地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

十観山と八子ケ峰 ハイキング

2013-09-26 | ハイキング 里山歩き

十観山と八子ケ峰 ハイキング

 

渋谷区峰の原青少年山の家に宿泊し、山の仲間20人で、二日間山登りを楽しみました。
二日とも雲一つない秋晴れで、最高の行楽日和でした。

 

初日は、長野県上田市に隣接した青木村にある山に登りました。

ハイキング組の十観山(1284m)と登山組の子壇嶺岳(こまゆみだけ 1223m)です。
夫神岳(おがみだけ 1250m)を加えて青木三山の山々です。

私は足腰を慮ってハイキング組にしました。
しかし、ハイキング組の方の山が60mも高いのです。

 

さて、まず行程図を示します。

 

我々は山間の道をマイクロバスで1050mぐらいまで登ってから、ハイキングです。
歩いた距離は2Km余り。登った標高差は300mです。
確かに、登山組より高いものの、登った山道はハイキング並みでした。

しかし、雲一つない快晴で、山の緑は清々しく、展望は素晴らしく開けていました。
下界(塩田平)の稲穂も黄金色に輝き、平和なひとときを味わいなが昼食をとりました。

 

 

同じ道を帰り、途中で登山組と合流して、賑やかに宿に着きました。

 

翌日は、蓼科山の隣の八子ケ峰東峰(やしがみねー 1869m)に登りました。

 

すずらん峠からヒュッテ・アルビレオまでが割合急な坂道で、後はだらだらと白樺湖に向かって下る道のりです。


ところで、ヒュッテ・アルビレオとはずいぶんカッコつけた名前ですね。
紅い屋根の山小舎です。


いわれは、「夏の夜空に輝くはくちょう座のくちばしに位置する星とか。トパーズ色とサファイヤ色の二重星で天の川の宝石とも呼ばれる美しい星です。この山荘からは夜空に輝く星を眺めることが出来る・・・」だそうです。

今日は超快晴で、ぐるり展望が開け、八ケ岳、中央アルプス、北アルプス、浅間山などくっきりと見渡せました。
もちろん蓼科山はすぐ眼の前です。

  蓼科山   

昼食をとったお尻のあたりにはマツムシソウが咲いていました。

群落というほど多くはないですが、きれいな花です。

  

そして、白樺湖畔でお湯につかり、例のごとく一杯やってバスで帰りました。

新宿駅前着 6:30頃。


小石川植物園周辺を散歩して

2013-09-19 | 散策

小石川植物園周辺を散歩して

 

数十年に一度という超大型雨台風の翌日、
快晴の天気につられ、一年ぶりに小石川植物園界隈を散歩してきました。

前回のブログは2012.8.27でした。
蚊に刺され、ほうほうのていで逃げ帰った覚えがありましたが、今回も同じことを繰り返しました。
前回のブログを見ないで行った罰です。

 

散歩コースは下の地図の赤線です。前回と全く同じです。
 

丸ノ内線茗荷谷駅から、はりま坂桜並木の通りをぶらぶら歩いて、11時頃、小石川植物園に入りました。

入場券販売のおばさんの話では、今までで30人ぐらいの人が入っているとのことでした。

 

園内の『薬園保存園』の説明板をお借りすると、

「・・・享保6年(1721)八代将軍吉宗は、ほぼ現在の面積に相当する14万7840㎡に拡張して整備し、翌年には新たに小石川養生所を設けた。・・・
明治10年(1877)東京大学が設置されたのに伴い大学附置となり、近代的研究植物園として再出発したが、・・・御薬園時代に栽培されていた代表的な薬用植物100余種を集めて栽培・公開している。」
とありました。

 

園内の木々は、総じて巨木で、昼なお暗い樹林地帯をきょろきょろ見ながら散策しました。
しかし、前にも書いたように、蚊にやられて早々に立ち退く羽目になりました。

注目した木々を掲載すると、

 ヒガンバナ 木々の中、あちこちに赤い花を見せていました。

  ギンナンノキ 実がたくさんついていました。

 ネムノキ

 ミソハギ 開花時期がちょっと早いようですが、花の形もハギとは違います。

 ヤブラン 

 シロマツ アカマツやクロマツはよく見かけますが、シロマツは初めてです。

 ヒメシャラ サルスベリに似た幹です。
 アテツマンサク 

 

12:30頃出て、次の速念寺に寄りました。
 

文京区指定史跡・特志解剖第一号 『美幾女(みきじょ)墓』( ~1869) を拝見しました。
死後とはいえ、自分の体の解剖を了解するのは苦痛であっただろうと想像します。
今でも、私は嫌ですね。

 

少し背筋に冷たいものを感じながら、やや暑い千川通りを伝通院へ向かいました。
善光寺坂を登り、けばけばしい伝通院にたどり着きました。

  葵の紋が輝いていました。

御大の方をはじめ、千姫ら徳川家ゆかりの女性が祀られているためか、全体が紅くけばけばしく整備されているのが、ちょっと違和感を感じます。

 

 

