地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

地形図 で見る北アルプスの壮年山地

2013-05-30 | 読書

地形図 で見る北アルプスの壮年山地

 

「・・・飛騨山脈(北アルプス)が日本海におちこむあたりは、日本でも代表的な豪雪地域にあたるため、
正規浸蝕に雪蝕も加わって、美事な壮年山地にけずられている。
北又谷は深く谷底をきざみこみ、峡谷を形成し、一部に魚止滝をかけている。」
(武揚堂発行「地形図の手引き」より)

 

地形図を拡げてみると

赤い線は境川沿いの断面図の線です。 

 境川の日本海側・大平あたりまでは、川底が平たく砂地も多少残していますが、
それより上流はほとんど砂地もなく、すぐ切り立った山地になり、
しかも水平距離1kmで、500mも登る急崖がつづいています。

その辺りの断面図を河口から川上へ並べてみますと、下図のようになります。

川底の標高が高くなるに従い(上流になるに従い)、両岸の崖の勾配が急になり、深くなっています。

これでは、魚も遡かのぼれませんね。(魚止滝)

    

親不知付近の地形は大体がこうした壮年期の谷でえぐられています。

 


明治神宮外苑にサイクリング

2013-05-29 | 散策

明治神宮外苑にサイクリング

 

雨の前にサイクリングをしようと、出かけました。

もう一つの目的は“ナンジャモンジャ”の木を見る事でした。

コースは下の赤線です。ほぼ同じコースを往復しました。

 

約半年ぶりのサイクリングなので、自転車は埃だらけ、空気も抜けてるし、走行前の整備に多少時間がかかりました。

今日、サイクを始めないと、永久に自転車に乗る機会を逃してしまいそうに思えたので、思い切って出かけました。

久し振りのためか、お尻が少々痛みました。でも、再開してよかった。軽快でした。

 

目的の“ナンジャモンジャ”の木はすぐ見つかりましたが、花もなく、葉も少なく、少し元気がないように見えました。

  

その説明板を紹介すると、

「この木は、和名『ひとつばたご』俗名『なんじゃもんじゃ』と呼ばれ昔からこの地内にあった名木です。
五月初めの頃、白い清楚な花が咲き、満開時は雪を被ったように見えます。
・・・明治十八年にこのあたりは青山練兵場となったが、時の政府は・・・買上げそのまま残した。
・・・然し樹齢百数十年といわれた名木も遂に昭和八年枯死した。・・・ここにあるひとつばたごは、二代目・・・
もくせい科に属する落葉樹で、国内では愛知、岐阜、対馬に産し、都内では十数か所に見られる。」とありました。

下はその説明板に、満開時の写真が載っていたので拝借しました。

 

それから、苑内を少し走り、パークレストランの二階ラウンジで、フライポテトをつまみに生ビールを楽しみました。
カラフルなユニホーム姿で野球を楽しんでる風景を遠くに見ながらグビッ!
しかし、よく見ると髪の長い女性姿です。
訊くところによると、今日は女子の野球大会だそうです。

すぐ前に、鬱蒼と青葉の繁る木がありました。
レストランのおばさんに訊くと、ユリノキだそうでした。
よく見ると、薄黄色の花がいっぱい咲いていました。そして、周りはユリノキでおおわれていました。

 

ゆっくりビールを楽しんで、もと来た道を帰りました。

原宿のケヤキ並木は行きも帰りも、人が多く自転車を押して歩きました。

そして、神宮内苑でまた、ユリノキに会いました。ここも花が咲き始めていました。

気持ちのいい、サイクリングでした。往復15km。


地形図 余呉湖と断層地形を見て

2013-05-27 | 読書

地形図 余呉湖(よごのうみ)と断層地形を見て

「北国街道・・・に並走する北北西~南南東の谷(断層崖)に沿って、西側の山地が相対的に陥没し、余呉湖や木之本町の低地を形成した。
余呉川の堆積物が余呉湖の北側をふさいでいる。」(武揚堂発行「地形図の手引き」より)

余呉湖の北側には、地形図を着色したように、同じような三角形の砂地が連なっています。東側の断層地形に邪魔されて出来た砂地のようです。

余呉湖は奥に深く囲まれていたため、湖になったようです。
多分放水隧道が出来るまでは、水害で大変苦労された地帯でしょう。

余呉湖の砂地は下の断面図にもはっきり表れています。
全長1.5kmもある広い水田地帯です。


そして、戦後になって、余呉湖放水隧道や飯浦送水隧道が掘られ、下余呉一帯の干拓が完成しました。

 

素人考えですが、飯浦送水隧道をもう少し深く(約20m)掘っていたら、余呉湖全体の干拓が出来たのでは。
戦後しばらくは干拓工事が盛んでした。(結果的には残されてよかったのですが)

