地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

日本百名山 51、黒部五郎岳(2840m)

2014-07-28 | 日本百名山

日本百名山 51、黒部五郎岳(2840m)

下は黒部五郎岳周辺図です

  

赤丸は百名山、青丸は注目したい地名(過去に登った山もあります)

 雲の平から見た黒部五郎岳

設定: カメラ:PRO、レンズ:10mm、風景:北アルプスの初夏、高さ強調1.5倍。


「黒部五郎は人名ではない。山中の岩場のことをゴーロという。
五郎はゴーロの宛字で、それが黒部川の源流近くにあるから、黒部のゴーロ、即ち、黒部五郎岳となったのである。

北アルプスには、ほかに野口五郎岳がある。
二つのゴーロの山を区別するため、黒部と野口を上に冠したのである。」

さて、余談ですが、この「野口」は、この山の属する大町市の集落「野口」に由来しています。

ちなみに、歌手の野口五郎はこの山の名前に由来しているそうですが、
なぜ百名山の黒部五郎にしなかったかは、その山の方が少し高かったからだそうです。
下らない理由です。山には登らないそうです。 

次は、筆者が登ったらしいルート図です。
  

「私は、・・・上ノ岳の方から匍松の間を通って、黒部五郎岳の肩(山頂直下の平坦地)に着くと、眼の下が、巨人の手でえぐり取ったように、大きく落ち込んでいる。
三方を高い壁に囲まれて、いかにも圏谷(カール)といった感じである。
その肩から私は頂上へ登った。・・・

私は愛する山の頂上に触れずにすぎることはできない。
霧のために何も見えなかったが、ガラガラした石を踏んで頂上に立ち、満足して肩へ引き返した。

肩から圏谷の底へ急斜面を降りる道には、真夏でもまだ若干の雪が残っている。
底から見あげたカールは実に立派である。
三方を岩尾根に包まれて、青天井の大伽藍の中に入ったようである。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 


七月の緑道の花

2014-07-24 | 散策

七月の緑道の花

七月に咲くの花は少ないですね。

緑道も緑一色と云っていいようです。
それでも、あちこちに咲いた花を拾ってみました。

 歩いたコースは下の地図+大山公園です。

   (いつもの散歩道)

先ずは、いま盛りの ムクゲ たち、

      

うす紫やピンクや白い花をつけています。
冬場は箒草と呼ばれ、箒を逆さまにした姿で淋しい花ですが、今は咲き誇っています。

 

アベリア (花園衝羽根空木)

開花期間の長い花です。多分6月から11月ごろまで咲いています。
そのためか、この緑道にも、あちこちに見る事が出来ます。 


次は、サルスベリ(百日紅)

    

「猿滑」とも云います。
”幹がスベスベしていて、猿も滑って登れない” ことからと云われていますが
実際は、猿はスイスイ登るそうです。
それより、「約100日間、ピンクの花を咲かせる。」のが名前の由来とか。
この方が説得力がありますね。
夏、暑いほど花の赤さが増すようです。白い花は?

キンシバイ 先月から咲いています。

    
黄色の花で、よく垣根に添えてあります。
五弁の花の中から、「金の糸」のような雄蕊が覗いていて、実に美しい。

花は梅にもたとえられていて、“金糸梅” とも呼ばれています。

 

そして、サザンカ(山茶花)

 

夏暑い時期にも咲くのですかね?
確か秋に咲く花だったように記憶していますが、開花の時期は長いそうです。 

 

ヒマワリの花が一輪だけ淋しく咲いていました。


太陽に向いてくるくる回ることからつけられた名前です。
オランダの画家ゴッホが好んで描いた花です。
一輪だけでは、ちょっと絵にならないですね。 

 

キョウチクトウ(夾竹桃)

この花を撮るために、暑い盛りに大山公園に行きました。

  
葉が竹のように細く(夾)、、花が桃の花のように可憐なことから、
名付けられたそうですが、 
有毒植物だそうです。
細かいことは追々に・・・。


アガパンサス(紫君子蘭)


葉が君子蘭に似ています。
根が太く強いため、斜面や土手などに植えられ、土の流出を防ぐのに役立つそうです。
 
  

 

ヒメジョオン(姫女苑)

  

知って見ると、あちこちに、実にたくさん咲いています。
雑草と一緒に刈り取られてしまうようですが、辛抱強く咲く花です。

 

キダチチョウセンアサガオ (木立朝鮮朝顔)

  

大きな花です。散歩する道の一か所だけに毎年咲いています。
頑張ってください。

 

その他にも、2,3載せたい花はありましたが、疲れたのでまたにします。

今日はこの辺で・・・。

 

 

 

 


書道展を観に行く

2014-07-17 | 散策

書道展を観に行く

高校の頃の友人(女性)が、毎日書道展に出品するので、仲間たちと見に行きました。

乃木坂の東京都美術館です。

 

こんな立派なところに出品するとなると、相当費用もかかることでしょう。
大分回も重ねていますし・・・。

  

 

例によって、代々木公園を横切り、原宿通りから青山霊園を抜けて、歩いていきました。

暑い最中でした。距離約6kmでしょうか。汗びっしょり!