その後、春日通を後楽園の方に下り、駅前で一杯“生”を楽しんで帰りました。

実は一杯のつもりが、つまみの出るのとちぐはぐになり、三杯になり、いい気分で電車に揺られて帰りました。


日本百名山 21、安達太良山(1700m)

2013-09-16 | 日本百名山

日本百名山 21、安達太良山(1700m)

安達太良山で思い浮かぶのは、先ず『安達太良山の鬼婆』と千恵子抄ですが、
筆者は千恵子抄のことにしか触れていないので、先ずはその辺から・・・。

高村光太郎夫妻が二本松の裏の崖に腰をおろして、
「パノラマのような見晴らし」
 (二本松駅手前の新幹線路上より)

設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:地図との合成表示、高さ強調1.5倍、


を眺めた時の絶唱 『樹下の二人』 の一部を引用すると、

あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川、
・・・
 ここはあなたの生まれたふるさと、
 あの小さな白壁の点々があなたのおうちの酒蔵。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた空気を吸おう。
・・・
 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。 


さて、その登山の案内であるが、
まずその地図と径路断面図を示しておこう。

 

「私は二本松から山麓の岳温泉まで車を駆り、そこから安達太良山に向かった。・・・
(スキー場の)斜面を登りきると、林の中の平らな道が続くが、やがて又急坂になって、勢至平(せいしだいら)
と呼ぶ茫々とした原に出る。・・・

行手に黒々とした岩で厳めしく立っているのが鉄山である。
そのすぐ下にくろがね小屋があった。
だいぶ古びた
山小屋だが、熱い温泉の湧いているのが何よりであった。・・・


小屋で一泊した翌朝は、・・・
雪と岩との急斜面を登って稜線へ出ると、そこは鉄山と矢筈の森との鞍部である。・・・
鞍部から馬ノ背を辿って、大きな岩の立っている矢筈の森を超えると、稜線はゆったり広くなって、やがて乳首の下に出た。
鉄梯子のかかった岩場を登ると、安達太良山の頂上であった。・・・

帰途は岩代熱海の方へ下った。」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)


そして、いよいよ歌舞伎で有名な、『安達ヶ原の鬼婆』の昔語りに移ろう。

《安達ヶ原鬼婆伝説》
安達ヶ原の鬼婆は、その名を『岩手』といい、都のある公卿屋敷の乳母であったとか。

幸せに暮らしていたが、手塩にかけて育てていた娘が病にかかってしまう。
我が子の病を治したい一心から、『妊婦の生肝を飲ませれば治る』という易者の言葉を信じ、遠くみちのくに旅立ち、たどりついたのが安達ヶ原であった。
(京都にいて福島の地を思う心は、多分、当時最北の地と思われていたからでしょうか?) 

木枯らしの吹く晩秋の夕暮れどきのこと。
伊駒之助・恋衣と名乗る若夫婦が一夜の宿を乞うた。
その夜、身重であった恋衣が俄に産気づき、伊駒之助は薬を求めに出て行った。
老婆『岩手』は、待ちに待った妊婦の肝を取るのはこのときとばかり、出刃包丁をふるって、苦しむ恋衣の腹を裂き、生肝を取ったが、
苦しい息の下から 『私たちは小さい時、都で別れた母を探し歩いている』 と語った恋衣の言葉から、
持っていたお守り袋を見て驚愕する。
これこそ昔別れた自分の愛しい娘であることがわかり、気が狂い鬼と化してしまった。

以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を食らうようになってしまったが、
数年の後、紀州熊野の僧『阿闍梨祐慶東光坊』によって射殺されてしまったという。

鬼婆が埋葬されたといわれる黒塚には、杉の大木が生えており、
また、平兼盛が詠んだという歌の句碑も建立されているそうです。

 みちのくの 安達ヶ原の黒塚に
  鬼こもれりと 聞くはまことか

 

 

 

 


日本百名山 19、吾妻山(2024m)

2013-09-13 | 日本百名山

日本百名山 20、吾妻山(2024m)

「一口に吾妻山と呼んでも、これほど茫漠としてつかみどころのない山もあるまい。
福島と山形の両県にまたがった大きな山群で、人はよく吾妻山に行ってきたというが、それは大ていこの山群のほんの一部に過ぎない。・・・」

よく聞く話に、『私は百名山に登った・・・』という話があるが、こうした山塊があちこちにあることからすると、よく耳を澄まして聴く必要がありそうです。

私も、八ケ岳にも西穂高にも登ったことはありますが、実情は硫黄岳であり、ピラミッドピークだけです。
余り自慢げに話さないほうがよさそうですね。

 五色沼から見た吾妻山山塊
設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調1.5倍、


 左図は西吾妻山周辺です  


「(四月上旬)白布高湯を発足点として、その宿屋の前からスキーがはける位まだ雪があったのに、それから頂上までのあいだ、快晴の土曜日にもかかわらず、独りの登山者にも出あわなかった。
まだリフトが全くなかった頃である。
二人はスキーで森林地帯の急坂を登り、人形石の峰に立つと、当の西吾妻山は気の遠くなるほど遥か向こうにある。
そこまで行く山稜は、稜線というより広大な高原で、ここへきてはじめて吾妻山西部の雄大なスケールを見た。」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