送水道が出来たためか、北陸本線も、水害の心配もなく、干拓地を横切るコースに変わったようです。
下の旧図と比較してください。(昭和25年応急修正版)


最近、たまたま日本の民話を読んでいますが、その中に
『余呉湖の天女』の、いわゆる “天女の羽衣” 物語に出くわしました。

その一端を引用しますと
「遠いはるかなむかし。
近江の国で、一夜のうちに、大地がメリメリと落ち込み、大きな深い湖となった。琵琶湖である。
そして落ち込んだ土は駿河の国へドシン、ドドンと盛り上がって、富士山になった。
ところが、どうも富士山の姿が、もう一つ、美しさが足りない。
そこで神様は近江の土を一つかみ、つかみ取って、富士山を良い形に仕上げた。
そのつかみ取ったくぼみが湖となって、余呉湖という。」

「・・・天女たちは、海のように広い琵琶湖より、この湖が好きだった。・・・
水は、わき水(?)で冷たく、青く澄んでいた。
湖に映るわが影を楽しみながら舞い降りると、岸辺の柳に、羽衣をふわりとかけて、水浴びを始めたと。・・・」
「余呉湖の岸べには今も、天女が羽衣をかけた柳や、子供が母を慕って泣いた石などが残っている。」そうです。
いい話です。

この湖は、約3万年ぐらい前、琵琶湖と同じ頃に出来たと言われています。
始めは、琵琶湖に包含されていたのが、分かれて独立したと言われています。

長らく鏡湖(きょうこ)とも呼ばれていました。澄み切ったきれいな湖だったのでしょうね。
面積1.8km²、周囲長 6.4kmです。ジョギング大会もあるとか。


地形図で見る 富士見山断層崖とバットランド地形

2013-05-25 | 読書

地形図で見る 富士見山断層崖とバットランド地形

 

富士山の西隣、身延町にある富士見山を眺めてみました。

ここは、諏訪湖から続くフォッサマグナ線上にある急崖です。

 

1/20万地勢図と12.5万地形図を見ると

 

 

「富士火山の東側の約1000mの急崖は、フォッサマグナに沿って発達する断層崖として知られている。

山麓の礫層の部分には崩壊が多く、バットランド地形を示す。」とあります。(武揚堂発行「地形図の手引き」より)

 

12.5万地形図の断面図をみると

東に向かう礫層の急崖が見られます。

地形図上には「がけ(岩)」記号が多く見られます。

ここで云うバッドランド地形とは、そうした急崖に多く散在する「がけ(岩)」の状態を言います。
なんということはない、バットランドとは Bat Land (悪地)の英訳ですか。

雨水による浸食が激しく、深い谷が削られ、降り終ると急に水は引き、涸れ谷になります。
従って、土壌も少なく植生の乏しい荒れ地になります。

ハイキング道には向きませんね。


地形図で見る 外山牧場付近(老年山地)

2013-05-23 | 読書

地形図で見る 外山牧場付近(老年山地)

 

老年山地の典型的な地形として、盛岡市東部の外山牧場が取り上げられていました。
1/2.5万地形図で見ると



極めて緩やかな丘陵地で、等高線の間隔も広く、細い河川も緩やかに蛇行しています。

牧場には適している地形でしょう。ハイキングにもよさそう。

「大尺山、小大尺山などはやや硬質の岩石からなる残丘。250m位の起伏しかなく、谷底には広く湿原もみられ、老年山地ないし隆起老年山地の地形の好例として知られている。」(武揚堂発行・「地形図の手引き」より)

そのことは、下の断面図にも如実に表れています。

 

この地形図にも、山稜に沿って土堤(どて)が描かれています。(茶色の記号)
以前の地形図とは記号が代わりましたが、今も残っています。

一時期、電氣牧柵という、4000~7000Vぐらいの電流を流した柵が設けられ、牛馬などが外に出たり、外からイノシシなどが入って牧草地を荒らすのを防いでいたようですが、今はどうなっているのでしょう。


地形図で見る木曽川流域 隆起準平原と幼年谷

2013-05-21 | 読書

地形図で見る木曽川流域 隆起準平原と幼年谷

 

笠置ダムや丸山ダムで幼年谷の下刻は緩やかになりましたが、断面図で見られるように峡谷状の地形は顕著に残っています。

周囲は高原状(福原尾や上の洞)で、隆起準平原を表しています。

その間を木曽川が深く浸食した様子は歴然と残っています。

 

ダムが作られなければ、谷はもっと深く浸食され、壮年谷に近づいていたでしょう。

それにしても、こうした峡谷両岸の高原に多く水田や集落が存在するのは珍しいのでは。

普通は山林でしょうが。


籠坂峠~三国山~パノラマ台 へのハイキング

2013-05-20 | ハイキング 里山歩き

籠坂峠~三国山~パノラマ台 へのハイキング

 