 

原宿の通りは、何時ものように若者たちで賑わっていました。

シャッター通りとは大違いです。

 

そして、青山霊園を横断しました。

ゆっくり墓石を眺めながら歩くといいのでしょうが、こう暑くては・・・。

  

都心部に、こうして下界を睥睨しながら鎮座ましますのもいいものでしょうが、あの世も金次第のようで、
私には関係なさそうです。

ここにも、無縁仏がいるのでしょうかね。

 

そうして、東京都美術館にまいりました。

彼女の出品を先ず見に行きました。

なにしろ、35,000点の出品だそうで、その規模はわが国最大なものだそうです。

パンフレットには、

「 “新しい時代の書道展” を旗印に、伝統の書から最先端の現代書まで、

あらゆる分野を結集する総合展です。」

とありました。

 

さてさて、彼女の作品は次の通りです。

『年是日』 でしたか、またはその逆か?

私には、チンプンカンプンです。
要するに  “日々是好日” のような意味なのか・・・?

そうして、一巡して、また暑い中を、我が家まで来てくれました。

帰りは、電車です。
仲間たちは歳ですからね。(同級生でしたが・・・)

 

さあ、これからささやかな宴会です。


水元公園を散策して

2014-07-14 | 散策

水元公園を散策して


梅雨の合間、台風8号が去った翌日、水元公園を訪ねました。
東京の東のはじ、葛飾区の公園です。 

いい天気でしたが、湿度の高い、暑い日でした。

千代田線で約1時間、代々木上原駅から金町駅まで、気持ちよく揺られていきました。

金町と聞くと、すぐ頭に浮かぶのが金魚の街です。

この度は、元の水元水産試験場跡地だけを見て、肝心な東の端の金魚養殖場を見ないで帰ってしまいました。
もうなくなっているのかと思いましたが、よく調べて行かなかったせいです。

秋にでもまた、メタセコイヤの紅葉を見がてら寄ってみましょう。 

今日の散歩コースは、次の約8Kmです。

 

さて、金町駅から例のごとく、道に迷いながら、暑いなかを、ぶらぶら歩いて公園に辿りつきました。

入口の溜池では多くの、年寄りたちが糸を垂れていました。

  
どの人のバケツにも魚はいないし、餌を付け替えてる人はいても、
魚を釣り上げてる人は見掛けませんでした。

この暑い中を、我慢強く、“よくやるよ” と云う感じです。 

そこから、今日の本格的な散歩が始まりです。

  

広々とした公園です。
暑いためか、広場には人はほとんどいませんでした。

途中に、メセタコイヤの林がありました。

     

 

葉はモミににて腺のように細長く、秋にはそれが赤茶色に紅葉するそうです。
今年の秋には、金魚と一緒に、是非見に来たいものです。

また、私の好きなゴンズイも赤い実をつけ始めていました。

ポプラ並木をぶらぶらしながら、ビールを飲みに帰りを急ぎました。

その途中に、子供を連れのバベキューの一団に会いました。 

ピーチク、パーチク、何時耳にしても、子供たちの歓声は、いいものです。

私も、こじんまりした休屋で、生ビールを ゆっくり楽しみました。

 

ところで、後で知ったことですが、

この辺は放射線量が高くて問題になった土地だそうです。
どうも、雨水などで、放射性物質がたまりやすいとか・・・。 

「平成26年3月10日、区民の方から、空間放射線量が高い箇所があるとの連絡を受けて測定したところ、
除染基準以上あり、除染を実施した」そうです。

区の除染基準は、
「空間放射線量が地上1cm の高さで毎時1マイクロシーベルト以上」 ということです。

土を掘って除去すると、放射線量は減るそうですが・・・。

厄介なことになったもんです。

台風などの後が問題だとか? 

 

 

 


 

 

 

 


日本百名山 50、薬師岳(2926m)

2014-07-11 | 日本百名山

日本百名山 50、薬師岳(2926m)

薬師岳は北アルプスのほぼ中央にあり、
その周辺には百名山と呼ばれる山々が、うじょうじょしています。(赤丸が百名山)

「当時は立山行きの電車は千垣(ちがき)までしか通じていなかった。

千垣で一泊して、そこから和田川に沿って登ること七里、もう飛騨境に近い高原に有峰(ありみね)と呼ぶ村があった。(今は有峰湖の湖底)
昔はここが薬師岳の登山口であった。

しかし私が行った時にはすでに廃村になっていた。
村人は水力電気会社に祖先以来の地を売って、金をふところに山を下った後で、
軒が破れ柱の傾いた廃屋が点々としていた。
草むらの中に崩れた墓の並んでいるのも哀れであった。

(墓はいずれはこうした運命を辿るのでしょうが・・・。)

この有峰の高原から眺めた薬師岳の姿は、今も記憶に残っている。」


設定: カメラ:CAN、レンズ:28mm、風景:スケッチ風 高さ強調1.5倍。

 

