれ自分に関わりのある問題点を考える出発点とされてはいかがだろう。

小沼通二編「湯川秀樹日記」を読んで

2008-03-21 18:13:03 | 読書

「昭和九年:中間子論への道」と副題がついている。私は自分の生まれた昭和九年が好きなものだから、車のナンバープレートをわざわざお金を出して1934としている。この本も即購入した。

昭和九年は湯川博士にも特別な年であった。11月17日に東京大学で開催された日本数学物理学会常会で中間子論を発表し、12月8日(7年後には日米開戦の日)に中間子論の論文原稿を数学物理学会に送ったとあるからだ。昭和九年が中間子論誕生の年なのである。しかし私は昭和九年に28歳であった若き学究の日常生活に興味を持った。

湯川博士は昭和七(1932)年に京都帝国大学理学部講師に就任してその直後に結婚、翌昭和八年に長男が誕生してそのあと大阪帝国大学理学部講師にも就任している。結婚後、大阪内淡路町の自宅から京阪電車で京大へ、またバスで阪大に通っていたようだ。この日記を一読すると研究の中身がほとんど触れられていないが、いかにも学者然とした悠揚迫らぬ日々の営みが伝わってくる。

大学に行くのを登校と記しているのが印象的であった。小学生みたいで大学と勿体ぶらないところがいいと思ったが、よく考えてみると私も学校へ行くと言っていた。講義など時間の定められた校務はともかく、時間に縛られない大学勤めの姿が随所に出てくるのがいい。私もかってはそのような自由を享受してきたが、最近の大学はどうなんだろう、と橋下大阪府知事の「勤務時間内に喫煙禁止」のお達し?に世知辛さを感じたものである。

《一月四日 (中略)朝九時頃初めて登校。誰もきて居ないので、雑誌を見て、十一時頃帰宅。午後、丸善から道頓堀、天牛の辺をぶらつき、帰りに三越によって玩具大倉で、驢馬と犬と象を買う(三十三銭)。》なんて見ると、私も同じようなコースをその二十数年後、学生時代に歩いたことを思い出した。天牛では「食い倒れ人形」ような顔つきで口角泡を飛ばす感じの元気な主人が居たが、丸善も天牛書店も今はない。

《二月六日 (中略)九時起床。登校。昼前、病院行き。
不二家で昼食。チョコレートシュークリームを買ふ。
鼻薬を買ってくる。澄子、それをつけると鼻のつまるのがなほる。》

ちょっとした切開手術のあとの病院通いが長引いている。その病院の後で不二家とか高島屋で昼食を楽しんでいる。奥方に鼻薬というのがいい。私も欲しくなる。

風に帽子を川に吹き飛ばされたり、バスの中で財布をすられたり、なんだか楽しくなる。一方、東京、京都、大阪でよく歌舞伎見物に出かけたり、ドストイェーフスキとバルザックの比較文学論があったりする。そうかと思うと世界のニュースにも目が開かれている。

《九月六日 (中略) 朝日飯沼機、大阪発無事北京着。
米国織工七十万総罷業。大統領、調停に立たんとす。
東京市電総罷業、昨朝より始まる。
在満機関改組問題行き悩み。
九州旱害甚大。
支那大旱害、餓死二百万に達す。》

いやはや、世の中は今も昔も大きく変わらない。また次のような記事が目を引いた。日記から抜粋である。

三月一日 満州国帝政敷かれ、康徳皇帝登極。
五月三十日 今朝七時、東郷元帥薨去。
七月四日 マリー・キュリー死去。
九月二十一日 暴風雨(室戸台風)。

私にも関わりのある出来事もあった。昭和九年四月に大阪大学理学部の建物が完成して、「四月十五日 澄子に理学部新館を見せてかへる。」とある。そして「六月二十日 今日は理学成式。三学部成立祝賀式である。」との記事もある。三学部とは医学部、理学部に工学部。大阪大学は要するに理系の大学だったのだ。

理学部の正面玄関の石段に湯川博士ら五人が座っている写真が湯川家提供として掲載されている。私も学部学生として、大学院生として毎日上り下りしたところである。入った左手の壁にはなにかあるとビラが張り出された。教養から学部に進学を認められた学生の氏名が各学科ごとに張り出されたり、また大学院入試の合格者氏名も同じように張り出された。私が受験したときには発表を見に来た物理の学生だろうか「湯川さんの息子が落ちとる」と言っているのを耳にしたような気がする。この日記に名前の出てくる理学部の先生方の多くを私も学生としてお見かけしているので、ことさら因縁を覚えた。

私の生まれた日にも湯川博士は講義をし、雑誌会をやっておられた。


神戸三宮 後藤書店の閉店

2008-01-13 17:45:16 | 読書
暮れの26日、センター街を歩いていると星電社の隣にある後藤書店に張り紙が出ているのが目に入った。よくみるとなんと閉店の知らせである。



この日は店が閉まっていたので中に入れなかったが、学生時代から前を通りかかると買う当てもないのによく本棚を一巡したもので、50年以上も続いていた習いががこれで途絶えるのかと思うと淋しい限りである。似たような顔立ちの二人兄弟で店を経営しており、店の一番奥で積み上げた本の前に坐っている姿がさまになっていて、突拍子もなく江戸川乱歩の世界を連想したものだった。

年明けに義母が亡くなったこともあって、ようやく一昨日店を訪れたときは本棚がかなり空いていた。触手の動きそうな本はもう見当たらないだろうと半ば諦めていたが、科学書のコーナーで思いがけないものを見つけた。G.サートン著「古代・中世科学文化史」(岩波書店)の五冊セットで、なんだか私を待ってくれているようだった。

大学の教養時代に仲間と科学史の読書会をしていて、テキストに岩波新書赤版のホワイト著「科学と宗教の闘争」を使ったのを今でも覚えている。チューターは理学部を卒業して文学部の哲学科に学士入学をした歌仲間でもあった。その頃すでに「古代・中世科学文化史」の第一冊目が平田寛氏の翻訳で出ていたが、なんせ値段が高かったこともあって手を出せなかった。10年以上もかかって全五冊の出版が完了していたがその当時は実験に忙しく、何時とはなしに忘れていたその本に巡り会ったのである。1981年にセット価格20000円に15000円の値段が付いており、年が明けてからであろうか全点50%オフになっていたので7500円で購入した。



実際に読むかどうかは分からない。本はそばにあるだけでよいのである。先ずは明日(14日)で廃業する後藤書店で買った他の本と一緒にまとめて、後藤書店コーナーを作ってやろうと思う。