曇りのち雨のやや良くない気象予報でした。
仲間13人と、多少の雨を覚悟で、マイクロバスでハイキングに出かけました。

ところが、小仏峠を過ぎたあたりから少し青空が見られ、大月に近づくにつれ富士山が雄大な姿を見せてくれました。

結局、この日はハイキングのあいだじゅう、空は晴れ、富士山はくっきり姿を見せ、暑くもなく寒くもない、さわやかな絶好のハイキング日和でした。
仲間の中にいた“晴れ女”のおかげでしょうか。

 

今日のハイキングルートは下の地図の赤線です。

そして、その経路断面図は次の通りです。

 

最初200m登り、6kmぐらい平坦な山尾根をにぎにぎ、がやがや散歩し、最後に200m位降る、優しいハイキングでした。腰痛の私には大変好都合なルートでした。

 

さて、ハイキングの詳細ですが、
今日の路は山梨県と静岡県の県境を辿るコースで、若芽の生い茂るブナ林の中を歩きました。
従って、石がらもなく、乾いた黒土を気持ちよく歩く“ふんわかコース”でした。

 

ブナ林は、もともと日本の森を形造っていた自然林だそうですが、戦時中の政策で杉林に変えられ、今では希少な森林になっています。
世界自然遺産の白神山地はブナ林の最たるものです。

ブナ林は典型的な落葉広葉樹林で、常緑樹に比べ葉が薄いため、光を良く通し、森林の中を明るくしてくれるそうです。そのためか、したばえもよく育つとか。
ただ、光の強い太平洋側では、したばえが育ちすぎて、歩きにくいとか。

また、ブナ林は人工のダム以上に水を蓄える効果があることから“緑のダム”ともいわれています。
多少関係あるかな~?ブナ林にはミズナラも含まれているそうです。

途中には、山ツツジがちらほら紫の花を見せてくれていました。
その他にもいろいろな花が咲いていました。素晴らしい眺めでした。


そして、最後の降り路がちょっと木の根っこが出ていて、転ばぬよう注意しましたが、小さな子供達でも楽々歩ける道のりでした。
その証拠に、明神山では幼稚園年少組のお子さんもいましたし、若々しいフランス人の男性は走って降りていました。余談ですが、奥さんは日本人で子供さんも2人いるそうです。人生を楽しんでいるようでした。

明神山へ上る途中の富士山と山中湖は絶品でした。下の写真です。

 

カシバードで向かいの山々を撮影してみました。中央の山は以前登った石割山です。

そして、明神山頂上の写真は次の通りです。

 

右のカシバードの写真と比較してみてください。

 

そして、後は山中湖畔のお湯につかり、ビールを楽しんで、マイクロで大した渋滞もなく、早々と新宿に帰り着きました。

幹事さんありがとうございました。


地形図で見る 念丈岳

2013-05-16 | 読書

地形図で見る 念丈岳

 

壮年期の好例として念丈岳があげられていました。

2000m前後の山頂部は何れも浸食されつくされて、尖っており、

山地を刻む谷は深く、V字型に傾斜しています。

日本アルプスの山々は大体がこうした壮年期の山です。

1/20万地勢図で、中央アルプス(木曽山脈)南部の念丈岳の周辺をみると下の図のようになります。
標高1000m以上と2000m以上を色分けして区別しました。

この山脈の北に2956mの木曽駒ケ岳があります。
登ったことがありますが、悪天候で牛乳瓶の中をさまよっているようでした。 

さて、肝心の念丈岳の地形図は下の通りです。

山稜部にはわずかに浸食し残した平坦部がありますが、典型的な壮年山地だそうです。

断面図を作ってみると、その様子がよく解ります。

 

この山は奥念丈から念丈に縦走するのに楽な山だそうです。


小平ふるさと村へ散策

2013-05-14 | 散策

小平ふるさと村へ散策

 

朝から爽やかな天気で、家でもたもたするのは勿体ないと小平ふるさと村へ出かけました。

先日の小金井市の「東京たてもの園」の印象が尾を引いたのでしょう。

 

さて、散歩コースは下の地図の赤線です。約6kmの道のりです。

 

三鷹駅まではバスとJRで行き、そこから真直ぐ玉川上水道沿いを歩きました。

浄水場横からは多摩湖自転車道を歩きました。
従って自動車に煩わされることもなく、一直線のサイクリング道路を歩きました。いい気分でした。

途中、少し若いかな~と思えるご婦人とおしゃべりしながら歩きました。
富士山へは三回、北岳へも登ったそうです。やるな~!
今は歳ですから、毎日5万歩歩いて、健康を維持しているそうです。
気持ちの爽やかなおばさんでした。
別れ際に生年月日を聞いたら私より一つ上でした。私も頑張らなくっちゃ!