「私の二度目の登山はそのダムからであった。

朝、汽車で富山について、その夕方にはもう太郎兵衛平小屋で一ぱいやっていたのだから、隔世の感があった。

小屋から薬師岳への道は、広々とした高原をいったん鞍部まで下って、
そこから森林地帯を登って行くと、
丈の低いオオシラビソと小さな池の布置のよろしい、美しい小庭園のような原に出る。

それから先は白い砂礫のザクザクした尾根で、
右手には黒部の谷を隔てて雲ノ平の大きな台地を望み、
左手には有峰のダム湖が覗かれる。・・・

頂上に近づくと、右手に大きなカールが眼下に口をあけていて、
その内壁の縞が美しい。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

 


日本百名山 49、立山(3015m)

2014-07-05 | 日本百名山

日本百名山 49、立山(3015m)

 

下は室堂から立山への一般的な登山ルート図です。

  


「・・・かずかずの古い由緒を持つ立山も、現在では一変して近代的な観光地になりつつある。

ケーブルカーが通じ、新しい自動車道が開かれ、旅舎があちこちに建って、もはや人々は労せずして都会の服装のまま、高山の気に接しられるようになった。・・・


お山まいりの立山は消え、登山の対象としての立山も消え、
一途に繁華な山上遊園地化に進んでいる風にみえる。

立山は、私がその頂を一番多く踏んだ山の一つである。
中でも頂上の雄山神社の社務所に泊めて貰って、早暁、日の出を拝した時の印象は忘れられない。

四方の山々が雲海の上に眼ざめるように浮かび上がってくるのを眺めながら、
やはり立山は天下の名峰であることを疑わなかった。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

(約20万分一の地勢図)

 

筆者は、登山家らしく、山が都会の「山上遊園地化」してゆくことを、嘆いておられるようです。
私も、以前書いたように、
那須岳の頂上にやっと辿りついたとき、ハイヒールを履いて騒いでいる女性達に出会い、「山上遊園地化」を嘆いたことがあります。

麓まで近代的な交通機関で行くのはいいとして、
山頂は自然のままに保存して欲しいものですが・・・。


浅草から上野へ

2014-07-03 | 散策

浅草から上野へ

 

友人が『日本書鏡院展』で会長賞を貰ったそうなので、その鑑賞がてら、浅草から上野へ散歩しました。

歩いたコースは下の地図の通りです。

散歩のメインは浅草の朝顔市と “かっぱ橋道り” の徘徊です。
距離は約6Kmと短いのですが、暑かったです。

 

さて、例のごとく、都営地下鉄浅草駅からか雷門へ出ました。
何時ものように、人が混んでいました。

 

仲見世通りの西側の裏通りを通り、浅草寺正面から、戦後朝鮮人のあった辺りを徘徊して、
浅草神社に行きました。

今日は、朝顔市には早すぎたようで、未だそれらしい店は出ていませんでしたが、
代わりに、浅草神社の 『夏詣』 (なつもうで)が賑わっていました。

  

小さい子供たちが、引率の先生たちに守られながら、行儀よくお参りしていました。
微笑ましい風景です。

そこの庭園に次の掲示が出ていました。

「夏詣でとは・・・

日本各地の神社では、毎年6月末に、半年間で溜まった罪汚れを祓い清める神事として
『夏越しの大祓(なごしのおおはらい)』 が行われています。

そもそも大祓とは、祓い(はらい)や禊(みそぎ)にその源を発した神代以来の行事で、
大宝元年(701)の頃には6月、12月の晦日に行うことが定められました。・・・ 」

とありました。

あまり意識にありませんが、いいことです。

 

さて、そこから浅草寺正面に出て、

次の目的地  “かっぱ橋通り” へ向かいました。

ここは、上野駅に向かう本通りと道具街通りがあり、かっぱ橋で交差しています。
街は飾りつけもあり活気づいていました。しかし、暑かったです。 

先ず、“かっぱ河太郎像の碑” にお詣りしました。

碑文(東京合羽橋商店街振興組合)には、

「古来合羽橋は商売とは深い縁で結ばれていた。
今から約二百年前の文化年間、商人として財を成した合羽屋喜八は、
このあたりの水はけが悪く、僅かな雨で度重なる洪水に人々が難儀をしていることを見かね、
私財を投げだし、治水のための掘削工事を始めた。

ところが工事は困難を極めなかなか捗らない。
その様を見ていた隅田川の河童達が喜八の侠気に感じ、夜な夜な現われては人知れず工事を進め、
さしもの難工事も遂に完成した。

そして、その河童を見た人は、なぜかそれから運が開け、商売が繁盛したという。・・・」 

商店街も “かくあるべし” と感じた次第です。

上野駅近くまで行って、後を振り返ると、大変長い本通りでした。


それから、上野公園をぶらぶらしながら、友人たちのいる東京都美術館に行き、
“書” を愛でて、新橋まで足を伸ばして一杯やりました。
総勢6人なり  甘露 甘露!。