 


日本百名山 19、飯豊山(2128m)

2013-09-10 | 日本百名山

日本百名山 19、飯豊山(2128m)

「私は教えられて磐越西線の車窓からあざやかに眺めた。見えたのは飯豊本峰から大日岳へ続く長大な稜線で、真夏にも拘らず、山腹にはまだ多量の残雪をおいていた。
会津側が飯豊の表登山口となったのも、そこから一番よく山が見えたからだろう。」

 (喜多方市から見た飯豊山峰)

設定:カメラ:PRO、レンズ:50mm、風景:雪の季節、、高さ強調1.5倍、

 

「私たちはまず北側から杁差 (えぶりさし) 岳に登り、地神山、門内岳、北俣岳などを経て、最高峰大日岳に登り、更に御西岳から飯豊本峰に至って、帰りは、牛ケ岩山の尾根を辿って、五枚沢へ下りた。・・・
全行程中、山小屋一泊、テント三泊、そしてその始めと終わりには雲母(きら)温泉と熱塩温泉という結構な宿りがついた。」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用

山小屋一泊、テント三泊の行程はすごいですね。
山登りって大体はこんなものでしょう。
我々のグループが行く登山は、誰やらが云ってたように、ハイキングですね。

 

行程に入っている雲母温泉とは?

「雲母」は「きら」と読みます。発見した人の名前に由来するそうです。

荒川をはさんで高瀬温泉の対岸にある温泉です。
山には登れそうにもありませんが、名称につられて、この温泉には行ってみたいですなあ~!

 

さて、この飯豊山峰には、三国の境・『三国岳』があります。

今で云う、山形県(羽前、・・・)、新潟県(越後)、福島県(岩代、・・・)の境です。

その境が、廃藩置県の際、ちょっと揉めて、変な境界になっています。
その形は次の地図の如しです。

 通常の2.5万分一地形図

 福島県境の詳細

 

廃藩置県の際、飯豊山神社の奥宮(新潟県側)が麓宮(福島県側)と分離されました。
そのことで、一の木村(現・福島県喜多方市)が、『飯豊山神社は、奥宮と麓宮で一宮である』として反発したそうです。

その結果、内務省裁定で飯豊山神社までの参詣道は福島県側になり、現在のような変な県界になりました。

三国岳付近から飯豊山を経て御西岳の西にある御西小屋付近に至る約7.5kmの登山道と
飯豊山頂の神社境内地は福島県に属しました。

また、三国岳から御秘所(おひそ)、御前坂に至る約4キロメートルは、幅約91cmの道だけであり、
飯豊山頂と飯豊山神社付近は最大300mほどの幅になっています。

 

同じようなことは、全国に結構あるようです。

大阪市と松原市の境(盲腸市境)も奇妙ですね。

いずれ纏めてみましょうかね???

 

 


日本百名山 18、蔵王山(1841m)

2013-09-04 | 日本百名山

日本百名山 18、蔵王山(1841m)

 「蔵王には、鳥海や岩手のような独立標高の姿勢がない。
群雄並立といった感じで、その群雄を圧してそびえ立つ盟主がない。
山形から見ても、仙台から見ても、一脈の山が長々と連なってるだけで、その中に取り立てて眼を惹くような、抜きんでた高峰がない。・・・
だからわれわれが蔵王と呼ぶ時には、この一連の山脈を指して云う。・・・
もしも最高点を盟主とするならば、それは熊野岳・・・」

  仙台市から望む蔵王山

設定:カメラ:PRO、レンズ:50mm、風景:雪の季節、、高さ強調1.5倍、

 

「高湯から登り、熊野岳、刈田岳を経て峩々温泉に下るのがコースで、この二つの峰の間が馬の背と呼ばれている。
高原状の広々とした尾根で、冬吹雪に会うと迷いがちなのでスキーの難所とされているが、夏は公園のようなのんびりした遊歩場である。・・・」

 

「お釜と称する山上湖は蔵王の宝玉ともいうべき存在で、それのために馬の背の逍遥は一段と精彩を加える。
直径三百六十米、ほぼ円形の湖水で、そのふちの東半分は、削り取ったように断崖になっていて、その崖に横縞に入っている色彩が、何とも云えぬ微妙な美しさを呈している。鉄錆色と云うか、それを主調に、いろいろの色が混じっているので、一名五色沼の称がある。
 刈田岳から望む御釜(五色沼)

お釜の水は怪しく濃い緑色で、噴火口特有の一種凄惨な趣がある。」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

 

何年か前、会社の同僚たちと行ったことがあります。その時は素晴らしい御釜を見る事が出来ました。
多分、刈田岳の駐車場から眺めたのでしょう。
また、近いうち(11月上旬)に行きます。今度は鉄錆色の断崖を注意して見ることにしましょう。