さて、下の写真がサイクリングロード(多摩湖自転車道)の入口です。

 

まっすぐな道をどんどん進み、やがて花小金井駅の近くで一休み。、

駅近くのかっこいい店で、冷やしうどんを食べました。おいしい店でした。

そして、目的の「小平ふるさと村」へ 。

入口には旧小平小川郵便局舎が丸型の赤ポストとともにありました。

ここは現存する郵便局舎の中でも古いものの一つだそうです。
奥から紺色の割烹着を着た郵便局のおばさんが出てきそうな佇まいでした。

今は開店休業中ですが・・・。

 

 

小平市は町を挙げて郵便局の丸い赤ポストを残している町です。頑張ってね!
丸い赤ポストが懐かしいです。どうして無味な四角にしたのでしょう。
便利ではあるでしょうが、素っ気ないですね。

 

中には、江戸時代の農家が数棟建っていました。多分当時の名主級の建物でしょう。

   

下の写真は水車小屋とその中です。
  

 

私は、以前にも一度、サイクリングを兼ねてこの道を多摩湖まで走ったことがあり、ここへ寄るのは二度目です。

当時、確か玄関口に街道に沿った短冊形の屋敷林の地図が掲げられていました。
今は見れませんでした。残念!

パンフレットによると

「小平の地は、江戸時代初期の玉川上水の開通に伴って開発が行われた新田村落です。
かっては、青梅街道をはじめ、東西に走る各街道沿いに屋敷森に囲まれた農家が並び、街道をはさんで農家の南北には短冊形の畑が続いていました。
しかし、近年は、小平の面影も大きく変わりつつあります。・・・」と記録が留めてあるのみです。

 

あの地図を写真にとどめておきたかったな~。
救いは、自転車道に沿った家々の間には、豊かな菜園が残っていることです。

 

ゆっくり見学した後、サイクリングロードをさらに北上し、小平駅から西武線で帰りました。

いい散歩コースでした。天気も良かったし。

 


地形図で見る黒部峡谷

2013-05-13 | 読書

地形図で見る黒部峡谷

 

腰の具合も悪いし歳でもあるので、家の中で、地形図で峡谷を垣間見ることにしました。先ず、1/20万地勢図で、日本では最も規模の大きいといわれる黒部峡谷の概略を観ました。

 

そして、この度は黒部峡谷の十字峡と下廊下を地形図で眺めました。

先ず、1/2.5万地形図で見ると、



十字峡は、黒部川に垂直に交わる二つの支流の交差点です。
西からは立山・剣岳から流れてくる剣沢。東からは爺が岳・鹿島槍ヶ岳から流れてくる棒小屋沢です。
この剣沢と棒小屋沢がこの黒部川で十字に交わる極めて稀な峡谷を「十字峡」と呼んでいます。

そして、そこへ流れ出す激流が「下廊下」です。
黒部峡谷でも最も急な激流の流れで、長さ約4Kmあります。
道幅は約30cm(一尺)程度で、ひどいところでは100m以上もある断崖絶壁の上です。直下には黒部川の激流が走っています。

山容は幼年期から壮年期に属し、下刻の凄まじいV字谷と尖った周囲の山々を窺うことができます。命の保障のない路だそうです。ですから、私には無理です。

 

なお、「下廊下」があるので、当然「上廊下」(奥廊下も)もあります。黒部ダムのさらに上流部です。

人はほとんど立ち入れないそうです。

 

なお、帝国書院発行の『新詳高等地図』から「河食による地形の変化(地形の輪廻)」をお借りして地形の輪廻にふれると


先ず、隆起したり火山爆発などにより荒々しい地形が出現します。ここでは、侵食前の地形を表すために高原状のなだらかな地形のみが表現されていますが、火山爆発により生じた荒々しい原地形も混じります。( A 原地形)

それが、河川の浸食が始まると、V字谷を生み、急流や滝を造ります。一部には高原状の地形も残しますが・・・。それを幼年期地形( B )といっています。

そして、長い年月の浸食で、山尾根は鋭くとがり、谷はV字谷となり、谷の近くの平地(谷底平野)はほとんど見られない荒々しい地形になります。これを壮年期地形( C )と呼びます。

今回の黒部川沿いの地形はその典型です。

その断面図を上流に向かって並べると、下のようになります。
しかし、それでも比較的なだらかな地形が残っています。

例えば、右端の断面図の「内蔵助平」です。
幼年期の名残の地形といえます。 

   

そして、行き着く先が老年期地形( D )です。
谷幅は広くなり、谷底と谷壁の堺が不明瞭になります。時には湿原も見られます。
そして、山頂や尾根は低く丘陵状になります。所々、硬質の岩石からなる丘(残丘)が残りますが。
年老いた私などが登れる山は老年期の地形ですね。ハイキングの山です。

地図でゆっくり、楽しみましょう。